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「お前は偽善者だ」と言われてしまう本当の理由〜荒川隆太朗さんインタビュー03【コラム#056】

お前は偽善者だ。
自らの「善行」に対して、そう言われて気持ちが良い人はいないだろう。

2024年、年始早々に能登地震があり、衝撃を受けた方も少なくないと思われる。ボランティアに行った人、義援金を送った人、SNSで拡散した人。

だけど、ふと立ち止まって考える。

もしかしたらみんな偽善者かもしれない。

そう、僕もあなたも
なぜ、そう言えるのか。

松原さんとのお話の中で、次第にそれは明らかになっていった。


<偽善者の正体>


荒川:年始早々、先の震災があり、ボランティアや義援金の支援など、いわゆる「善行」を行う人がいる一方で、その行為を「偽善」という人がいます。「善行」と「偽善」の違いはなんでしょうか?

松原さん:単純な話にすると、その物事を心からやっているか、善を使う別の目的があるかです。前者は善、後者は偽善となります。利益があるからやるというのはすごくわかりやすいと思います。善を謳っていて利益を取る、お金を稼ぐとなると偽善と言えそうですよね。一方で、目に見えるメリットがないとすると善を行うと注目が集まるとか、評価が高まるとか、承認欲求が満たされるとか、目に見えないメリットがあるとこれも善を謳って、別の目的を達成していると言えますよね。

仮に、誰もそんな評価をしてくれない、注目をしてくれないとしても「俺、善やってるし」って自分でそう思えるというメリットを享受していることもあります。そのメリットのどれが目的であるかは人によって違いますが、単純に「善いことをしてますよ」と嘘をつくことが偽善です。

荒川:すると、偽善というのは目的のズレが問題であって行為そのものが問題ではないということでしょうか?

松原さん:そうですね。嘘から出た実という言葉があるように、偽善を繰り返していたとしても本当に善いことが確率論的に生まれることもあるでしょう。しかし、本当は利益のためにやっていても「俺がやっていることには意味があるぞ」として、より偽善を促進することになります。次第にそれが概念として成立してくると「これが大事だぞ」と、ことさらに主張したり、そうすることが倫理的だと言ったりします。このような状態になるともはや偽善ではなく、欺瞞とさえ言えそうです。


<善は存在するのか?>


荒川:先ほど「偽善」を目的のズレとして整理いたしましたが、もし、偽りの「善」が存在するとするなら、心からやっている本当の「善」は存在すると言っていいのでしょうか?

松原さん:「善」「悪」について考えることは前提から間違っていると思います。

荒川:なぜでしょう?

松原さん:「善」であるか、「悪」であるかを問われる時は背景に問題がある時だけです。例えば、アメリカではお金持ちがボランティアをすることがあると思いますが、貧富の格差が激しいという、社会背景があります。これは背景に問題があるから「善いこと」が社会的に求められるという構造です。一方で、「そもそもその格差をお金持ちが生み出した」と評価する人が現れると、「このお金持ちこそが「悪」であり、そのボランティアは「悪」を誤魔化すための「偽善」である」という評価が生まれ、結果的に「善」とは何か、「悪」とは何かを問わなければならないことになります。実際のところ、お金持ちが貧乏人から搾取をしていると考えるのは単純化しすぎています。お金に対するリテラシーが高いからお金持ちになるのであり、お金に対するリテラシーが低いから貧乏人になります。これは善悪の問題ではありません。

荒川:ということは社会背景が変わると問題も変わるということでしょうか?

松原さん:そうですね。例えば、平易な例として、アメリカではレディーファーストという考え方があります。その考えの成り立ちには元々「女性は弱いから守ってあげよう」という考えがありました。しかし、今となってはその考えは前提になっており、もはや習慣としてその行為を行っています。一方のフィンランドでは男女平等の考えがあります。概念上平等というだけではなく、実質的平等といえるレベルです。

以前、僕がフィンランドにいた時にこんなことがありました。

ある小さなファストフード店に入った時にトイレに並ぶ列ができました。その時、アメリカ人の男性がフィンランド人の女性に対して、トイレを譲り、女性は不服そうな顔でトイレに行きました。アメリカ人男性にしてみればレディーファーストに従った「善い行い」をしたわけですが、フィンランド人女性にしてみれば「女性を下にみる差別的な行為」だったのかもしれません。

この出来事に対して、もし、フィンランドにおいて、レディファーストが根本的、前提的に「善いこと」に位置付けられるのだとしたら、それはその行為そのものを「善い」と言えるだけの問題のある状態の社会背景があると考えられます。しかし、実際のフィンランドはそうではないので、むしろ「悪いこと」に位置付けられていると言えそうです。

このように、問題があることを前提に「善」「悪」が生まれると考えると、人々が良い状態にある時には「善」って大事、「悪」っていけないと言い出しません。だから、背景の問題に目を向けずに「善」「悪」を語ることは前提が間違っていると思います。

荒川:背景の問題に目をむける視点は抜けてしまいそうですね。すると、「善」さえも「悪」が生まれる構造に加担している可能性があるということですか?

