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短編小説【覚醒後夜】

前編【覚醒前夜】はこちら

もともと田舎住まいだったから、中堅都市のメインステーション近くに引っ越したことで利便性は高まった。中堅都市と言っても穏やかな土地柄で5分も歩けば大きな芝生の公園があるようなところだ。

私がまずやったこと、それが草木染だ。草木染のことはほとんど何も知らなかった。興味もなかった。たまたまYouTubeで見かけたのでやってみた。花や葉、ときに枝を煮詰める。色を取る。白いTシャツを入れて染め上げる。細かな材料と手順はあれど要はそういうことだ。そしてこの単純かつ明快な作業は難航した。というより失敗した。どういうわけか白いTシャツは色物と一緒に洗濯したときと同じような色味になった。後で調べてみると染める前に行う手順を雑にしてしまったようだった。絵を描いてみた。そもそも道具がよくわからなかった。アクリル絵の具のアクリルという意味もわからなかった。やはりネットで調べ、ネットで購入し、家で描いた。早い段階で納得した。どのような納得の仕方だったかわざわざ言う必要はないでしょう。陶芸教室の体験入学に通ってみた。二度目はなかった。美味しい味噌汁を作るために凝った出汁を取るようにした。旨味の素晴らしさにこれこそが私の生きる道ではないかと思ったが、そのような妄想は早々に在りし日の1ページとなった。その他のいくつかの何かに、勇猛果敢に挑戦して玉砕した。結局のところ5分歩いた芝生の公園にあるスタバのテラス席でコーヒーを飲みながら空を見ている。季節は良く、空は高く聡明に青い。

多くもなく少なくもない貯金という実弾によって毎日を泳いでいる。ある日、スタバのテラス席から少年が見えた。少年は右脚がなかった。車椅子ではなく杖をついて歩いていた。別のある日はダンディなおじさまがアラサーと思しき女性2人を同時に口説いていた。いや実は既に口説き終わっていて、両手に侍らせていただけかもしれない。さらに別のある日は雨でひんやりとするテラス席に誰も座らなかった。そうかと思うと店内の4人組のサラリーマンが大きな声で下品な話題をニタニタしながら話していた。いずれにせよ日常のよくある1ページだった。

メインステーションの構内を通り抜け反対側にあるスーパーに向かった。スーパーの入り口に差し掛かった時、背後に不穏な空気があることに気がついた。私はあまり気にせず中に入り、買い物をした。バゲットと3種類のチーズとハムとディルを買い、お酒コーナーでこの季節にぴったりなロゼワインを買った。スーパーを出ると何人かの警官の姿が目に入った。私は無視を決め込んで帰宅した。東南アジア某国の男性が別の同じ国出身の男性を何度も刺した、と後からネットニュースで知った。

季節が少し変わり夏になった。私はレンタカーを借りて隣町に車を走らせた。特別な目的は何もなく、気分転換のドライブをしたかった。その町には何年か前に他県から酒蔵ごと移動した清酒メーカーがあった。著名な建築家もなぜかこの田舎に事務所を構えた。私は田んぼの真ん中にある、評判がそこそこ良いカフェでコーヒーを飲んだ。景色は良くコーヒーは普通に美味しかった。まだ昼過ぎで時間を持て余し、温泉にでも行こうかと考えたが気が乗らなかった。そそくさと家路についた。

男性と付き合い始めたのもその頃だった。前の仕事の取引先で、でもあまり接点のない人だった。共有スレッドのメッセージで内容を把握するだけの立場だった私は、いつの間にか個人的にメッセージを送り合うようになった。だが仕事を辞めるとそれっきりになった。お盆前のある日彼からメッセージが入った。何気ない会話を何事もなくした。はじまりとはおよそそういうものなのだろう。私たちはライトに付き合いはじめ、食事をし、コーヒーを飲み、セックスをした。ドライブをして、一人では億劫だった温泉に何度か行った。他愛ない会話をして「あぁ好きだな」と思った。そして2ヶ月で別れた。

季節は秋になった。

私は実弾があるうちに打ってしまおうと思った。なくなればどのような踊りの名人も袖を振ることはできないのだ。私の住む地域は十分に寒いところにあるが、それにもまして寒い場所に行こうと考えた。そのようなわけで私はアイスランドの首都レイキャビクにいる。私を私たらしめるには寒さが必要だった。少し理屈が過ぎると思うけど今からそのことを話そう。

