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エッセイ:汽水記 第4回/「これから生きる野の記憶」

なくても ある町。そのままのままで なくなっている町。電車はなるたけ 遠くを走り 火葬場だけは すぐそこに しつらえてある町。みんなが知っていて 地図になく 地図にないから 日本でなく 日本でないから 消えててもよく どうでもいいから 気ままなものよ。

 五月末、大阪市内に引っ越してひとり暮らしをはじめた。

 三月末、勤めていた北摂の大学の任期満了にしたがって退職し、大きな赤い花だけの花束をお世話になった助教の先生方からプレゼントされ、なぜなのか教授の子どもがゾンビの話を嬉しそうに披露してはわたしにプレデターの良さの同意をもとめはしゃぎまわる謎の送別会を開催していただき、それでもうその大学にはあっさりとさよならだった。

 大学院を出てすぐに就職した本屋を辞めて、心身ともに疲れていたわたしが偶然みつけた良い職場だった。小さな、けれど膨大な量の資料を所蔵した、とある大学院の研究室で、所属の先生方はいつもおだやかで、チャーミングで、おやつを食べ、いま読んでいる好きな本の話をしながら時には先生と一緒にパンダのライブ動画を視聴し、赤ちゃんパンダの毎日の成長を見守った。わたしが勤めていた二年半のあいだに東に一頭、西に一頭の赤ちゃんパンダが生まれた。もちろん仕事もちゃんとした。毎年この初夏の時期には研究室のすぐ外に大ぶりのみずみずしい枇杷がどっさり実って、上の階に研究室のある陽気な先生に指導してもらい、わたしも窓から身を乗り出して果実をもぎ、両手いっぱいの爽やかな枇杷を冷蔵庫でひやして食べた。そうするともう、すぐに梅雨がやってくるのだった。

 五年前に本屋を辞めたあとの無職の期間はいまより若かったこともあって、勤めていた時にできなかったことはぜんぶしてやる勢いで遊んだ。けれども今回の無職の期間はほとんど遊んだりしなかった。しなかったのか、できなかったのか。わからないけれど数日に一度ミナミにちょっと飲みにでるくらいで、DJの出演をしたりはあったけれどそれも粛々とこなしてあとはもう家でひたすら寝ていた。本もあまり読まなかったように思う。映画はけっこうたくさん観ていた。

 退職したその時期にちょうどDRESSというWebメディアからエッセイ原稿の依頼がきて、初めてお金をもらって自分の文章を外の世界に放つという行為を経験した。
 編集さんはわたしがnoteに綴っているこの汽水記を読んで依頼をくださったのだと言っていた。
 汽水記をはじめたのは、本屋時代に同僚だったイラストレーターの友人とふたりで一緒に何かをつくってみたかったのと、そしてもしそれがこのインターネット大創作時代、だれかに見つけてもらえたらとても幸せなことなのかもしれないよね。と、ふと考えたのがきっかけで開設して、これまで本や雑誌なんかのアナログ媒体か古いタイプの個人ブログにしか触れてこずWebエッセイというジャンルを読んだことも書いたこともなかったのに、まさかそれが三回目に書いた記事で現実のものとなるだなんて思ってもみなかった。小説の新人賞に落選しつづけるわたしにもまだ小さな運がひとつだけ残っていたらしい。最果タヒの『グッドモーニング』が中原中也賞を受賞した時に選考委員の高橋源一郎が選評で〈やあ、きみはこんなところにいたのかい。おはよう。おはよう。〉のようなことを確か言っていて、わたしは、自分の文章を誰かに見つけてもらえたらその瞬間、いつもこの他者の作品の選評を憶い出すのだった。他者の選評。良い選評だからずっと記憶に残ってる。おかしな話。でもDRESSの編集のKさん、あの時、わたしを見つけてくれてありがとう。果てしないインターネットの海の底からまるでピンク色の貝殻をひとつ拾ってくるみたいに見つけてくれて、わたしはほんとうに嬉しかった。

 それで、その寄稿したエッセイにわたしはこれから地元を離れ、生まれてはじめてひとり暮らしをするために引っ越すのだと書いて結んだ。

 パブリックな場で書いたからにはもうどうしたってぜったいに実行しなければならなくなってしまい、大学を退職してからのモラトリアム期間、コミュニケーション不全のこのカラダに鞭打ちテキパキと行動を起こした。親への説明、援助のお願い、生活費を稼ぐ新しい昼職を見つけてくること、それから何より新しい街と家。

