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エッセイ:汽水記 第2回/「金魚にピアス」

「スプリットタンって知ってる?」 (『蛇にピアス』P5)

 分かれた舌先でぺろりとタバコをくわえ、馬鹿げて明るい調子で男が発したこの言葉。この冒頭の衝撃は、いまでもわたしの耳にふとした瞬間強烈に蘇ってくる。この男が「私」に向かって得意げに舌をつきだしたのはいまからもう15年も前のことなのに、いつだって鮮やかにその光景が眼前にあらわれて、「君も、身体改造してみない?」というその後につづく軽やかな誘いは、いつだってわたしの首を無意識のうちに縦に振らせる力をひそませているのだ。

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 金原ひとみの『蛇にピアス』が発表されたのはいまからちょうど15年前、同じ月の11月。もうそんなに経っていたのか。と、なんだか呆然としてしまう。その頃のわたしは肩甲骨まで伸ばした長い髪を高いハーフアップに結いあげて、制服の着くずし方はリボンをほんの少しゆるませるのとスカートのウエストを一回だけ折り返すことしか身分不相応だと思ってできなかった。授業中はたいてい机の下に本をひろげてそれを読んだり眺めたりしながら時間が過ぎるのをひたすら待って、とくに親しい友人数人以外にはほとんど声を発しない学校生活を送っていた。

 文芸誌というジャンルの雑誌がこの国には存在していて、基本的に現代の純文学の小説家というのはその雑誌の新人賞からデビューするのだと知ったのもこの頃で、初めて文芸誌を手に取ったのは二駅先のショッピングモールにある小さいけれど整然とした書店だった。毎晩聴いていた関西ローカルのラジオ番組でパーソナリティが綿矢りさの『インストール』について話していて、なんだか気になるから読んでみたいと思って「文藝」というのを探しに行ったのだ。

 これはいまでもほんとうにそうだったなあと感慨深くなるのだけれど、まるでいろんな葉っぱの先端からこぼれてきた瑞々しい滴がひとどころに集められて溜まったみたいに2003年前後は若い女性作家の魅力的なデビュー作が立て続けに文芸誌に発表されていて、まだ鋭い冷たさを残している彼女たちのそんなデビュー作を、塾の行き帰りにじっくり立ち読みするのが大好きだった。

 島本理生の『リトル・バイ・リトル』や村田沙耶香の『授乳』の、さらりとした手触りの可愛らしい単行本も、同じ時期にその書店で立ち読みした。『インストール』で知った綿矢りさの二作目『蹴りたい背中』がその年の冬の芥川賞の候補になって受賞して、赤茶色のレンガ壁の前での受賞会見を、わたしは制服でこたつに潜り込みながらテレビで観て、彼女のとなりに立っていたこれも若い女のひとがどうやら同時に芥川賞を獲ったらしいと知り、この茶髪の女のひとの書いた本も読みたいから買ってほしいとあした図書室の先生に頼んでみよう、とぼんやり思っていた。

 こっくりとしたクリーム色の表紙に走り描きされた、強烈な瞳と二股の舌をもつひとりの人間。それをめくると目に飛び込んでくるのがあの冒頭だった。初めてページをめくったあの瞬間をわたしはいまでも、どうしたって忘れられない。
 「スプリットタンって知ってる?」
 この言葉を突きつけられた瞬間、まるで世界が反転するみたいにわたしはあっというまにこの物語の主人公になっていて、無邪気にナンパしてくるその男の舌先と、そこからはじまる身体改造の物語にマゾヒスティックに惹き込まれていったのだ。

 15年経ったいまのわたしはあの頃よりもいろんな本を手にするようになって、だからほかの小説と相対的に比べてみれば『蛇にピアス』という小説がけっして上手い小説というわけではないのもわかるようになり、文章は粗くて会話文も漫画の吹き出しみたいな箇所がたくさんあるし、上手さとはほど遠い、それでも「上手さ」と「巧さ」というのはぜったいに違っていて、『蛇にピアス』というのはそう意味では確かに「巧い小説」なのだと思う。

