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「戦争を欲する国家と漂う日本」〜荒川隆太朗さんインタビュー02【コラム#055】

あなたは戦争を望むだろうか?

そんな訳ないだろ、と声を荒げるかもしれない。

ただ、現状、事実だけをみると「人類は戦争を求めている」ようにも見える。

2022年2月24日 ロシアによるウクライナ侵攻が始まった。

2023年10月17日 ガザを実質統治するハマス戦闘員が、イスラエル領内に侵入し、市民・兵士約1200人を殺害し、空爆や地上戦が始まった。

どちらの紛争も未だ決着を見ない。それどころか相互に絡まり合っており、一部では第三次世界大戦が始まったという見方もある。

時代の捉え方は人それぞれあるとして、事実として今起きている戦争をどう捉え、考え、行動していくのか、この「難しい問題」に対して、日本人として、平和を求めて行動を起こすべく、知の巨人、松原さんに聞いてみた。

という、N◯Kさながらの、「もっともらしい記事」にしようと思ったが、その対話はあまりにも「意外」で、だけど誰も口にしない「本当のこと」が明らかになる展開となった。


<平和が当たり前という誤った前提>



インタビュアー 荒川隆太朗さん

荒川:ウクライナ侵攻、パレスチナ情勢による影響で、国際情勢全体が戦争ムードに包まれているように感じますが、そもそも戦争紛争はなぜ起こるのでしょうか?

松原さん:どの視点から語るか難しいですが、まずは大元から。

子どもの頃、普通にパンチとかしてましたよね。あれって大人になるとなんでなくなると思いますか?

荒川:我慢したり、口汚く罵ったり、陰湿な形になってるだけで、本当はなくなってないような気もします…。

松原さん:よく言われることですが、「戦う」という行動がスポーツやゲームなどに置き換わるという見方がまず一つあります。他にも差別や陰湿な嫌がらせなどの形にすり替わることも考えられます。形を変えただけで、私たちの暴力性は決してなくなっていません。

なぜ戦争が起こるのかと考える時に、国家間の大きな、そして、概念的な物事として捉えると具体性に欠けますが、小さな単位の個人間の争いとして具体的に考えると人は日常的に争っています。人数規模や経済規模が大きくなるとやり方も変わってきますが、やっていることは同じ面があります。

以上を踏まえると、前提として、「人は争わないものだ」でなく、むしろ、「人は争うものだ」とした上で、戦争と平和は時期によって入れ替わり、「今は争う時期だ」くらいに考えた方が現状をよく説明できると思います。

荒川:そう考えた時に、平和を守るためにどのような施策がありえるでしょうか。

松原さん:まず、「戦争時期」と「平和時期」があるといえます。例えばそれぞれの時期は半々くらいあるものとします。「平和を守る」を「平和時期を伸ばす」と読み替えると、「平和時期」を優遇すると少し伸ばせる気もしますよね。

ところが、仮に「平和」を「何も起きていないこと」と定義した場合、「平和時期」は「何も起きていない」時期なので「今がまさに平和」と認識することが難しいです。結果的に、「何も起きていない」時期になってしまうので、「この期間を優遇しよう」と考えることはあまりありません。

むしろ、「何も起きていない」状況下で、「平和はもっと良いもののはずだ」と信じたい気持ちがあった場合には、次々と手頃な社会問題を探して、解決しようとすることで、何かやっている気分になります。一方、それはその問題を解決する取り組みであって、「平和時期」を伸ばすための取り組みではありません。

この問題探しを始めてしまう、「平和はもっと良いもののはずだ」という信念は、戦後の「平和を重んじましょう」という刷り込みによるところが大きいと思いますし、荒川さんが持ち込んだ今回の平和に関するテーマ自体も同じ信念が伺えます。しかし、現状の日本は諸外国に対して、軍事的な進行が行われているわけでも、攻め込まれているわけでもありません。何も起きていないという意味では今も「平和」ですが、このことをあまり認識されていないように思います。

なので、結論としては現状、平和に対して敏感な日本人でも「平和」を認知し、そこを発展させることはできていないので、これまで有効な手立てを打てておらず、何が有効かを明言することはできません。


<戦争を欲する国家と漂う日本>


荒川:では、仮に「戦争はするもの」だとすると、なぜ戦争が必要なのでしょうか?