松原さん:Yesですね。なので、「善」と言い出した時点で、結局「悪」と同じことを行っています。「善」「偽善」という言葉を使う人は、状態が悪くなくても「善」をいうことによって社会的に問題がなくても相対的に「善」の位置付けを獲得することができるので、手法としてはキャッチの手法としても使われます。


<「社会にいいこと」は善いことか?>


荒川:「善」という位置付けを取ることに関して、時代的にSDGsとか「社会にいいこと」というのを大切にしようというトレンドがあり、ビジネスや行政施策に反映されていることがあるかと思いますが、本当の意味で「善」を行おうと思うとどのような行動になりますか?

松原さん:トレンドになっていることは「善」を広げているのではなく、利権の拡散です。資本主義が根幹にあります。根本を変えるための代案がないので、ダメだとわかりつつやるしかないかなって思います。

荒川:おっしゃる通りだとすると、現在のトレンドはある既得権益から別の既得権益にすり替える構造があるということですか?

松原さん:Yesですね。そのトレンドに「善意」ながら乗ってしまう人もいるし、その「善意」を利用する方法論も一部では確立されています。現時点のこのような状態では構造を変えにくいと思います。




「戦争反対」
「北方領土を取り戻せ」

左右を見渡しながら大きな声が聞こえる一方で、目に飛び込んでくるのは沈黙する通行人。圧倒的大多数の人は戦争に関心を持つことなく、スポーツやゲームで争いの本能を沈め、スーパーで買ってきた惣菜を頬張って食欲を満たしている。

今日の日本では物価上昇こそあれど、それなりに満たされた「平和」な毎日とその傍でコメディみたいな訳のわからない汚職が議会で取り沙汰される。そんな我が国の軍事的なスタンスは日本らしくゆらゆらと堂々巡りを繰り返しながら、結果的に「こっちからは攻めませんが、結構な軍事力を持ってますよ」というスタンスに落ち着いている。

この国際社会が荒れ狂う中を何というスタンスや意志を持たず、ふわふわと漂う日本の在り方は案外、地政学上の立ち位置も含めて、国策としては悪くないのかもしれない。

国家や社会情勢など大きな話をした後に最後に残るのは「結局私はどうしたらいいのか?」だと思う。

もし、本当に平和を希求するのであれば、平和を自ら定義し、「戦争はするもの」という前提から「今何をすべきか?」を考える必要がある。一方、大多数の人にとっての結論は「多分、そんなに関係ないから気にせず生きろ」となる。

じゃあ、この記事はなんだったのかというと、「社会を変えてやる」と言えなくても、「この社会でどう生きるのか」、あるいは「どの社会を生きるのか」に答えを出すヒントにはなり得るだろう。

この記事を読み終え、あなたが漂い続けてスタンスを取らない日本に対して、もし、違和感を抱いていたとしたら立ち止まって考えてみてほしい。僕たちは自分の人生において同じように、平然となんの悪気もなく社会を漂うように人生を生きてはいないだろうか?

そもそも平和が当たり前という前提も日本の空気を吸う中で気がつけば生まれていたものではないだろうか?

もし、そうだとするとそんな日本のスタンスの取り方を批判する時間があったら、もっと自分の人生に真剣に向き合い、どこまでも個性を追求した方がいいのかもしれない。

なぜなら、それこそが「平和」を勝ち取ることの一つの意味かもしれないから。


<人生において「善い」こととは>


荒川:ここまで社会の中での「善」の位置付けをお聞きしました。ここから人生における「善」の位置付けをお聞きしたいです。人生において「善行」は必要でしょうか?