 『蛇にピアス』が当時一般で注目されていたのは、何より身体改造というモチーフが、そこでいかにもわかりやすいアンダーグランドの定型として物語られていたからだ。《主にマッドな奴らがやる》だの《私から言わせてもらえば変態向けの店》だの、ぜんぜん別ものであるはずの身体改造とパンクとSMを一緒くたにしてしまっていたり、身体改造の施術やアフターケアそれ自体が実際のものとはちょっと異なっていたり、『蛇にピアス』は全体的に描写があまりにも雑なのだけれど、それでもその〈無理やりのアンダーグラウンド〉が、主人公ルイを含めた〈スプリットタンを知らないわたしたち〉にとっては、ある意味でリアルな刺激なのだった。

 アマに声をかけられた瞬間、読んでいる人間は残らず「私」の内に収斂されて、彼の舌先にしぜんと夢中にさせられる。その応答のリズム、スピード感、15年前はきっと多くの人間が身体改造についての知識をもっていなかったから、「知ってる?」と言われたら、どうしてもその先を知りたくなるはずだった。

 十数年経ってなおふとした瞬間にフラッシュバックするほどの強度を持った物語の冒頭というのはたぶんなかなか出逢えるものではなくて、わたしのなかで「スプリットタンって知ってる?」という冒頭は、今は昔竹取の翁といふ者ありけり、というのと同じくらいの頻度でなぜなのか日々フラッシュバックする。思えばタイトルも相当ビビッドだ。主人公のルイにタトゥーを施すシバさんが自身の身体に入れるほど花札が好きで、猪鹿蝶だの牡丹や桜や松だのの彫り物を見せるシーンがあるのだけれど、そうすると〈蛇にピアス〉という組み合わせは主人公ルイの生にとって何よりも強い札であり、彼女が作中で過ごす一年の、めぐる季節のそのすべてだという意味なんじゃないか、という気がしたりもする。

 主人公のルイは舌ピアスの拡張とそこからのタイオフ、そして龍と麒麟のタトゥー施術という二種類の身体改造へ突きすすんでいく。身体改造のあいまを縫うようにひたすら二人の男とのセックスを繰り返し、酒を飲み、それでなんとかこの世界の端っこで生き長らえる。ピアスもタトゥーも魅了されたのは一人目の男アマがきっかけだったけれど、その両方を自分の身体に実際に刻み込んでくれるのは恋人のアマではなく同時進行の二人目の男、シバさんだった。ルイの身体改造にひた走るスピードはあまりにも速く、タトゥーを入れるのは驚くほど即決だったし舌ピアスに至っては身体を壊すレベルでみるみるゲージ数を上げていく。小説それ自体の下手さ粗さとも取られてしまう物語のスピード感は、きっとこのルイの衝動そのものだ。

 身体改造に突きすすむ彼女のそのスピードは、15年前のわたしにとっては物語の異様さとあいまってただただ「ありえない」というフィクションでしかなかったけれど、大人になり自分が身体にピアスやニードルを入れ、タトゥーを刻んでもらうようになったいま、それが恐ろしくリアルな感情と衝動であるのだと身をもってわかるようになった。

 龍と麒麟は最後のかさぶたを作り、それも完全にはがれ、完璧に私の物となった。所有、というのはいい言葉だ。欲の多い私はすぐに物を所有したがる。でも所有というのは悲しい。手に入れるという事は、自分の物であるということが当たり前になるという事。手に入れる前の興奮や欲求はもうそこにはない。欲しくて欲しくて仕方なかった服やバッグも、買ってしまえば自分の物で、すぐにコレクションの一つに成り下がり、二、三度使って終わり、なんて事も珍しくない。(略) 刺青を入れ終えてから、一ヶ月以上が経った。あれからというもの、私には活力という物が全くない。(『蛇にピアス』P76〜77)


