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がんばらない。

 他人にかける「頑張れ」ということばが好きじゃない。

 時と場合にもよるが、たいてい「頑張れ」ということばは誰かを応援したいときに使うことばで、べつに努力を強制する意味合いで使う人はいないだろう。それは分かっている。

 それでも、私はこう思ってしまう。人間みんな、毎日頑張っているのだ。生きているだけで十分偉いのだ。ただでさえ、他人の内心の辛さや努力をすべて理解することなど不可能なのに、わざわざ「頑張れ」ということばを相手に向けるのは、もっと努力しろと責めているようで、むしろ非情に聞こえはしまいか。

 そんな考え方をしているから、私は他人に気安く「頑張れ」と声をかけられない。仕事の同僚たちの間で「頑張りましょうね」なんて言葉を交わすのも気が進まない。「頑張れ」を向けられたときは、てきとうにその場を繕ったあとに(べつに頑張らねぇけどな)なんて内心で呟いてみたりする。もちろん、相手がなんの悪意も持っていないことは百も承知なのだが。

 おまえは天邪鬼だと言われても否定はできない。だが、これは色々な経験のなかで編み出した、私なりの「防御」の一つでもある気がするのだ。



 数年前までは、たくさんの経験を積んで苦しみもがきながら成長することが、人生には必要なのだと思っていた。けれどそれは「かくあるべき」の考え方だ。選択肢に迷ったとき、「本当はこっちに心惹かれるけど、より成長につながるのはあっちかもしれない」と、好きと思えるものを自ら遠ざけてしまうこともあった。

 けれどそのうち、どの道を選んだって、乗り越えなければいけない壁は必ずどこかで現れるのだと気づいた。歩き続けていれば誰しもが、その時の自分には越えるのが難しいと感じるハードルに直面する。それなら、自分が本当に好きと思えるもの、心惹かれるほうの選択肢を選んだほうがいいではないか。そう思うようになった。

 「~しなきゃいけない」よりも、できるだけ「私はこうしたい」を選ぶ。どうすれば、日々を少しでも楽しく、気持ちよく過ごせるかを考える。その探求のなかで見つけた「自分を支えてくれるもの」は、きっとあらゆるものから自分を守ってくれる鎧にもなる。

 日々を楽しく、気持ちよく過ごす意識を持っていると、壁が現れた時も自分を客観視できる気がする。あぁ、今の私に用意されたステージはこれか、と。ぶちあたっている今は辛くても、時間がたって気が付くとその壁は自分のはるか後ろに見えているはずだ、と思う。

 壁にむかってもがいている間は、必要以上に自分を追い込んだり責め立ててはいけない。「自分は今壁に直面している」、そう認識できている時点で十分頑張っているのだ。だから、自分を支えてくれるものや好きなものをしっかりその手に掴んで、大きく構えていればいい。



 というのが私の持論なわけだが、当然人生はそんな生易しいものではない。苦しいときは苦しいし、辛いときは辛い。自分が何を好きだったかなんて忘れて、ただひたすらあっぷあっぷ溺れながら手を伸ばすことしかできない。そんなものだ。

 だからこそ、私は「頑張れ」が嫌いなのだろう。

 「言われなくても、私は十分頑張ってるんだ!」

 そう叫びたくなるほど、余裕のない気持ちでいっぱいなのだ。誰かに声をかけるのも、自分がかけられるのも「頑張れ」より「頑張ってるね」がいい。

 そんなわがままを言ってみたところで、誰がわざわざ「そのとおりだ、あなたは十分頑張ってる!!」などと言ってくれるものか。労いや応援の気持ちを向けてもらえるだけで幸せ者だ。

 だから私は、ともすればどんどん泥沼に沈んでいきそうになるもう一人の自分の肩をつかんで言ってやるのだ。「頑張らなくていいよ」と。

 


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