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私たちはどうしたって自らを生きるしかないんだ/【感想】汝、星のごとく

「汝、星のごとく」 凪良ゆう

月に一度、夫は恋人に会いに行く。
明日まで、あの人は私の夫ではない。
━━━「あんたんち、ほんと、すごいね。異常だよ
汝、星のごとく プロローグ

どこまでも広大な水平線、息苦しい程の潮の香り。美しい海が目の前に広がる、とても閉塞的な瀬戸内の島。
そんな島で出会う高校生の暁海と櫂は、それぞれの親に背負わされた境遇が、本人たちの意思なんて知らずにそれが宿命だと押し付ける。
愛した夫が浮気相手の元に通うのをただ見つめながら、精神が崩れていく母を支える暁海。自由奔放な母の恋愛に振り回されて島に転向してきた櫂。子供である自分を忘れたように愛に飢える親を前に、埋められない欠落感と孤独を抱えた二人が出会い、すれ違いながら大人になっていく。
夢を追いかけて東京へ行った櫂と、母を支えるために島に残った暁海。
何が正しくて、間違っていて、それが何だって言うのだろうか。

「まともな人間なんてものは幻想だ。俺たちは自らを生きるしかない。」
汝、星のごとく

2020年本屋大賞受賞作品「流浪の月」の著者凪良ゆうが綴る、生きることの自由と足枷を息が詰まるほど鮮明に描いた人生の物語。




どっひゃぁぁ〜〜〜〜!!!!!
こりゃまたえらい傑作に出会ってしまった。
凪良先生、本当に本当に大好きです。

凪良先生には「流浪の月」で出会い、その一冊はあまりにも鮮烈で私の人生のベスト本にしっかりと刻ませていただいているのですが……
期待値を圧倒的に超えてきた。
作中の文一つ一つが、陽に照らされた海のように煌めいては、星のように零れ落ちてしまいそうなほど儚くて。
「流浪の月」の時から思ってたけど、凪良先生の描くヒューマンドラマはあまりにも現実で、苦しくて、美しいんだよなぁと惚れ惚れ。今回はその好きをふんだんに語っていくわよっ!



高校生って、子どもで、大人で。

自分も高校生の時、不思議な感覚だったなって。
義務教育は終わり、自ら選択して進学という道をとって。電車もバスも大人料金、選挙権だって渡されて、先生たちは大人としての振る舞いをって自立を急かす。それでも、タバコもお酒もまだダメで、夜道を歩けば補導されて。そうやって、選択の自由が増えて、それでもまだ人生の練習段階だからと社会的に守られる年齢。
そして、人生の大きな分岐点の前に立つ年齢。
好きなことを無責任に楽しむ時間があって、それが許される。でもその時間が永遠ではないことを知っている。そんな中で出会った本作の主人公暁海と櫂は、自分のやりたい事と背負っているものを前に選択を迫られる。

「頼らんでええ、使ったれ。
ただでさえ俺ら使えるカードが少ないんやから。持っとるもんは全部無駄にせんで活かさなあかん」
汝、星のごとく 第一章

生まれながらに抱える環境は全員違って、選べなくて。
精神的、身体的、金銭的。色々なことを理由に、理想とは違った現実を押し付ける社会は高校生の彼らにとってあまりにも強大で無慈悲だ。
自らの夢を追いかけて上京する櫂と、鬱になってしまった母を一人にできないと夢を諦める暁海。
自分の夢を諦めないことが正しいことなのか、家族を支えることが正しいことなのか。私たちは誰に許可を取れば自らの自由を選択できて、過去の選択を一体誰に許して欲しいのだろう。

「自分の人生を生きることを、他の誰かに許されたいの?」
汝、星のごとく 第一章

誰に赦される必要もないことなんて頭ではわかっていて、それでも怖いのだ。自身の選択が間違っていると後ろ指差されることが。いつだって何か理由を探していて、いつかその理由は言い訳に変わる。「〇〇のため」は「〇〇のせいで」に姿を変えて、決して戻れない所に立った自分の背中を嘲笑う。自分以外の誰も、自分の人生の責任は取ってくれない。
それでも、何かを諦めることはいつだってとてつもなく怖い。

あったなぁ〜〜。ってなる??
どうしても諦められそうになくて、それでも未来を考えれば不安で足が竦むから、もう諦めてしまおうかって悩んだ瞬間。
私はあったなぁ。この本で主人公が抱えていたものはあまりにも大きくて、彼らにはどうしようもできないようなことだったけど。
進学や、夢のこととか。諦めるには早すぎて、人生の責任を取るにも早すぎる高校生って本当に難しい。
それでも、人生はいつだって選択の連続で、今立っているこの場所はこれまでに私が選択してきた結果の上。何を理由にしても、結局選んできたのは自分自身。
これからも、未来の私が胸を張れる”今”を生きられるように選んでいくしかなくて。これまでの選択を間違いではなかったと自分自身に証明するために、今を全力で生きるしかないんだとわかってる。




親から子ども、じゃあ子どもから親は?