 ピアスやタトゥーというのはふしぎなもので、初めて自分がその領域に手を出した時、といっても最初はもう十年以上も前、左耳の軟骨にニードルで穴を開けるというほんの些細な施術だったのだけれど、その時、いままでの弱くて醜い自分が武器を纏って少しだけ強くなった気がしたし自分の中に裏切られることのない小さな小さな神様ができたみたいだった。

 神様はけっして色褪せることはない。神様はひとりいれば十分だと思っていたのに、それでもひとつピアスを入れてみたら自分でもどうしてだかわからないのにもっとピアスを増やしたくなった。そうしてどんどんいろんな場所に増やしていった。ピアスや、ショーで入れられた吊り下げ用の太いフックは外したら綺麗に閉じた箇所もたくさんあるけれど、タトゥーはひとつ入れたらもう後戻りすることができない。

 初めてのタトゥーを入れることにしたその数日前、むかし外国でタトゥーを入れたという知人にその話をしたら、「一個入れたらもっと増やしたくなるで」と言われて、まさか、と思って笑っていたのに、一個入れたら事実その通りになってどんどん増えたしたぶんこれからも増えてしまう。
  それはきっと『蛇にピアス』のなかでルイが語る、所有と意味の問題なのかもしれない。どれほど貪欲に何かを求めてそれに向かって突きすすんだとしてもひとたび所有に成功すれば、どんな人間でもその先にある忘却から逃れることはできない。

 ひとは忘れる。ひとは慣れる。「そのうち自分の身体にタトゥーあることなんか忘れてしまうからな」というのも同じ知人の言だけれど、これもほんとうにその通りだったのがふしぎだ。施術の痛みだって、もともと自分としてはそれほどではなかったのが回数を重ねるにつれてさらに痛いとは思わなくなってきて、スタジオに行くのが美容院に行くのと同じくらいの気軽さになった。だからこそ彫ってもらった瞬間とその後の数ヶ月間に特に感じられるあのえもいわれぬ所有感がふたたびほしくて、またあるいは神様が自分の血肉になじんでいくそのリアルタイムをふたたび全身で感じたくて、どんどんどんどん、増やしてみたくなる。

 自分の身体がより自分にとってのかけがえのないものとなり、同時に誰かの大切な作品となり、それが当たり前になれば、どんどんどんどん新しい刺激と新しい神様がほしくなる。

 それは身体改造やアブノーマルな行為そのものの真理なのかもしれないと思う。

 それが何であるにせよ、ものごとを重ねてそれが当たり前になっていくというのはとても残酷なことで、たとえばセックスを覚えたての頃は行為する度になにもかもが鮮やかだったのが回数を重ねるにつれて、やがてそれが日々の食事や睡眠と同じレベルの刺激に落ち着いてしまったりもする。
 どんな刺激にだってひとは必ず耐性がつくし、どんなモチーフに対しても、どんな人間に対しても、どんな行為に対しても、「もっともっと」を、ひとはどうしようもなく欲望してしまうんだろう。

 忘却と耐性を超えてさらなる欲望を手にしたいと身体的に突きすすむ行為は、身体改造だったり、ダイエットだったり、整形だったり、SMだったり、それがどんなジャンルであったとしてもどこかスポーツみたいだと感じてしまうのは、なぜなんだろうかとたまに考えたりもする。

 刺青の小説の神様といえばわたしのなかでは、というより多くのひとがきっと谷崎潤一郎の『刺青』を挙げるのだと思う。『蛇にピアス』の少し前には車谷長吉の『赤目四十八瀧心中未遂』が出ているし、刺青ではないけれど、村上龍の初期の小説の多くには身体改造を施された人物や描写が頻出する。吉川トリコのデビュー作『ねむりひめ』は物語の柱の人物として空き地にひたすら穴を掘り続ける蛇のタトゥーの男が登場するし、いまに近い年代でいえば、羽田圭介『メタモルフォシス』は、背中にはハローキティ、太腿には「ぼくは豚野郎だワン」というタトゥーのある男が多摩川の浅瀬にうつ伏せ死体で発見された、この男はマゾをこじらせたSM愛好家だった、という冒頭が絶妙にチャーミングで印象的だ。

