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ジブリ宮崎駿作品は、なぜ「庭」が異世界との接点なのか。ガーデン雑誌編集者が読み解く

大学を出て編集者として働き始めた私が配属されたのが、作庭家の庭を紹介する雑誌だった。日本各地のガーデンデザイナーが作った庭を巡るうち、庭について深く考えるようになった。そんなとき、ふと、卒論のテーマにした宮崎駿のジブリ作品が頭に浮かんだ。庭というと花いっぱいの花壇やバーベキューを楽しむデッキを思い浮かべる人が多いのではないだろうか。庭はもっと深くて広い。人間そのものと言える。ガーデン雑誌を担当することで感じた「庭」の姿を宮崎駿作品も実に深く広く表現していたのである。その世界をさっそく見ていこう。

異世界との接点は庭にあった

そもそも宮崎駿作品の中で庭は異世界との接点になることが多かった。

トトロで、メイはチビトトロを庭で発見し、追いかけているうちに、いつのまにか異世界に迷い込み、森で寝ていたトトロに出会う。

紅の豚のジーナは、庭でポルコを待っている。
ハウルの動く城で、ハウルは小さな家のある花畑を「僕の庭」と呼んだ。ハウルはそこで星を飲み、カルシファーの魔法の力を手に入れたのだった。

古い家の庭はさつきとめいの遊び場
庭で遊んでいたメイはチビトトロを見つける
庭の穴からチビトトロを追いかけていくと…
大きなトトロに出会う
ジーナはポルコが庭にきたら、愛そうと決めている

宮崎駿は「庭」を多義的に捉えている

宮崎駿が「庭」に特別な思いを込めていると気がついたのは、もののけ姫のワンシーンだ。

乙事主たちイノシシとエボシたちが激突し、死屍累々の焼け野原に赴いたアシタカに石火矢衆は言い放つ。

「ここは修羅の庭、よそ者はすぐに立ち去れい!」

修羅とは、戦いの神、阿修羅のことである。ここでは、戦いの場を「庭」と表現している。庭を自然や花と親しむ場所とする一般的な概念からかけ離れた表現だ。

さらに、振り返れば、エボシとアシタカが初めて会ったとき、エボシはアシタカをある場所に案内する。「皆恐れて近寄らぬ私の庭だ」と表現するその場所には、不治の病に侵された者たちがいる。これも一般的に、「庭」とは表現しないだろう。

宮崎駿は、多義的に庭を捉えていると確信した。

「秘密を知りたければ来なさい」とエボシはアシタカを庭へ案内する

「庭」とは自然と人間の境界にあるもの

そもそも「庭」とは何なのか。
紀元前1万年ころ、動物や略奪者から家や作物を守るため、囲いを立てたのが始まりとされているがはっきりとはわかっていない。時代が経つにつれ、裕福な貴族や市民が美観のために庭園を造るようになったという。日本における庭の起源に、祭祀や儀式が行われた広場という説もある。

庭と言ってもその様式は様々だ。

フランス式庭園は、左右対称・直線的なデザインが際立つ庭だ。そこでは完全に自然は人間に支配されているように感じる。

庭の取材をしていた当時流行していたイングリッシュガーデンや雑木の庭は、それに比べ自然の景観を模写したようなナチュラルな庭だ。そこには、自然と人間との共生を感じる。

庭の造形は、それぞれの文化における、人と自然の関係を現しているように思う。

山に生えている木を使った自然風の庭
フランス式庭園。左右対称、直線は自然界にはない形だ
シシ神の森は、人を寄せ付けない原始の森
ラピュタに残された庭。園丁のロボットが守っている。
園丁のロボットと心を通わすシータ。「人は土から離れては生きられない」と気づく

森と人の間に立つ、ナウシカ

宮崎駿が脚本・監督を務めた長編アニメ、風の谷のナウシカは1984年に公開後大ヒットした。当時、腐海は自然破壊に、火の七日間は核戦争になぞらえ、宮崎駿を自然との共生を説く人として印象づける論評が多かった。

アニメのラストシーンでナウシカは、命をかけて王蟲の怒りを鎮め、王蟲の不思議な力で復活する。感動的な場面だ。

ところが、宮崎駿は、アニメ版風の谷のナウシカ公開後のインタビューでラストシーンは失敗だったと答えている。宗教画になってしまったからだと言う。ナウシカがあまりにも慈悲深く、もはや救世主(神)のような存在になってしまったことの反省だった。

ナウシカの姿は予言に出てくる人類の救世主「青き衣の人」に重なる

ひとりの人はひとつの庭

アニメ版風の谷のナウシカは、宮崎駿自身による原作漫画がある。宮崎駿は、1982年~1994年、10年以上にわたって、アニメの準備のための休載をはさみながら漫画を描き続けてきた。(これ以降ネタバレ含む)

漫画の終盤、ナウシカの旅の途中に、奇妙な庭が登場する。

そこには、腐海に侵される前の世界に生きていた動植物が残され、牧人が守っていた。人間の言葉を解するヤギたちと庇護されて生きる小鳥や草花たち。ナウシカは初めて安らぎを感じるが、何かが違うと気づく。出ていこうとするナウシカを牧人は引き留める。

「皆自分だけは過ちをしないと信じながら 業が業を生み悲しみが悲しみを作る輪から抜け出せない この庭は全てを断ち切る場所」

この庭で、ナウシカは腐海の真実を知る。物語の中で重要な役割を庭が担った。

墓所に向かったナウシカは、墓を破壊する。墓の主が最期に発した毒の光からクシャナの父、ヴ王がナウシカをかばって言う。
「お前は、破壊と慈悲の混沌だ。もっと早くに会いたかったぞ」
アニメでは、聖人だったナウシカは、漫画では、矛盾を抱えた人間として描かれている。

破壊と慈悲の混沌、それは「庭」そのものと言えないだろうか。

宮崎駿は、庭を単に美観のための場所ではなく、自然との共生の象徴、人間が自然を都合の良いように作り変えた(ある意味破壊の)象徴として描いてきたのだと思う。破壊することと慈しむこと。相反する概念を持つものが、庭であるなら、矛盾を抱えた一人の人間は、ひとつの庭と言えるのかもしれない。

漫画連載完結後初の大作アニメ、もののけ姫で、人間は木を切り、森を焼き、自然を破壊する。森の神々や動物は死ぬが、そのおかげでエボシの村は豊かになる。デイダラボッチに首を返しても、森は元の森には戻らなかった。うっそうとした原始の森は消え、ハイキングやピクニックによさそうな明るい現代の森が現れる。

人間は自然と共生はできない。
自然を破壊して人間は生きていく。
そのことから目をそらすな。

宮崎駿のそんなメッセージを感じる。

アシタカの「くもりなき眼」は、矛盾を矛盾として見つめる目である。

自分のなかの矛盾を見つめて生きる。

それは、苦しいことだ。でも楽しみもそこから生まれる。

苦楽で培った、知識と経験が、自分の庭を耕していく。

ひとりの人の庭は広くて深い



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