松原さん:様々な観点があります。例えばその一つとして、歴史的にみると、食料は結構大事ですね。自国の資源が足りなければ豊かな隣の村から奪うしかないことがあります。国単位でなく、村単位の時代から起こっていたと思います。食料・生活が満たされると次に戦う理由はプライドです。「俺たちの村が一番だ」「他のところより優れている」とかやたらにプライドを持ちますが、それが傷つけられると戦うことになります。

荒川:所謂、侵略戦争は戦って食料を得ることが目的か、戦うことそれ自体が目的かはどうでしょう?

松原さん:どちらかというと前者です。実は戦争が起こらない地域も存在します。理由は簡単で、侵略してまで獲得したい優れた資源が何もなく、侵略のメリットがないからです。やはり、何かのメリットがないとわざわざ争わないと思います。争いは自分も傷つく可能性があるので、リスクが高いです。それを超えるメリットがないと戦争は起こらないと思います。

荒川:そのような観点だと、人間が生物として戦う高揚感や飯を食わないといけない緊急性も含め、人は社会や集団としても戦争が必要な背景があるということでしょうか?

松原さん:その通りだと思います。例えば、食料や石油、国によっては不凍港など自国に必要なものを確保するため、武器産業で経済を潤すためなど、理由は様々ですが、各国が戦争を行う事情は個人に属するものではなく、集団に拠るところもあると思います。

荒川:すると、先ほどおっしゃられたように「平和が当たり前で、戦争が起こってはいけない」という前提から「争うことが当たり前で、平和という時期があることもある」という前提に考え方をシフトすると、個人の考えや政治に対する関わりはどのように変わる必要があるのでしょうか?

松原さん:地政学上の理由で国によって前提が異なります。大陸側の国や海に面している国で戦略が異なります。小国や大国の間に挟まれた緩衝地帯だと身の振り方がまた異なります。もちろん、経済状況や政治体制、社会制度などまだまだ前提となるべき要素はあります。

その上で、日本の現状を総合的に考えると、「こっちからは攻めませんが、結構な軍事力を持ってますよ」というスタンスは悪くないかなと思います。そして、日本国民は争うとか、戦争とか現時点では一切考えてないですよね。このことは日本の現在の状況が悪くないという前提からいえば良い方向へ働いていると思います。

荒川:皮肉なことですが、「平和であるべき」という誤った前提を持っているために、戦争に向けた行動を起こさないことが、結果的に日本の悪くない身の振り方を維持し、実現しているということですか?

松原さん:そうですね。例えば、過激な右翼は尖閣諸島や北方領土に軍事侵攻しろと主張しますが、そうなると「こっちから攻めません」という今のスタンスが崩れることになります。しかし、近年の右翼主張はどうもそこまででもなく、軍隊増強とか言い出しません。この状況が今のところ無難でいいような気がします。

荒川:すると、右翼と左翼の双方の主張の割合は現在のような拮抗状態にあるのが今の日本の状態においては好ましいのでしょうか?

松原さん:いえ、日本の政策だけを考えると双方ともに声高なだけで実質的な影響力は持ち合わせていないと思います。その上で、政治家が「どっちに寄るのもちょっとなぁ」というなぁなぁで、曖昧な現在の状態がいいんだと思います。

荒川:身もふたもない結論ですが、なんだか日本人らしい気もします…。松原さんのおっしゃる通りだとすると、このような何もない状態を一種、「平和」と見るのでしょうか?