 広義的な意味での身体改造というモチーフは文学において幾度となく繰り返されてきて、けれどその多くはどんなにオリジナルの彩りを加えようとも、谷崎潤一郎『刺青』の変奏とならざるをえない呪縛に取り憑かれてしまっている。

 谷崎潤一郎の時代からはもちろん、『蛇にピアス』の15年前からは身体改造に対する世間の視線や理解はとても大きく変化して、技術はめまぐるしい進化を遂げて新しい改造がつぎつぎに生まれてはひろがっているのに、ふしぎと文学における身体改造の根底はいつまで経っても『刺青』の時から変わらない。変わったところがあるとすれば、時を経て、身体改造という強烈でナイーブなモチーフがさまざまな小説で〈なにげないもの〉として描かれるようになったことくらいかもしれない。

 小説の世界のなかで繰り返し使われるモチーフ、そしてどんなにあがいても過去の大作の変奏にしかならざるをえない、言うなれば〈つよすぎる呪い〉みたいなモチーフ、というのは間違いなくいくつかあって、わたしが最初に彫ってもらったタトゥーの〈金魚〉という生き物もまた、小説の世界ではそんなモチーフのひとつなのだと思う。

 金魚とおじさまの甘やかでひそやかな恋模様、室生犀星の『蜜のあわれ』。いまはもう触れることさえできない漂渺とした幼馴染の幻を追い求め、彼女のような美しい金魚をこの世に生み出そうとする男の物語、岡本かの子の『金魚撩乱』。庭に沈められた偽の骨董品たちと欲情して、泡をブリブリ吐きながら交歓する金魚の奇譚、藤枝静男の『田紳有楽』。みぞおちにまるで金魚のような痣のある娘が描かれる、金井美恵子の『スタア誕生』。

 掌篇・短篇、そしてエンターテインメントの小説になればもっともっと金魚の小説の数は増えて、そのほかにもほんとうにたくさんの、一生かかっても数えきれないほどに金魚という生き物は小説のなかで取り上げられ、愛され、夥しい物語を背負わされてきた。

 ことに金魚は少女という存在と多く重ねられ、金魚と重ねられた少女はやがて物語のなかでほとんど必ず幻みを帯び、あだっぽい微笑みを振りまいて登場人物も読者もすべてを巻き込んで魅惑して、誘惑するだけ誘惑したら、あとはそしらぬ顔で涼やかに泳ぎ、どこかへトプン、と消えてしまう。

 おもしろいな、と思ったのは、金魚を自分の身体に入れてつねに一緒にいられるようになったおかげで、わたしは自分の書く小説のなかで金魚を描いて過去の大作に挑むという無謀な試みをする気がもうまったく起きなくなったことだった。

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 ところで最初のタトゥーを入れる前、わたしの担当の彫り師さんと同じスタジオのべつの彫り師さんに、「どれだけ入れていってもやっぱり、最初に入れたタトゥーに一番思い入れができますよ」と言われたのがとても印象的だった。

 もちろん金魚のあとに入れてもらったタトゥーたちも恐ろしく美しく繊細で、担当していただいている彫り師さんはわたしのリクエストをとても丁寧に聞いてデザインを描いてくださり、どの絵もほんとうに感謝しかないのだけれど、やっぱりその彫り師さんの言うように、わたしも最初に入れてもらった左鎖骨の青い金魚が一番可愛くて思い入れがつよくなった。

 どうして青い金魚を、と訊かれることはたくさんあって、わたしでなくても身体に絵を入れているひとたちはたぶんその由来を普段からよく訊かれるだろうし、わたしもそれを訊きたいと思うことはたくさんあったし、けれどその一方で、タトゥーの由来というのはあまり訊ねてはいけないような気がしてしまう。それはたとえば、お守りの中身を無邪気にあばいてしまうのとよく似た罪悪感をおぼえてしまうのだった。