 もしもひとり暮らしをするのならば大阪市内がいいというのは大学生時代から思っていた。
 東京に憧れていた時期もあったし、京都のあやかしい街並みを自転車で駆け抜けて毎日演劇や小説のイベントに行く自分をこれまで何度も何度も想像した。けれどそのいずれもいつだって夢半分で、自分の人生に訪れる彩りだとはなぜなのか予感できなかった。だからそういう文化的な生活は平行世界の自分に体験してもらうことにして、この世界の自分はあくまで地続きの想像の先で生活しようと考えた。小説や詩や映画や演劇や、そういう文化や芸術を主食にして生きているといつだって中心都市がうらやましい。東京や京都に生まれ過ごせないでいるのをかつては悔しがったりもしたけれど、いまはちっとも思わない。きっと「ふつうの」街のほうが、その世界の権力の生臭さや消費スピードの速さから物理的に遠く隔てられていて、自分のペースで作品に触れて作品をつくれて、好きなひとと繋がることができるだろうから。

 大阪市内といっても広い。24区もある。というより、地元にはいままで存在していなかった「区」という区分に生活として接するのが初めてだった。兵庫県の最東南端に生まれ育ったわたしは中学生以来あそびにいくといえば「大阪」、大学時代からこっちの生活の基盤は昼も夜も「大阪」で、兵庫の地元に帰るのは着替えとお風呂と睡眠くらいだった。

 関西以外のひとは兵庫と大阪が遠いと想像しているかもしれないけれど、兵庫や京都の南部と奈良のあたりはとくに大阪と地続きだ。なにせ交通的にも便利でさまざまなものに恵まれたほどよく都会風の地域だと、実家を出ずに大阪で遊ぶひとはけっこうたくさんいるような気がする。わたしもそうで、三十年間地元を出る予定などこれまでまったく立たなかった。

 大阪で朝になっても夜になっても遊びほうけてきた十年のあいだにいろんな場所へ足を運び、親しみ、大阪にひとりで暮らしている友人たちから得た情報のなかで最初にわたしが引っ越したいと考えたのが天王寺区の寺田町、此花区の西九条、それからざっくりと生野区だった。

 五月初め、イラストレーターの友人に付き添ってもらい、ひとまず寺田町の賃貸屋に飛び込んだ。担当さんは三十半ばの中堅で、内見の車を手際よく運転しながら、むかし不動産業界で働きはじめた時、店に飛び込んできた客に包丁で刺し殺されかけたという話を臨場感たっぷりに笑いながら話してくれて仰天したけれど、きっとこのひとなら強いタイプの家を探してくれるだろうとおまかせしたらほんとうに強いタイプの、しかも希望通りの金額と内装のワンルームを生野区に見つけてきてくれてそれでぶじに引越しが決定した。
 引越しは業者を使わずに家族総出と友人に手伝ってもらい、父のトラックに家財道具を詰め込んで阪神間をつなぐ道路をゴトゴト移動するその光景はまるで小さい頃に擦り切れるまで観ていた『となりのトトロ』のオープニングそっくりで、70歳に近い両親や大人になった弟とこうして車に乗るのは中学生以来だったし、きっとこの人生でもうあと数えるほどもない機会なのだろうと思ったらほんの少し泣きそうでもあった。引越しの日はよく晴れて、もうすっかり夏だった。

 生野区にひとりで棲みはじめてきょうで二週間になる。
 生野は「住む」より「棲む」がふさわしい。
 そして、「街」ではなく「町」だ。

 東大阪にある大学に長いあいだ通っていたわたしにはもともと馴染みのある地域だったけれど、棲みはじめるとぜんぜん違った景色が見えてくる。
 生野は日本でいちばん外国人が多く密集して居住している町だという。生野はかつて猪飼野と呼ばれていた町だ。

 わたしがむかしから大好きな金時鐘の『猪飼野詩集』の冒頭にはこんなふうに説明がある。

猪飼野  大阪市生野区の一画を占めていたが、一九七三年二月一日を期してなくなった朝鮮人密集地の、かつての町名。古くは猪甘津と呼ばれ、五世紀のころ朝鮮から集団渡来した百済人が拓いたといわれる百済郷のあとでもある。大正末期、百済川を改修して新平野川(運河)が造られたことから居住地ができるようになり、底辺労働者の朝鮮人が間借り等で居つきだしてできた町。在日朝鮮人の代名詞のような町である。

