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CREA vol.376 「母の娘だった私が、母になるとき。母って何?」

先日syuさん、COTAさんと話をしたときに、syuさんが「読みました?」と言って教えてくれた雑誌を買った。

いろんな人のインタビューや対談を読みながら、共感したりしなかったりがあった。自分の感想をまじえながら、メモを残しておきたい。

イモトアヤコ

女の人は母親になったら変わると言われることがありますが、もともといろいろな種類の仕事をしている自分、生活をしている自分がいて、そこにお母さんというキャラクターがいっこ増えた感じなんです。

わかる。母になるからといって、それまでの自分を構成していた属性(というのかな?)に変化が加わることはあっても捨てる必要はないし、捨てることを他人から強要される筋合いもない。新しい属性、ラベル、キャラクター、そういうのが加わるという捉え方に共感。
これは人生のあらゆるステージで起き得てきた変化でもあって、母が特別なわけじゃない。それでもどうしたって特別視されて/してしまうのは、少なくとも自分と赤ちゃんの命がかかっているからなのかな。

コムアイ

自己犠牲の精神で接するのは子どもに対して失礼だと私は思うし、親が人生を楽しむ姿を見て育ってほしい。

「子どもに対して失礼」というのはすべての場合に当てはまるとは思わないけど、自分にやりたいことがあるのを子どものせいにして諦めることはしたくないし、それはずるい態度だと思う。もし「ここは自分が犠牲になるしかない」と思ったとして、子どもに悟られるようではいけないと思う。ただでさえ子どもは大人よりも感性が鋭い。その感性の自由のために、親も人生を楽しまないとね。

peco

子どもがいる今、自分の欲求だけで離婚したり別居したりするのは、親として責任に欠ける行動ではないかと思っているんです。

pecoちゃんのインタビュー、今の私には同じ状況になることがうまく想像できなくて何かを思うことが難しかった。でもパートナーとの関係や子どもとの関係、コミュニケーションを重ねる姿勢というのは絶対的に見習いたいな。変数が多くて一つの状況を仮定して考えることすら難しいけど、現時点でのpecoの考え方は尊重されるべきだよと思う。

松田青子

一人暮らしの頃は、最低限の社会とのかかわりでやっていけるはずだと思っていたところがあって、でも、子どもができたとたん、単純に役所などに行く回数も増えましたし、そういうわけにもいかなくなって。自分の生活に政治や社会が直結しているという感覚がさらに鮮明になりました。

いやほんと、そうだなと思った。独身のときは地に足つかない状態でもまぁいいやって私は思ってたけど、結婚を機にすごくいろいろなことを思うようになったし、ましてや「余計に不条理な状況に陥って」いるなかで産もうとしている。状況が劇的に改善するのを期待して待っていたらいつまでも踏み切れないし、自分が当事者なんだという意識でもって政治に物申していくしかない。
松田青子さんの著書もそうだけど、性をめぐる社会問題やフェミニズムなどをテーマにした本は、読むと共感しすぎて苦しくなるから普段は避けがち。でも『自分で名付ける』は読んでみたいかも。

瀧波ユカリ

今はイクメンなんてわざわざ言わないけど、あの言葉が出てきたことで『イクメンじゃない人はちょっと』みたいな空気が世の中にできたのは、大きいと思うんです。

このコメント、さすがすぎませんか? わたしなら「イクメンなんてもう死語」「まだイクメンとか言ってるなんて笑えるわ」と口を滑らせてもおかしくないところを、数々の修羅場をくぐり抜けてきた先輩の見解は深みがちがうなと尊敬する。その通りだと思う。保守勢力に足を引っ張られながら、遅々とでも前進しているのは、先輩方のおかげです。当たり前のことだけど言葉ってバカにできない。
「保育園落ちた日本死ね」は2016年、「ワンオペ育児」の日本語対象ノミネートは2017年、そんなに昔のことだったっけ(大して変わらないじゃん)という怒りや絶望感もありながら、いよいよ実質的にも当事者になってしまうので、ただ指を咥えて見ているわけにいかない。

齋藤薫

誰にも何も残す必要がないからこそ、今できることがあるというロジックにシフトしてみた。ましてや人それぞれに使命があるならば、母にならない分だけ、何か世の中の役にたたなければまずいんじゃないか、何の役割も持たない大人になってはいけないのだと、思うようになったのである。

「私が産まなかった理由」というエッセイ。この間の「子供産まなくてよかったです、マジで」から受けた印象とはちがって少し寂しい気持ちになったのは何故だろう。
子どもをもたない選択をするのにエクスキューズはいらない。子どもをもつ選択にだってエクスキューズはいらない。自分がわかっていれば、パートナーとわかり合っていればそれでいいはずだ。でも、言いたくなる気持ちは理解できる。それはこの社会から襲いかかるプレッシャーのせいが大きいのだと思う。母にならなくてもいいし、なってもいい。心からそう思う。

清田隆之

家の中に「ママ」「パパ」という言葉が存在しない現状はちょっとお気に入りかも(笑)。

子どもの前でもパートナーのことを役割名称で呼ばないというのは理想的だと思う。私自身は両親のことをお父さん、お母さんと呼んできたし今もそうだけど。子どもからお母さんと呼ばれることが嫌だとは一切思わないけど。
義理の母、義理の姉については名前で呼ぶようにしていて、人様の妻や夫も名前を知っていれば名前で呼ぶ。ただ、今実家で暮らしていて、姪や甥と話すときに「ママ(私の妹)」「パパ(私の義弟)」と自然に言ってしまっているなあ。もやもや。

ヤマザキマリ×内田舞

人生に絶望していたタイミングでの妊娠ですから諦めるのは簡単ですが、逆に捉えればこれはもう自分のためだけに生きるのはやめろという意味なのかなと思ったんです。

この対談は全体的にとても刺激的だった。これはヤマザキさんが産むことを決意した時の心境として語っていることなのだが、状況はちがうけど私も妊娠を考えたときに「自分のためだけに生きる」ことをいったん手放してもいいなと思えたところが似ている。
自分のためだけに生きる人生は魅力的で、すてきだ。でも今の私には「この人のために」と思える人がいて、その人との子をうむ。それもきっとすてきなことだ。

おかざき真里×宮崎薫

選択的シングルマザーについては、生まれてくる子への社会的な支援が整っていないため、まだまだ難しい面があります。当時も今も、普通とは違う選択をしようとしても、世間や周囲が許容しないという理由で諦めなくてはいけないことが多いですよね。

不妊治療のテーマで「おかざき真里はなぜ青年誌で「胚培養師」を描くのか?」という対談。子どもをもちたいけどもてない人たちがいる。私たちもそのうちの一人だった。ステップアップが必要になれば、もっとずっと重い悩みを抱えたかもしれない。まったく他人事ではない。
そもそもいろんな選択肢が増えてきたなかで、主体的に選択できる意志があったとしても、社会がそれを許してくれないという理不尽をどうしたらいいだろう。なぜ当事者でもない「世間」や「周囲」に許してもらわなくてはいけないんだろう。
こういうことが日本には多すぎることに、もうウンザリだ。連帯を広げていきましょう。

雑誌の感想文で3000字も書くとは思わなかった。syuさんありがとう。

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