 中学生の頃から、いつか自分の身体に青い金魚を泳がせてみたかった。ほんとうにいつも金魚にこだわるんだね、前世で大量に殺したりしたんかもね、と周りから冗談を言われて呆れられるほどになぜだかずっと金魚が好きだった。それでついに彫ってもらうと決めた時には金魚という生き物とその青色に込めたつよい願いは確かにあったはずなのに、けれど実際にそれを身体に描いてもらったら、どうしてなのか自分の込めた願いの影はまるで水面をゆらされたみたいに散らされてどこかにふわっと消えてしまった。

 ものに込められた願いというのもきっと、それが付与された瞬間から変容して忘却されていく。日々その願いが変わっていく。だからわたしは青い金魚やそのほかのタトゥーに込めた願いを上手に言葉であらわすことがきっと永遠にできないし、タトゥーを身体に彫っているひとにそこに込められた願いを訊くことをどうしたってためらわざるをえない。
 というより、そもそもタトゥーを彫る時に意味をもたせないひとたちだってたくさんいるはずなのだった。

 ただでさえ金魚というモチーフはたくさんの意味を纏いすぎていて、どんなにわたしが自分なりに大切にしようと、この生き物の意味はその豪奢な尾ひれそのものみたいに翻りわたしの手をすり抜けて、遠いどこかへ泳いでいってしまう。

 わたしの身体の金魚の意味は、金魚をモチーフにした本や映画や音楽、絵や写真が更新されるその度に新しく生まれて、わたし自身に新しく付与されて、そして濾過され忘却されていく。自分という存在があくまでこの世界でのちっぽけなシーニュであるのだということを、自分の身体に金魚を彫ってもらって、わたしは初めてどうしようもなく実感したのだった。

 パンを戻して冷蔵庫のドアを勢い良く閉めると、ワイン片手にデスクの椅子に腰掛け、バッグから化粧ポーチを出してあのアマがくれた、アマいわく愛の証の歯を眺めた。手の平に載せ、コロコロと転がしてみた。アマがいなくなった今、この二つの愛の証は何を意味するんだろう。こんな事をして、私は一体何を求めているんだろう。アマが私の手の届かないところに行ってから、私はこの歯をよく眺めるようになった。いつも、この歯をポーチにしまうたび、一つ諦めに近い気持ちが生まれる。いつか、この歯を眺める習慣がなくなったら、私はアマを忘れた事になるんだろうか。(『蛇にピアス』P109)

 『蛇にピアス』の作中で、アマが殺した暴力団員の歯を、ルイはアマから〈愛の証〉だと言われてプレゼントされる。その歯はそもそも暴力団員の大切な身体の一部分だったのに、アマの指で血にまみれてえぐり取られたその瞬間、彼の〈愛の証〉に変化した。ルイの手に渡ってポーチにおさめられているそのあいだに、彼らをめぐる世界はものすごいスピードでみるみる変化していって、それと同調するように〈愛の証〉に込められていたはずの原初の意味も、しだいに忘却されて変容していく。忘却されたその果てに、ルイは意味の変容したその歯を粉々に砕いて飲み込み、自分の身体に取り込んで、「私」の一部に溶け消えさせる。

 わたしの身体の青い金魚も、誰かの感情や行為によって、金魚という生き物の存在そのものみたいに変化して、やがて溶けて、わたしそのものの生きていく意味もまた、人工的な尾ひれのなかに翻っていく。

 世は移り人は幾代も変わっている。しかし、金魚は、この喰べられもしない観賞魚は、幾分の変遷を、たった一つのか弱い美の力で切り抜けながら、どうなりこうなり自己完成の目的に近づいて来た。これを想うに人が金魚を作って行くのではなく、金魚自身の目的が、人間の美に牽かれる一番弱い本能を誘惑し利用して、着々、目的のコースを進めつつあるように考えられる。逞しい金魚――そう気づくと復一は一種の征服感さえ加わっていよいよ金魚に執着して行った。(『金魚撩乱』)


引用:金原ひとみ『蛇にピアス』/集英社, 集英社文庫,2006年6月30日発行
   岡本かの子『金魚撩乱』/青空文庫

イラスト:ヒキコモリーヌ

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