松原さん:まず、定義が大事です。人生はどこまでも個人のものです。どこまでも自分で完結する物事です。生きている間にどれだけ自分にとって良い人生にするかだけが問われているので、究極、他人は関係ありません。なので、スタート地点を「全部、自分の思い通りにすること」に置きます。

自分の人生のことだけを考えると、このスタート地点から進む道のりは他の人と同じ人生では嫌だと思う人がいます。何か違うものを求めている時にどこで違いを出すのかというと、個性として備えているものを使うしかないとなります。この個性を使う時にマスに対してマイノリティは優遇されない傾向にあるので、少数派は上手くいかないことになります。その中でも、自分をどうやって通していくのか、どれだけ取り組めて思い通りにできたかがポイントとなります。

そこで、所謂、「徳」は自分を通しやすくするためにどれだけ「善」をやってきたかがポイントになります。みんなが殺しあう世界の中では自分を通すどころではないので、良い状態を作った方が自分を活かし、通すことができる環境を作ることになります。個人の単位で見るとそっちの方が自分を活かすことにつながると考えられます。

荒川:「徳」は自分を通すためにあるということですか?

松原さん:Yesです。雛形として捉えてもらうと「お金」に近い性質があると思います。「徳」がいっぱいあったほうが使い勝手が良いといえると思います。

荒川:松原さんの「一次、二次、逆次」の理論で考えると「徳を積むこと」そのものが目的になってしまうと二次化していくと考えていいのでしょうか?
また、そうすると社会的に「善い」ことは人生において良いとは言い切れないと考えていいのでしょうか?

松原さん:どちらもYesです。ただ、宗教などで「徳」について説かれている背景として時代が悪すぎて、貧困で搾取され、苦しい時代の中で使えるものが「徳」しかなかったと見てよいと思います。もし、その時代に誰もが自由にお金を稼げて、豊かになれたとするとお金を稼げば貧乏で毎日しんどい思いをしなくてよかったということが成り立ったはずなので。使えるものが「徳」しかなかったと考えられます。

荒川:するとここまでの話を少し整理すると…。

  1. 偽善は行為そのものが「善」であるかではなく、その目的が「善」であるかによって判断される

  2. 近年のSDGsやソーシャルビジネスなどの社会に「善いこと」は新しい利権の拡大という側面がある

  3. 人生において「善」は必要ないが「徳」は自分を通すために使えることがある

と言えるかと思います。

このように考えると「善」を利用して、自らの利益を拡大する利口な偽善的な立場と「善」であると評価されたい気持ちを利用されている愚かな善人の立場があると感じますが、そういうイメージでしょうか?

松原さん:単純な答えはYesです。ただ、偽善的立場が善人から搾取しているという構図で捉えているようですが、そうではないと思います。リテラシーの問題です。先ほどのお金持ちと貧乏人の話で考えるとわかりやすいですね。お金のリテラシーを高めたお金持ちとお金のリテラシーなんて一ミリも考えなかった貧乏人との差と同じです。もちろん、その人の性質もあるし、環境的にもそれを高められるかどうかは別の問題ですので、一概には言えません。いずれにしても最初に考えることはリテラシーをどう高めるかだと思います。

荒川:ここでいうリテラシーは善悪に関するリテラシーですか?

松原さん:いえ、徳に関するリテラシーです。善悪を考えることは前提から間違っていますから、利口な偽善者と愚かな善人という単純な図式の問題ではありません。これを問題にするとお金持ちが貧乏人から搾取しているという単純化した問題の捉え方と同じになってしまいます。お金持ちの時と同様に、ここではリテラシーに目を向けるべきです。リテラシーが高まれば利用する、しないはその人に委ねられますから。

荒川:なるほど。ちなみに、徳を高めるためにはどうすればいいのでしょうか?
素朴にイメージしていることは、徳を高めるためには善行を積む必要がある考えています。例えば、道がわからない人に教えてあげるとか、優先座席を譲ってあげるとかそういうことの積み重ねが徳を積むことだと思っていますが、どうでしょうか?

松原さん:まず、整理が必要です。徳を積むことと徳に関するリテラシーを高めることを分けて考えるべきです。その上で、まず、徳を積むことに関してですが、物事を考えるときにそれは「することがベース」にあるのか、「あることがベース」にあるかを考えなければなりません。この場合、徳は「あること」がベースにあると思います。

荒川:ちょっと待ってください。先ほどは「善行を行うこと」によって「徳を積む」とおっしゃっていましたが、このように考えると徳を積むことは「すること」ではないですか?