松原さん:定義を考える時には2つの面があると思います。戦争がないだけの状態を「平和」と呼ぶのか、戦争関係なしに「平和」という物事があるのか。もし、戦争がないだけの状態を「平和」と呼ぶのであれば、十分、「平和」といえると思います。ここまでの議論もその前提で進めていると思います。一方で、「戦争がない状態」ではなく、「平和」というものがあるのであれば、それはだいぶ定義が難しいと思います。人の数だけあると言っていいでしょう。

ただ、一つ言えるのは「平和が目的としていることは何か?」という視点です。平和の状態で「何をどうしていくんですか?」の定義によって「平和」の位置付け、意味合いは人それぞれ変わってくるのかなと思います。

荒川:松原さんの思う平和をお聞きしたい気持ちもありますが、この点は読者の皆さん一人一人に考えてもらえるといいですね。

「あなたが望む平和は、何のための平和なのか?」

とても深い問いだと思います。


<個人と国家>


荒川:最後に個性と国際情勢についてお聞きします。個性から見た時に戦争状態が好ましい人もいると思います。個性と国際情勢の関係性はどのように見るのでしょうか?

松原さん:そうですね。個性が戦争に向いている人はいると見ていいでしょう。一方で、個人と国際情勢の関係性はほぼありません。よく「国際情勢に目を向けることが大切ですよ」と意識向上を志すジャーナリストの言説やメディアの発信を目にしますが、「目覚めて何なのか?」と考えると国際情勢が個人に直結することは、例えば物価上昇や石油価格の上昇などがあるくらいです。逆に言うとそれ以上のことは何も起こらないです。なので、直接的な関係はないと言っていいと思っています。

荒川:一方で、国際情勢に限らず、人を選挙に参加させようという試みがあったり、政治をもっと見ようという声がありますが、これらも個人と政治という風に見ると同様にほぼ無関係であると考えていいでしょうか。

松原さん:いくつかの観点があります。例えば、一旦、政治を政策、投票、政治体制の3つに分けて考えてみたいと思います。まず政策から。

政策はほぼ関係ないです。試してみるといいと思いますが、国政や地方政治の政策が個人の生活と関係のあることをリストアップしてみてください。リストを正しくみていくとそこまで大きな影響がないことがわかると思います。

次に投票ですが、仮に選挙に行き、自分の望んでいる政治家を当選させたとしても、日本の政治体制は一人の政治家の判断によって動くほど単純にはできていませんし、その政治家が当選後に公約を果たすことにコミットするとも限りません。このような現在の日本の政治の構造・メカニズムを正しく捉え、その政策を評価すると「別に参加や投票をしたところで、何ってこともない」という結論に至ると思います。

以上を前提に合理的に普通に見れば、日本の政治体制において、政策による個人への影響も、個人が投票で与えられる影響も薄いことは明らかなので、「何のために目を向けようとしたんですか?」の答えは出ません。

荒川:松原さんの説を裏付けるように投票率は下がる一方です。仮にご指摘にあった政治的な構造・メカニズム上の問題だとすると、そこが改善すると投票率が改善することもあるのでしょうか。それとも既存の政治体制だとどうやってもこうなってしまうのでしょうか?

松原さん:まず、「投票率の改善」と言われましたね。その前提には「投票率が上がれば政治が良くなる」という素朴な考えが伺えますがそうでもありません。良い国の例として、よく北欧が挙げられ、政治に対する教育は意識が高いといわれますが、税金が高いことなども投票率が高い一因と言われています。また、ロシアも実は投票率も極めて高いです。半強制的に行かされて、半強制的に投票させられる仕組みがあるからです。先ほどもお伝えしましたが、投票行動によって及ぼせる影響はほぼありませんし、その結果、私たちの生活に対する影響はほとんどないと見ていいでしょう。

政策や投票による影響は大きくありませんが、政治体制による影響はどうかというと、個人が生きる前提に関わる部分なので大きく影響を与えると思います。北朝鮮式の政治体制か、フィンランド式の政治体制かで、今とはだいぶ違うものになることは容易に想像できます。

日本の政治体制も含む現在の政治を取り巻く構造では、政治家は自分のことしか考えない馬鹿ばかりになる構造なので、「自分のことしか考えない奴が選ばれる」結果になります。もし、この現状を選挙で変えようとお考えなのであれば、それは少しおめでたいかなと思います。