春先のある朝に私はこれまでの私ではなくなった。私でありながら私ではなく、私ではないのにそれこそが私だった。これまで生きてきた私は一体誰だったのだろうとすら思った。もちろん私の記憶のスケジュール帳には、これまでの私の予定が目一杯に埋まっている。他の予定を入れる余地など微塵の隙間もない。しかしそれからしばらくして、私はそのスケジュール帳をとてもおぞましいものに感じるようになった。一度そう感じるといてもたってもいられなくなった。

こんなこともあった。何事もデータで管理する私としては珍しいことに・・・すっかり存在を忘れていたのだが・・・引っ越しで整理をしているとき、10枚程度の写真が収められた小さなアルバムが出てきた。何年か前に付き合っていた元カレが、デジタルデータをプリントアウトしてプレゼントしてくれたものだった。ページをめくってみると何度か見た写真が並び、何度も見たことがあるはずの私の顔が写っていた。だがそれは私ではなかった。私の皮を被った誰かだった。これまでの歴史の重みを背負い、平気な顔をしたりときに号泣したりしながら前へ前へと進み、仕事の責任を果たし、健やかなる時も病める時も、善なる思い出と悪辣な秘密を抱えながら、それでも頑張って生きている私の姿だった。私は自分のその姿を、健気だと思えなかった。ただただおぞましかった。この人は誰?気持ち悪い顔、雰囲気。私にはこのキモチワルイ女性の記憶が細胞の一粒一粒まで刻み込まれている。春からこの方、蟹や蛇が脱皮するかの如く脱ぎ捨ててきたつもりだったが、泥土にまみれた滑る感じは今も私を絡み粘りついている。それゆえ、つまるところ、極限に位置し極寒のアイスランドに来たのだ。私には「冷める」必要があった。

覚醒という字はどちらも「さめる」と読める。

眠りから覚める。目が覚める。逃避した何かから現実に戻ることができる。醒めるは逃避じゃない。違うものを見ている。錯覚している。そしてそれを本当だと思い込んでいる。私は見ていなかったものから覚め、私だと思っていたものから醒めた。ないと思っていたことから覚め、あると思っていたことから醒めた。すると大したものは何も残っていないことに気がついた。しかもそれをどうにかしようとは思わなかった。私はもう少し覚醒したかった。すればするほど何もない自分が露呈してもそうしたかった。そのために冷める必要があった。

昔から不思議に思っていることがある。この話は誰にしても微妙な顔をされるのでいつしかしなくなった。人はどうして神様や天のことを考える時、上を意識してしまうのだろう。高い音と低い音なら高い音をより神聖に感じるのだろう。無限の慈愛による温かみでないなら、なぜ私たちは高温よりも低温の方に神秘さを感じるのだろう。これはずっと数学者を悩ませ続ける未解決問題のように、私を悩ませ続けてきた純粋で解けない問題なのだ。だけどとにかく私は冷めた方がいいと直感した。何かの重要ごとがこの身にに起こった時(つまり今だ)、私は上と、高い音と、低温を目指すと決めていた。いやそれほどに意思がある話ではない。決まっていたという方が正しい。

冷たさを求めて私はレイキャビクにいる。相変わらずカフェでコーヒーを飲みながらそのようなことを思索している。9月のここは日本の初冬と同じで寒く冷たい。レイキャビクの街の低い建物の整列には統一感がある。世界一犯罪が少なく、誰もが親切で平和だ。ところが、それが幻想のように感じられる。上手く馴染むことができない。私の目の前に繰り広げられる本当のことこそ、私にとっては最大の夢物語のように感じられる。

結局以前と変わらず残ったものはカフェでコーヒーを飲む習慣だ。この先いつ日本に帰るのかまだわからない。仕事や、彼氏や、結婚のようなことは考える気になれない。いずれ実弾が尽きれば、いや尽きる前に働くことを強要されるだろう。この世界では誰もがそうして生きている。

そういえば思い出したことがある。きっかけは些細なことだ。バナナだった。バナナがきっかけで、子供の頃に一度覚醒したことがあった。たしか7歳か8歳頃のことだったと思う。ちょうどあの時、あの頃から私はコーヒーを飲むようになったのだ。どうして今まで忘れていたのだろう。いや、バナナの話もコーヒーの話も今はどうでもいい。今回が二度目の覚醒なのだということも取り立てるほどのことではないのだろう。ここまでのことを手記に残しているが、淡々とした気持ちで滔々と書いている。何しろカフェでコーヒーを飲みながら考えるだけでは手持ち無沙汰なのだ。

「あーあ。アフリカでも行くかな」

私は心にもないことを声にしてレイキャビクのとあるカフェを後にした。

「この国にはスタバがないんだよね」と呟いた。

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