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「満島エリオ」になりたいな。

このあいだ掃除したはずの部屋がまた荒れ始めた。

確認してから捨てようと思っていたレシートの山、干したままのTシャツ、しばらく掃除した記憶のない排水溝。
雑に塗ったマニキュアはすぐに剥がれて、地爪の色が見えているのをいっしょうけんめい隠しながら人と会話する。

超絶忙しいというわけでもないが、帰宅はなんとなく10時。
夕飯はなんとなく11時近く。
その後すぐお風呂に入って寝てしまえば、翌日早く起きて生活サイクルを健全に戻すことができるのかもしれない。でも、何もしていない今日の夜が終わってしまうのが惜しくて、未練がましくスマホでSNSを開く。

アカウントの中では、「満島エリオ」の書いた文章が並んでいたり、「満島エリオ」がSNSで仲良くなった誰かとリプを飛ばしあったりしている。
それを見ながら「私」は思う。

ああ、満島エリオになりてえなあ。

*

「満島エリオ」というのは本名をもじったペンネームだ。
確認したら、2013年の年末、ブログを始めるときに命名していた。
満島エリオ、おまえ、5歳半か。

本名のもじりだけど、一応由来はある。
「満島」は女優の満島ひかりさんから。
美しくて、でも個性的で、彼女にしか立てないポジション、彼女にしかできない表現を持つ人という印象で、そういうふうになりたいと思ってつけた。

「エリオ」は、『電波女と青春男』というライトノベルに出てくるキャラクター「藤和エリオ」から。
理由は、アニメに登場した藤和エリオが超絶かわいかったから。そんだけ。

『電波女と青春男』のアニメは途中で見るのをやめたし、原作も読んでないので詳しいストーリーは知らない。自称宇宙人の藤和エリオが本当に宇宙人だったのか、顛末を知らない。
さらに言うと、満島ひかりさんのこともそんなに詳しくない。

別にそれでよかった。
私は満島ひかりさんになりたいわけでも藤和エリオになりたいわけでもなかった。なりたい自分になるための指針としてつけた名前だった。

とにかくそうやって、文章を書くための人格として満島エリオは出現して、今まで変わらず文章を書いている。

*

現実の私はダサい。
字がヘタだし、マニキュアはしょっちゅう剥がれるし、ブリーチを繰り返した髪の毛はバサバサだし。
卵やら牛乳やらしょっちゅう賞味期限を切らすし、平気で食べるし。
こないだ仕事で年下の子に怒られたし。
自分で望んで就いた仕事なのに、仕事一筋になれないのがコンプレックス。
さりとて物書き一本でやっていく気概もない。色んなことに手を出しては途中で飽きたり嫌になったりして放り出す。
現実の私は、いつもどうしようもなく中途半端だ。

扇風機を見て思う。
風を起こして涼しくする。なんてシンプルな存在なのか。
消しゴムもそう。ただ消す、それだけ。存在意義が実に明確。
皿もいいね。椅子もいい。目的がシンプルで無駄がなく、美しい。

私にとって、満島エリオはそういうものに近い。
文章を書くためにつくり出され、文章を生み出し、周囲からもうそういう存在として認知されている。
満島エリオのマニキュアは汚く剥がれたりしないし、流しに洗い物が溜まったりもしない。
仮にそういう表現があったとしても、それは演出のための小道具だ。意図せず配置される言葉はない。
満島エリオのすべては言葉での表現のために在る。
シンプルで、純度が高い。扇風機や皿と同じ。

最近、書いたものを読まれたり認められる機会が少しずつ増えて、それとともに「エリオさん」と呼ばれることが多くなった。
「私」という存在のうち、「満島エリオ」の占める割合が大きくなってきている。
なおさらに私は思う。

早く、100パーセント満島エリオになってしまいたいなあ。

現実の、肉体を持つ、戸籍上の名の自分も嫌いじゃない。
「私」は「私」で好き勝手に暮らしてるからね。
でも、もしどちらか一つの人格に統合しろと言われたら、私は満島エリオになりたい。
「満島エリオ」は、姓から名まで、その存在意義から紡ぎだす言葉まで、一滴も余すことなく私が選び、私が望んだ姿そのものだから。

自分の書く言葉の中にだけ宿るその人に、私はずっと憧れている。

#エッセイ #コラム #ペンネーム #名前


ハッピーになります。