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名前は親のエゴとは言うけれど・・・

みんなは、お子さんの名前をどの段階で決めたのだろう?

お腹の中にいるころから既に決まっていて、名をお母さんのお腹越しに呼びかけていたのだろうか?それとも性別はわかってなく、男の子だったら○○、女の子だったら○○。というようなアレンジなのか?

ほとんどの方がそうだとは思うが、名前決めるの苦労したよね?

え?しなかったの?決断力すご。。。

我が家は長女の時は割とすんなり決まったのだが、残り2人の時はなかなか時間がかかった。最終的には生まれてから赤子と対面し、腕に抱いてスヤスヤ眠る寝顔を見ながら名前を決めたのだった。

名前の候補をヨメと共にいくつも出し合って、あーでもない、こーでもないと論議・抗議を繰り広げるのは経験者からすると「名づけあるある」じゃないかな?

画数や姓名判断などもそこそこ有名な日本では名前ひとつとっても1世代の大仕事なのだ。

イギリス・オーストラリアなどでは名前はキリスト教関連から引っ張ってくることが多く、同じ名前をよく耳にする。

ジョン、デイビッド、アンドリュー、ジェームス、ジョナサン、アダム、、、などなど。(なんかカタログから選ぶ気分?)

一応これらの名前には意味も含まれているので、イギリスの人が名前に親の願いを込めてないというわけではない。例えば、「デイビッド」はヘブライ語で「最愛の人」という意味がある。

だが、我々日本人には漢字というものがある。

同じ音の名前でもそこに込めることのできる意味・願いは何通りでも創り出すことができるのだ。

非・日本人の人に、「○○って名前、どういう意味?」と聞かれることがたまにあるのだけど、回答はいつも一緒。

「うーん、、漢字によるね」

例えば「みか」という名前があったとする、ローマ字にするとMIKAしかないが、漢字にすれば👇のようにたくさんのバラエティーがある。

美香 美夏 海嘉 未果 三佳 深香(コーヒーじゃないんだから)

これ、ぜーーーんぶMIKAだよ!

そう言うと相手は大抵、ひぇーーーっと驚く。

我が家でも長女の名前を決めた時は日本語の名前講座から始まったのだった。幸いボクは字画・字数にはそこまでこだわらないのでそこは講座には組み入れなかったが、世界のどこかにはこの字画などについてもとことん教えられた配偶者の方もいることだろう。(お疲れ様でした<m(__)m>)

そしてグローバル化した近年では「海外の人たちにも親しまれやすい(呼びやすい)名前」などという更に命名のハードルをあげるような項目を盛り組む場合だってある。


前置きが長くなったが、本題に入ろうと思う。

名前を決める時は多くの場合、「名前が意味するような子に育っていってほしい」という親の願いが込められている場合が多い。

それを親のエゴと言うのであればたしかにそうかもしれない。

小さなころから、あなたは○○って名前だから○○な子じゃないといけませんよ!と言い続けることは「呪縛」効果になってしまうことだってある。

勝手に産んで、勝手にあんたらの理想を押し付けてんじゃねぇよ!

そう叫びたい子どももたくさんいるだろう。

でもさ、親になってみてわかったんだけど、
そして3度目の命名を経験して再確認できたんだけど、


願いを込められずにはいられないのよ。

あまりにも無防備な状態で生まれ、ちょっとほったらかすだけですぐに死んでしまうような小さな命を両手に抱いておきながら願いを込めないなんていうことはできない。

健康でいてほしい。幸せでいてほしい。

せめてこの2つだけでも願わせてほしい。

きっと、名前の由来を子どもたちに浴びせ続けるようなこともしないと思う。聞かれれば答えるくらいだろうか?名前に込めた意味は、言わばお守りのようなものでもあると思っている。

3女が産まれた時、まだ彼女の名前は決まってなかった。名前は決まってないのだが、電子国家エストニアで生まれた彼女には既にマイナンバーが振り分けられていたというちょっと不思議な状況だった。

記事に書いた通り、「この手に抱いて、顔を見て、泣き声を聞き、こぼれ落ちそうなほっぺをすりすりしながら」考えた。

1週間とちょっとかかっただろうか?

彼女の名前には「晴」という字を入れた。

産まれた日の前後1,2週間が気を病みそうになるほどのどんより天気だったのだが、誕生日の日だけ見事に晴れたのだった。

いや、そんな単純なつけ方しといて1週間もかかったんかい!と言われれば反論はできないのだが、まぁその辺は大目に見てほしい。色んな想いが詰まっているけど、ココで簡潔に書きまとめられるほどの文才は持ち合わせていない。

今思い返すと、「アレ?あの日ホントにそんなに晴れたか?」とちょっと記憶があやふやな感じにもなっている。もしかしたらあれは幻影だったのか?とさえも思えてくる。もしかしたら晴れたのは外の天気ではなかったのかもしれない。

そんな三女は昨日で生後5か月となった。

4,6歳の姉二人に代わる代わる抱っこされながらみんなに「ハルちゃん、ハルちゃん」と呼ばれ、毎日を過ごしている。可愛さピークも日々更新しつづけながら元気に育っていっている。(寝ている時、未だにアレ?ちゃんと息してる?って心配になってお腹のあたりをじぃーーーっと見つめることもよくあるけど。💦)

自分が2人の姉を持つ末っ子ということもあって、3女には自分を重ねることが多い。「あぁ、きっとボクもこんな風に姉2人に可愛がってもらったんだなー」とも思うし、みんなの意識・注意が3女に向けられることで感じる愛情とジェラシーの葛藤の狭間にいるお姉ちゃん二人の心境を察しながら、「姉たちもこうだったのかなー?」と、ジワることが多くなった。

そしてそんなことをボクの両親も考えてたり心配したりしていたのかなー?と考えると余計にジワる。

子育てって本当におもしろい。まるで人生をもう一回、はじまりから経験し直してるような気分になる。でもこれは子どもの人生であって、自分はプレーヤーではないことを忘れてはいけない。あくまでも親であるボクたちはコントローラーを握っていないオーディエンス兼サポーターなのだということを忘れないよう、ここに書き残しておこうと思った。


名前だってそうだ。願いを込めるのはいいとしてもその願いを子どもに呪文のように押し付けて呪縛してしまうのはよくない。

名前という親のエゴ、ゆるしてやってね。

アナタの幸せを願わずにはいられない子煩悩な親がたくさんなのよ。

泣き顔になったと思ったらそのまま寝続けたハルちゃん


もし大人になっても嫌いなままだったら、変えちゃえばいいのさ。

書面の名前が変わっても、お守り効果はきっと続いてるから。


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