松原さん:いえ、違います。「善行」という言葉は確かに行動に対してなされる評価ですが、冒頭、偽善を「善」ではない何かを目的として行動することと定義しました。もし、徳を積むことが「すること」であれば「徳を積むために善行を行う」という善行本来の定義から外れた文法が成り立ってしまい、善行の性質と矛盾してしまいます。

また、「善」であるか、「悪」であるかを問わなければならない背景自体が問題であるとも指摘しました。問題そのものに対して、善悪関係なく取り組む行動こそ善的であるとすると、そのように行動してしまうことに焦点を当てるべきだと思います。

以上2点より、「徳」とは一種の性質であると考えられるとすると他の性質がそうであるように、そもそもキャパが高い人もいれば、低い人もいると思います。このような前提を置くと、あまり訓練によって伸びるものでもないと思います。

荒川:すると、有事の際に多くの人がなんとかしないといけないという気持ちから行動を起こすことがあると思いますが、「徳」のお話もお聞きし、本能として助けに行っているような側面があるのでしょうか?

松原さん:単純な答えはYesです。感情の発生という意味では目の前で人が転んだ時になんとかせなあかんと思うこともあると思います。人間はそのようにできているところがあると思います。

ただ、そこで偽善であるか、善であるかが変化していくポイントがあります。感情が湧き上がるから善ではありません。おばあちゃんが倒れた時に天変地異のように動く人もいれば、そう変わらない人もいると思います。この感情の沸き起こり方が低いから悪いとは言えません。それは個性でしかありません。相対的なので、その人の資質がどこに響くかによって変わるはずです。なので、ある一部の行為だけを見てその人のことを判断できないと思います。

直近の震災での皆さんの言動によく現れています。「これはなんとかしないといけない!」と言いながらSNSで記事を一つ、二つシェアした程度だとすると、そんなに響かなかったのかなと思ってしまいます。また、逆に社会性に流されやすい人だと、思ってもないのに多めの寄付をしたりしてしまうこともあると思います。大事なのは自分の資質からくる感情に対して、どの程度、行動が伴っているかが大事です。思ってもないことをやっているということは思ってもないことをやらないといけない背景、理由があると考えられるので、この感情に不釣り合いな分の行動は善行とは言えないので、これは偽善です。

荒川:お聞きしていると「社会にいいことするぞ!」とか、そういう気持ちって実は不自然なことも多いのかもしれないなと感じましたね。

松原さん:何も感じない社会の中にいると「何かをしないといけないんじゃないか」という自然な刷り込みってあると思うんですよ。実際には逆で余計な善悪を考える必要がないから純粋な自分とは何か、何を持って生まれたのかを考えられる状態にあると思うんです。しかし、感情的にも、思考的にもマイナスが大きい方がホームランを打った気になれるので、「ここまでやったった!」という錯覚した充足感や連帯感を味わっているのが現状の構造だと思います。では、何を考えるべきかというと、自分が本当に思っていることを本当に思っている量を現実にすることをやればいいだけです。

ただ、自分が本当に何を持っているかは外に充てられた方がわかりやすかったりします。「地震で多くの方が亡くなったことをどう思いますか?」と聞かれるとそのことに答えざるを得なくなりますよね。

だから何もないような社会背景を好まないところがあると思います。気持ちはわかりますが、それは「何か刺激さえあれば触発されて俺できてるもんね」、と言っていることになりますが、「自分に備わっているものを見つけてやっていくぞ」とは言っていません。そういうものが蔓延しているというのが現状かなと思います。

荒川:偽善が蔓延する社会の中で、自分が本当に思っていることを思っている分量やることが本当に善と言えることに通じる道なのかなと感じました。松原さん、今日はありがとうございました。



子どもの貧困、人種差別、気候変動問題など社会には多くの問題がある。少なくともあるとされている。また、喫緊では、ウクライナやパレスチナの紛争、新年早々に能登地震など心が痛む事件も多い。

でも、立ち止まってみて考える。

「私」はそのことに対して「本当は」どの程度問題と感じているのだろうか。

心が動いていないのに、心が動いたふりはしていないだろうか。

あえてマイナスを作り出し、そのマイナスの現状を怒りのエネルギーに変えて、踊ってはいないだろうか。また、踊らされてはいないだろうか。

明らかに意図を持って嘘をつき、偽善を行う人がいる一方で、実は多くの人が「思ってもないこと」を言っているのかもしれない。しかし、それは他人に偽りの姿を見せているのではなく、自分に対して、自分を偽っているだけかもしれない。

偽りの自分に憧れと幻想を重ねて。

僕は自分に対して思うことがあった。
あなたはどうだろうか?



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