この物語は、主人公の暁海と櫂が出会い、成長しながらどうしようもなく惹かれ合うストーリーを主軸に、ネグレクトヤングケアラーといった社会問題を忠実に描いているからこそ、目を背けたくなるほどの現実を纏っているなと感じてまして。

ヤングケアラー
         
本来大人が担うと想定されている家事や家族の世話などを日常的に行っている子ども。
厚生労働省HP

作中に登場する暁海と櫂が在籍する学校教員、北原先生という人物が暁海にこの言葉を教えます。一般的にヤングケアラーと呼ばれる子たちのほとんどは、自分自身がそういった環境に侵されているのだとも知らないまま、それがただ現実として続いていく理不尽さ。
━━親の人生まで、子供が背負わなあかんのやろか。
この本を読み進める中でずっとあった疑問、感じていた理不尽さはこれ。でもこの問題って難しくて、これを書きながら色々ぐるぐると考えながら(本当に二時間ぐらいウンウン考えてた、親と子の立場的違いや相互的関係と庇護的関係とか色々。でもこの辺は社会的にも意見が分かれそうだから置いとくとして)出た結論は、「背負うこと」を押し付けられてはいけない。っていうこと。このことについては作中でものすごく綺麗に落とし込まれたストーリー展開になってるので是非読んで確かめてみてほしい。「背負うしかないから背負った結果」と、「背負うことを選んで背負った結果」が招く現実が一緒だとしても、過程や事実の受け止め方はこうも変わってくるのかと納得させられてしまう。

「私には、家族を支える責任があります。」
「ありません、そんなもの。
 子どもが親を養わなければいけない義務はありません。」
汝、星ごとく 第三章

今の環境を自分の責任だ、宿命だと受け入れていた暁海に対して、間髪入れずに否定する北原先生。「そんな正論で割り切れないじゃないですか」と答える暁海に、思わず息が詰まります。正論はいつだって正しくて、ただそれだけ。助けてくれるわけでも、どこか遠くに連れ出してくれるわけでもなく、ただ正論という言葉の鋭利さが当事者をさらに傷つける。正論を唱えてどうこうできるなら、とっくにそうしてるよと叫び出したくなってしまう。

「ええ、割り切れません。ぼくたちはそういう悩み深い生き物だからこそ、悩みの全てを切り捨てられる最後の砦としての正論が必要なのです。」
汝、星のごとく 第三章


ものすごく現実的で、厳しくて、苦しいことだけど
結局誰しも等しく、自らを生きるしか術はない。生まれた環境も、国も、親も、家も、容姿も、体も、才能だって何だって選ぶことも取り替えることもそう簡単にできない。どんなに憧れたって「あの人」にはなれないし、どんなに苦しくたって誰も自分の人生を代わりに生きてはくれない。
どんな理由があったって、それをどんな言い訳に使ったって、結局自らを生きるしかないのだから。手持ちのカードで、どうにかしていくしかないんだと、作中を通して息が苦しくなるほど訴えかけられる。それは親も子も等しく。

あ〜〜だめだ難しい、言いたいことも考えてることもたくさんあるんやけどな。上手くまとめきれないし、どんな立場に立つ人のこともこの文章で傷つけたくはないし。勿論非難もしたくない。
だからなんか、いいようには締めくくれへんけど。
ただ一つ、私がどうしてもこの主人公たちに言いたくなることは
己の生きたいように、自由に生きることは、時にとても怖くて孤独だけど。それでも、いつだって自分の自由のために手を伸ばしていいことを、どうか忘れないでほしい。





「選ぶこと」 と 「縋ること」

あなたの、私の、今までの人生を振り返って。今まで下してきた選択は、本当に選んできたことだったのか。
進学や上京、仕事といった人生の岐路を通して、本作では「選ぶこと」と「選ばされること」を鮮明に描き分けている。暁海と櫂が下す数々の決断が、自ら覚悟と意思を持って決めたことなのか。それとも、社会や環境が、否応無しに「選ばせた」ことなのか。招く結果がどうであれ、二人はその違いの中で息苦しさと摩擦を感じる。

