見出し画像

短編小説【食物連鎖】


■1章 ハナコ

 ともかく広い世界、美味しい食事、のんびりとした性格に合ったのんびりとした環境で育った。それが当たり前だったのだし、客観的に見ることはできなかったけど今ならわかる。寝床は快適で、お世話をする執事というか女中というか、お手伝いさんのような役割の者たちがいた。

 大きくなると・・・・大きくなるのは早かったが・・・・お手伝いさんはともかく体をよくマッサージしてくれた。正直気持ちいいとかどうだとかはよくわからなかった。それでもなんとなく体調がいいような気がした。とにかく毎日入念に、そして丁寧に体の調子を整えてくれた。

 お手伝いさんの趣味だったのだろう、割と幼い頃からクラッシック音楽をよく聞かせてくれた。とはいえそれが心地いいとかどうだとかは全くよくわからなかった。言うなら何か音がしているなという程度にしか思っていなかった。

 特に食事には気を使ってくれていて、穀物が中心の偏った食事ではなく、オーガニックにこだわった食生活を用意してくれたように思う。ただ穀物だろうがオーガニックだろうがあまり変わらない気がしたし正直どちらでもよかった。どちらが美味しいということもなかったし、何が好物だということもなかった。食にそこまで興味が持てなかった。

 その他のことにもあまり好みやこだわりはなかったように思う。ただお手伝いさんのこだわりがすごかったのだろう。自分としては単にストレスフリーな・・・・ストレスをあまり感じたことがなかったのでそれがどういうものなのかよくわからなかったが・・・・自分らしくごく自然に、たぶん幸せに生きてこれたのだと思う。ただ死ぬのは寿命から比べると早かった。

 チクっとした痛み、いやかゆみのようなものを感じたが、そんな些細なかゆみなど日常で何度も感じるのだからそのときも何も思わなかった。だが、徐々に眠気のようなものが襲ってきてそのまま意識を失った。その後は二度と目を覚ますことはなかった。

 生まれてから約2年。これが食肉牛ハナコの生きていた全てだった。

■2章 モミジ

 享年86歳、先立ったモミジの人生をコウスケが振り返ってみなさまへの挨拶の代わりとした。

 モミジはそれなりに裕福な家庭に生まれ育った。子供の頃は何不自由なく育った。それはお金の力もあったが、両親が柔軟な人だった。モミジのやることにはほとんどの場合で快く許してくれた。しかし何か間違ったことをしたときはかなり厳しく躾けられた。叱られたのではない。躾という無限の時間を持たされることになった。そのせいなのか、モミジ自身の飲み込みが良かったからか、同じ間違いを二度するようなことは滅多になかったし、もしそんなことがあっても上手に解決するような人間性の持ち主だった。

 結婚したのは二十歳のときでコウスケはまだ大学生だった。コウスケの家庭はごくごく一般的な家庭で、父親はサラリーマン、母親はパートをしていた。母親は他の平均的な母親と似てコウスケに宿題と受験といい大学を勧めた。コウスケ自身もとりわけ何かを熱望するようにやりたいことがあるわけではなく、そこそこの成績でそこそこの大学に行くことを疑問に思ったわけではなかったので、その通りにした。