荒川:なるほど。確か以前、どこかの発信で松原さんが生きる場所を選ぶことの重要性を説かれていたと思いますが、政治体制が異なると人生における前提が変わってしまうので、自分に合った場所を選ぶというのは気候や風土に限らず、政治体制の面でも大切なわけですね。自分の個性に適った国や環境を選ぶ話はまた別のコラムなどを参照いただくとして、ここまでのお話をまとめると、

  1. 「平和が当たり前」ではなく、「人は戦争をするものだ」から考えるべき

  2. そもそも「平和」の定義は2つの面から考えられる。「戦争がないこと」を「平和」とする定義と「何かの目的のもとに平和を位置付ける」定義がある

  3. 戦争に対する日本の白も黒もつけないスタンスは功を奏している

  4. このスタンスは自分のことしか考えない日本の政治家が、議会の空気を読みながらのらりくらりやっている結果、生まれている

  5. それをより良いものにする試みとしての投票行動はほぼ無意味

  6. また、投票の結果、選ばれた議員が作り出した政策が個人の生活に及ぼす影響は薄い

  7. 一方で、各国の政治体制は個人が生きる土台となるので、自分に適した場所を選ぶ努力をすべき

以上の7点が見えてきたかなと思います。それにしても極めて「日本人らしい」姿が見えて、なんだか腑に落ちたような、モヤっとするような不思議な気持ちです…。

松原さん:普通に考えたらそうならないですか?笑

荒川:いや、おっしゃる通りで、意識が高すぎてしまうと願望や思い込みを投影しちゃうんだろうなと思いました笑。

そんなどっちつかずで、成り行きの中でやっていく日本で「君たちはどう生きるのか?」というメッセージを読者の皆さんに問いかけて終わりにします。松原さん、本日も貴重なお話ありがとうございました。



「戦争反対」
「北方領土を取り戻せ」

左右を見渡しながら大きな声が聞こえる一方で、目に飛び込んでくるのは沈黙する通行人。圧倒的大多数の人は戦争に関心を持つことなく、スポーツやゲームで争いの本能を沈め、スーパーで買ってきた惣菜を頬張って食欲を満たしている。

今日の日本では物価上昇こそあれど、それなりに満たされた「平和」な毎日とその傍でコメディみたいな訳のわからない汚職が議会で取り沙汰される。そんな我が国の軍事的なスタンスは日本らしくゆらゆらと堂々巡りを繰り返しながら、結果的に「こっちからは攻めませんが、結構な軍事力を持ってますよ」というスタンスに落ち着いている。

この国際社会が荒れ狂う中を何というスタンスや意志を持たず、ふわふわと漂う日本の在り方は案外、地政学上の立ち位置も含めて、国策としては悪くないのかもしれない。

国家や社会情勢など大きな話をした後に最後に残るのは「結局私はどうしたらいいのか?」だと思う。

もし、本当に平和を希求するのであれば、平和を自ら定義し、「戦争はするもの」という前提から「今何をすべきか?」を考える必要がある。一方、大多数の人にとっての結論は「多分、そんなに関係ないから気にせず生きろ」となる。

じゃあ、この記事はなんだったのかというと、「社会を変えてやる」と言えなくても、「この社会でどう生きるのか」、あるいは「どの社会を生きるのか」に答えを出すヒントにはなり得るだろう。

この記事を読み終え、あなたが漂い続けてスタンスを取らない日本に対して、もし、違和感を抱いていたとしたら立ち止まって考えてみてほしい。僕たちは自分の人生において同じように、平然となんの悪気もなく社会を漂うように人生を生きてはいないだろうか?

そもそも平和が当たり前という前提も日本の空気を吸う中で気がつけば生まれていたものではないだろうか?

もし、そうだとするとそんな日本のスタンスの取り方を批判する時間があったら、もっと自分の人生に真剣に向き合い、どこまでも個性を追求した方がいいのかもしれない。

なぜなら、それこそが「平和」を勝ち取ることの一つの意味かもしれないから。


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