愛は「気がつけばそこにあるもの」なのか

愛はきっと奪うでも、与えるでもなくて
気がつけばそこにあるもの

パートナーとの週末ドライブも後半戦、帰り道の高速を飛ばしている時、ふとこの歌詞が流れてきた。何度も聴いたこの歌だけれど、なんだか今回は特別に耳に残った。

私とパートナーとは付き合って3年になり、また一緒に暮らし始めてもう1年以上が経つ。同棲を開始する前、周囲から言われていたような喧嘩もすれ違いもなくやってきた。「いつ話を聞いても仲が良さそうだからいいね」なんて言われたことさえある。

四六時中彼のことを考えているわけでも、胸が張り裂けそうなくらい大好きなわけでもない。けれど、嫌いとか居心地が悪いとかそんなことも思わない。きっと、「良い関係」で「お似合い」なのだと思う。

そしてここにあるのは、「奪われたり与えられたり」するタイプではなく、「気づいたらそこにある」タイプの愛なのだろう。

でも、「気づいたらそこにある」タイプの愛には年齢制限があるように思う。年齢といっても、物理的な生きた年数というよりは、その人自身の経験値といったほうがいいかもしれない。

「気づいたらそこにある」タイプの愛を良いと思えるまでには、そもそも存在に気づくためには、人は経験を積まねばならない。その中には、奪われる恋も、無理やり与えて爆発する恋もある。「気づいたらそこにある」タイプの恋は、熟練者だけに見えて良さがわかる、オトナな代物だ。

私はいま、「気づいたらそこにある恋の良さがわかる風の理性」と「とはいえもっとわかりやすい恋の形を求めてしまう欲望」のはざまで揺れ動いている存在だ。本当の意味で「気づいたらそこにある」タイプの恋の良さに気づけるまでには、まだまだ時間が必要だ。

「気づいたらそこにある」タイプの恋は、実際には見えないものを2人で支え合う協働で成り立っている。バラの花束でも、記念日サプライズディナーでもなく、ふと目があったり、行動や感情を読みとって先回りしたり、そんなところに表出してくるのが、この恋だと思う。

わかりやすいシグナルとしての愛情表現は若さの特権だった。これからはゆっくりじっくり、根っこを広げて行こうと思う。花が咲くことを期待するわけでも、無理やり引き出すわけでもなくて、自分の心の中で「この根っこがあるから大丈夫」と思える、しっかりした根を張ろう。


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