「選ばされること」って、「縋ること」と同じなんじゃないかなぁって、読了後ぼんやりと考えてたの。「この人がいないと生きていけない」は、この人に縋ること。「この人と一緒なら東京に行ける」っていうのは、この人に縋るしか東京に行く術がないってこと。
縋ることとは依存することで、依存するということは人生の足枷として絡み付いてくる。真に自由でいるためには、経済的にも精神的にも自立していなければならない。その基盤がある上で初めて、全ての選択が自ら選び抜いた結果になるんやなと物語後編にかけて痛感させられる。若かりし日に選ばされた選択が間違いだったと気づいた時、人はひどく後悔するのでしょう。悔やんで、やるせなくて、でも巻き戻すことなんてできないのだとまた絶望する。だから、また自らで選んでいくしかないのだと強く自覚する。


だからと言って、自立した人がいつだって正しい選択ばかりをとるとも限らない。いつの時代でも人は未完成で、強欲で。だからこそ、自ら過ちだとわかっていて踏み出したくなる時がある。作中に登場する北原先生や、瞳子さんという人物を通して、本作では自ら選んだ誤ちを残酷なまでに浮き彫りとして描き上げています。それは決して世間一般では受け入れられない、「正しい愛」の形ではないのかもしれないけれど。それでも彼らはまた必死に考え、恐れ、そして最後には誤ちだとわかっている方を決断する。

「この物語の中では、いろんな恋愛の形を書きたかったんです。暁海と櫂のふたりについては、真っ直ぐな恋愛を。」

「一方で、一筋縄では行かない恋愛のこともしっかりと見つめたかった。(中略)それぞれが懸命に恋愛をしているなかで、そこに善悪の視点を持ち込むことは避けたかった。暁海と櫂の恋愛だけが美しくて、不倫などの恋愛はすべて悪、みたいな単純な構図にはしたくなかったんです。」
WEB別冊文藝春秋
「愚かに生きる覚悟さえあれば」 凪良ゆうインタビュー談

「汝、星のごとく」を読了後、このnoteを書くにあたってたくさんの言葉をすごく慎重に選んでいる自分がいて。でもそれは、誰のことも非難したくなかったからなんだなぁと。
代表作「流浪の月」や、「わたしの美しい庭」「滅びの前のシャングリラ」そして本作を通して、私が凪良先生の作品から学んだことは「真実は当事者のみが知っている」ということ。数々の作品の中で、決して王道とはいえないたくさんの愛の形を描いてきた凪良先生だからこそ、世界中の誰も理解できないような、誰にも理解されなくていいと思えるような関係があることをこんなにも美しく描けるのでしょう。それらは決して絵空事でも綺麗事でもない。きっと今日もどこかで今を生きている誰かの物語なのだと身近に感じられるからこそ、私は何一つ推し量ることも知ることもできないのだと強く実感させられてしまう。
そんな当事者自身である彼らは、自ら選んだ誤ちを何一つ後悔していない。島の住民に、家族に、誰に間違っていると指さされても「選んでよかった」と思えるには、一体どれだけの覚悟と勇気が必要だったんだろう。
真の意味で自ら何かを選択した彼らは、誰にも介入されない心と意思の中でだけ、その真実の物語のページをめくり続けていきます。
きっと彼らには、誰の賛美も、批判も、同情も、理解も、もう必要ないのだと思い知らされてしまう。強かで美しい自由が静かに灯る物語には、圧巻でした。




めっちゃ真面目なこと書いた気がするけど

ものすごく長くなってしまった気がする……いやほんとはもっと長い予定で、でもあまりにも長すぎて誰か読んでくれてる?って思ったから頑張って削ってみたのよ?
それでも、ここまで読んでくれた貴方に本当にありがとう。
どんなに私が言葉を尽くそうと、この物語を超える賞賛の言葉は紡げないので。
ぜひ読んでくれ!の一言に尽きるな。結局。
いろんなことを考えさせられて、心の中に濁流が押し寄せてくるほどの感情の渦が荒立つ物語。でも最後には必ず、何か生きる希望のようなものを感じさせてくれる。凪良先生が描く世界も人も、いつだって目を背けたくなるほど現実で、醜くて、それが酷く愛おしい。
「最っっっっっっ高か!」と語彙力飛ぶ。
だからぜひ、読んで語り合おうや。

すごく長くダラダラ書きながら、誰がこんな量読むねん…と思いつつ、誰も興味がないような内容を書くとしても、私が書きたいのなら気が済むまで書こうと思ったよねん。ここは不可侵な私のnoteなので!


それではまた、お腹減ったから夜食食べてくるわ。
おやすみ〜!!!

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