 モミジとは大学で知り合い、恋に落ち、妊娠した。コウスケにしてみれば責任を取るだのいったところで自分は学生でしかない。大学を辞めて働こう、そう決意を胸にしてモミジの両親に会った。しかし初対面は意外なものだった。モミジの両親はこのことを「間違い」だとは思わなかった。それゆえ子供の頃の躾のようなこともなく、快くコウスケを迎えた。幸いお金に十分な余裕があるので若い夫婦の生活はしばらく気にしなくていい、大学を卒業してしっかり働いてくれればいい、ということになった。これに対してコウスケの両親側は一悶着あったが、モミジの話とは直接関係しないので省こう。さて20代で2人の間にふたりの子供が生まれた。上は男子、下は女子だった。その後は子供をもうけることはなく、30代は喧嘩をしたり離婚だと騒いだりしたが、40代に入ってお互い好きなことを始めるようになっていい距離感ができた。このことが2人の仲を30代の頃よりもいい関係にした。50代に入ると二人の子供は家を出た。これを契機に夫婦は年に数回世界旅行に行くことにした。モミジはオープンな性格で世界中に友達を作った。あるときはその友達の家に遊びにいき、逆に自分たちの家に遊びに来てもらった。一度だけイタリア人の友達の息子をホームステイで受け入れた。60代以降は割とゆっくりとした生活を淡々としてきた。モミジは持ち前のフレンドリーさで地域に友達が多かったし、そういった生活をゆっくり楽しんでいた。趣味は園芸だった。料理は総じて得意ではなかったが、食するのは魚よりも肉を好んだ。海外の友達の影響もあってかステーキに赤ワインを合わせるのが好きだった。コウスケはステーキが得意ではなかったし、お酒はどちらかといえば日本のものがよかった。

 ともあれモミジは人生のほとんどの時間を幸せに過ごせたと感じていたし、コウスケが夫で良かったと思っている。コウスケと過ごした60年以上の時間が自分に平和と幸せをもたらしてくれた。友達と趣味が人生に潤いを与えてくれた。最後まで大きな病気をしたことがなく、事故にも遭わなかった。子供たちも何の憂いもなく幸せな日々を過ごしている。死の間際には感謝しかなく、本当の意味で笑顔で死ねて私は幸せ者だと最期に思った。

■3章 神

 「神の食事」は人間がA5ランクの牛肉を食べるのと全く同じだ。

 食肉牛が穀物ではなく芝生を食べ、効果があるかどうか曖昧なクラッシック音楽を聴きながら、毎日のようにブラッシングをされて血行が良くなる。サシという脂が肉の隙間に毛細血管のように入り込むのが良い肉の条件であり、そのような肉を作るために芝生とクラッシックとマッサージが必要なのだ。ときには餌を穀物にするが、それは最高の牛肉になるように人間が配合を心がけるのだ。

 こうした人間の努力が身を結んだ結果、モミジはハナコを食べながらワインを飲んでいた。

 人間が良識のある親の元、礼節を弁えながら自由を謳歌し、良い伴侶と友人に恵まれ、美味しい牛肉を食べて天寿を全うすることにかける神の努力といったら頭が下がる。その姿はまるでA5ランクの最高肉を育てる畜産家のようにストイックでこだわり抜いている。

 神の食習慣は人間と全く違う。住んでいる次元世界が違うのだから、食べるという物事が根本的に地球上の動物とは違う。彼らは魂を食べ、焼けて灰になるときの肉を食べている。昔は土葬の習慣しかなく、熟成肉を食べるしかなかったが、火葬で調理するという技術が発達してからは美味しい肉を早く食べられるようになった。

 食用人間の生産神には本当に頭が下がる。一万年前には50万人しか食べられなかった人間が、特にこの200年という短い時間の間に、急速な技術の進歩によって70億人を超える養殖が可能になったのだ。これなら神の食卓に安定的に食事を提供することができる。畜人業ベンチャーの期待は高まるばかりで今後はブランド人の開発が期待されている。

■エピローグ

 地球上の牛の数は14.7億頭。豚は9.9億頭。羊は12億頭といわれている。地球上の人間に最も食べられている鶏は230億羽で合計約267億。これに対する人間の数は73億。

 食肉の数に対する人間の比率は27.3%。同率を神に当てはめると19.9億。神の数は19.9億かもしれない。全ての人間が神の食糧ではないが、牛、豚、羊、鶏の全てが人間の食料になるわけでもない。そして同じ比率で考えるなら神を食べる何者かの存在は約5億4千万になる。

註)牛、豚、羊の数えは「頭」。鶏は「羽」。人間は「人」。神は「柱」。


フォローやシェアをしていただけると嬉しいです。 よかったら下記ボタンからサポートもお願いします。 いただいたサポートは大切に松原靖樹の《心の栄養》に使わせていただきます!