 生野は、あるいは猪飼野は、多くの文学作品に登場し、登場しつづける。自分がこれまで読んできたたくさんの生野の物語の記憶と、大学時代に歩きまわっていた身体の記憶と、それからいま、この町に棲む人間になった新しい生まれたての身体の記憶。その三つが夢もうつつも混じり合い溶け合い、わたしはここで食事を作り、着替え、寝る。新しい職場へと通う。日々のこまかな買い物へ向かう。

そこでは みなが 声高にはなし 地方なまりが 大手を振ってて 食器までもが 口をもっている。胃ぶくろったら たいへんなもので 鼻づらから しっぽまで はては ひずめの 角質までも ホルモンとやらで たいらげてしまい 日本の栄養を とりしきっていると 昂然とうそぶいて ゆずらない。

 先週の夕方、ちょっとした用事があって、同じ生野区の鶴橋からわたしの棲む町までほとほと歩いて帰宅した。近鉄沿いに歩いてゆけばたやすく戻れるだろうと余裕ぶっていたら散々惑ってうろついて、二十分もかからない距離を気づけば四十分ほども歩いていた。

 電車を降りた瞬間思わず笑ってしまうくらい焼肉の臭いの立ちこめることで有名な鶴橋駅の東南側は、焼肉街とは反対なのでそこまでニンニクの煙はたちのぼってはいなかった。近鉄の高架沿いに進もうとするわたしを待っていたのは、まるで牛豚の臓腑のようにぐねぐね入り組んだガード下の真っ暗な商店街の迷路だった。クモの巣と埃にまみれた蛍光灯がチカチカ点灯しているだけで、というか蛍光灯が点いている場所もほとんどなくて、言葉どおりの闇の路地だった。各商店の煤けた灰色のビニル庇はいずれも無残に破れ垂れ下がり、木の柱は指で押したら倒れそうなほどの老朽化、錆びた鉄の軒先はあらゆるものが剥き出しで、変色した業務用冷蔵庫がコンクリートにゴトリと横たわり、昭和四十年代のポスターや看板が当たり前に飾られたままだった。ぐねぐねの臓腑の路地に数珠つなぎに並ぶ、スナックや雑貨屋や飲み屋、食べ物屋だった場所の多くがシャッターを下ろして、その内側にいまも確かに棲んでいる生野の老人たちの生ぬるい気配がどこからか漂ってくる。暗い路地をそろそろすすんでいくと時おり黄色いやわらかい灯が見えて、そこにはオモニやハルモニが立ったり座ったり、乾きかけのチヂミをゴザの上で売りながら近所の女同士で談笑し、たっぷり浸かったぶ厚いキムチをビニル袋にぎゅうぎゅうに詰めていたりする。

 ガード下をなんとか抜け出、遠く左のほうに近鉄電車が通るのを確かめながら今度は町のほうへ足を向けた。鶴橋から桃谷へ、それから中川へ。金時鐘が詩のなかで〈鶏舎長屋(タクトナリ)〉と描写していた古い路地長屋が立ち並ぶ。どの家も頭を低くして建てられているのに玄関先の植物だけは決まってやたらと旺盛で、長屋の引き戸の影も見えないぐらいの緑や花。洗濯物は隣の家との区別がつかない。子どもは路地裏からすぐに飛び出してくる。それを外国の言葉が後ろから叱り追う。鉄工場。ゴム工場。サンダル工場。質屋。民族食材店。銭湯。公園。酒屋。電機屋。もう営業していない大量のスナックや喫茶店や大衆食堂。神社。手書きの貼り紙も表札もハングルが多い。チワワを近くで遊ばせたアッパッパすがたの老婆がひとり小ぶりな玄関石に腰を下ろし、初夏の陽射しに背を灼いて何をそんなに真剣に眺めているのかと思ったら、行政から届いた緑色のふうとうにじっと視線を落としていた。

 わたしの地元の家並みに貼られた選挙ポスターはむかしから自民党のものばかりなのに、ここではさまざまな党のものが色とりどりに貼られているのも、地元とは違う場所なのだと思わせた。この区には小さな川と、そこにかかる橋が数え切れないほどある。遠い山に囲まれてどこまでも平らに広いのに、低い古びた家々がもたれあうように建っているせいでぜんぜん大きな町だと思えない。

 先週、残していた荷物を取りに兵庫の地元に戻った時、阪急電車に乗って実家までの道をたどりながら、地元の街があまりにも広く、整然とし、家がちゃんと家の形をしていると思ってびっくりした。ひとの顔も服装も雰囲気も匂いもぜんぜん違っていてそれもふしぎだった。

 先日のバー出勤の折、常連の齢の近い男の子に「生野に引っ越しました」と伝えたら、その子も生野に縁があるらしく、生野はいいですねという話になった。
「一週間半棲んで、わたしもうあそこが好きです」
 そう言ったわたしに男の子は、
「一週間棲んだら好きってわかるやないですか、ほんまええとこですよ。一年棲んだら、もっと生野好きになりますよ」
 と、歯を見せてクシシと笑い、教えてくれた。

 ゆうべはちょっと離れたスーパーへ買い物に行った。ひとり暮らしはほんとうにお金がかかる。そういう小さなことに日々少しずつ気づく。生まれたての赤ん坊を育てる親は、この子はこれからいろんなことを経験するだろう、ケンタッキーがおいしいこともいずれ初めて知るんだろうとそんなふうに思うらしいけれど、わたしはいままさに自分に対して毎日そんな気持ちがする。脳裏に、お母さんパンダのまねをして嬉しそうにはしゃぐパンダの赤ちゃんのすがたがふと浮かぶ。ぜんぶこれからひとつずつ知っていく。お風呂に入るのにお金がいることも、本を読むために電気をつけるのにお金がいることも、人間はちゃんと毎日お腹が空くから食事をしなきゃいけないんだってことも。食べ物を買うのにはとてもお金がかかることも。なにもかも。この町でいちばん安いスーパーへは二十分かかることも、そうしてそこへの路地の道のりも。

 スーパーで調味料をそろえ、旬の大葉をどっさり買い、久しぶりにお肉も買い、日の落ちた涼しい路地を戻っていると、わたしの棲むマンションのそばから甲高い拍子木の音に絡まって韓国か中国か、それともほかのアジアの国か、わからないけれど透き通るような民謡の合唱がきこえてきた。同い齢くらいの若い声だった。男も女もいた。この町では朝も夕もいろんな言葉がきこえてくる。生粋の関西人なのにどうしてだか関西弁の強く出ないわたしのしゃべる言葉も、この町ではただのひとつの小さな音でしかない。「関西人ぽくないね、どこのひと?」と、誰かから訊かれることもない。国がありすぎるあまり国が遠い。消されてしまったかつての町の名前。この町にはあの鶴橋のガード下の商店路地の、牛豚の臓物みたいにぐねぐねうねる長い複雑な歴史があって、さまざまなひとがいて、お金がなくてもそれが当たり前で、みんな、ただひとつの音でしかない。
 この町に棲むひとりひとりの記憶は時代とともにうすら遠くなり、いまも秒ごとに変化してゆくけれど、暗い水辺にかかる靄のようにその町にまつわるあらゆる記憶はいつのまにか集まって、土地の意味やら個性やら、そういうなにもかもが引き継がれ、更新されてゆく。
 更新されてゆくこの町に、たとえばわたしみたいな新参者が棲みついて、あるいは客として訪れて、そうしてその数が増えれば増えるほど、わたしたちの記憶は分散しながら蓄積して、この町の意味は補強されていくんだろう。

 スーパーの途中の歩道橋にのぼったら、そう遠くない場所に天王寺のあべのハルカスが見えた。高い高いビルの全身が夥しい光で輝いていた。そうか、あの場所までもういまは自転車に乗ればすぐに行けるのだと、それからその向こうには、わたしの遊ぶミナミの街があるのだと、そう思ったらなんだかすごく興奮して、大きくジャンプをしたかったけれど白ネギの入った袋を握りぐっとこらえて我慢した。

どうだ、来てみないか? もちろん 標識ってなものはありゃしない。たぐってくるのが 条件だ。名前など いつだったか。寄ってたかって 消しちまった。それで〈猪飼野〉は 心のうちさ。逐われて宿った 意趣でなく 消されて居直った 呼び名でないんだ。 とりかえようが 塗りつぶそうが 猪飼野は イカイノさ。鼻がきかにゃ 来りゃあせんよ。

 引用:金時鐘『猪飼野詩集』より「見えない町」/岩波書店, 岩波現代文庫, 2013年12月17日発行


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