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ビール・ストリートの恋人たち

2016年公開の「ムーンライト」でアカデミー作品賞を受賞したバリー・ジェンキンス監督の新作。1970年代のニューヨークのハーレムを舞台に若い恋人同士の日常と苦悩を描いた「ビール・ストリートの恋人たち」の感想です。

えー、「ビール・ストリート」ってタイトルにありますけど、これメンフィスにある通りの名前らしいですね。この映画舞台がニューヨークなんで、実際、全然関係ない場所の名前なんですよね。

「ムーンライト」未見なんですが、なるほど、こういうことかと。重苦しい現実を描きながらも軽やかで可愛らしく、上品さやインテリジェンスまでも感じる様な映画で(重苦しさと軽さとか、フィクションとノンフィクションとか、絶望と希望とか、相反するふたつのものが並列に並んでる様な作品だったと思います。それと、あとから知ったんですけどジェンキンス監督、小津安二郎監督の「東京物語」に影響を受けてるらしいですね。小津感ですね。僕が感じた上品さとかクラシカルさとか、あとミニマルさなんかも。)、ストーリー自体はシンプルな恋愛物で、恋人同士のファニーとティッシュ(ふたりの呼び名もとてもキュートですね。)の恋が幸せな形で成就するのをハラハラしながら見守るっていう話なんですが、更にそこに恋愛映画に付き物のふたりの恋路を邪魔する様々な問題が降りかかってくるという。で、その問題の部分がこの映画の斬新さというかフックになっていて。つまり、ファニーとティッシュの恋愛っていう個人的な話がどういう社会背景の中で紡がれているのかっていう大きな話になって行くんです。ただ、観ている間の感覚はとてもミニマルで、ファニーとティッシュの青春を追体験してる様な心地良さがあるんですけど、こういう映画としての作りの部分が凄く良いんですよね。

物語はファニーがレイプ犯として逮捕されるところから始まるんですけど、これは冤罪なんですね(ファニーにはアリバイも証人もいるので。)。で、恋人のティッシュが彼を刑務所から出す為に家族と一緒になっていろいろ奮闘するっていう流れが、まず、あって。それと平行して、ファニーとティッシュの子供時代から、ふたりが惹かれあい恋人同士になり、一緒に住む為の家を探すっていう(ファニーが冤罪で逮捕される)までの経緯を辿る(過去の)流れのドラマもあるんです。その時間軸の違うふたつのドラマを交互に見せられるっていう(ある夫婦の出会いと別れを同時進行で見せることで沢山の既婚者に結婚生活そのものを絶望させた倦怠夫婦物の傑作「ブルー・バレンタイン」みたいな)構成になっているんですね。突然、恋人が逮捕されて当然すぐに出られると思ってたのになかなか釈放されない。そうこうしているうちにティッシュの妊娠が発覚して子供が産まれる。本来ならここにファニーがいて、ふたりは幸せな家庭を作ってっていう物語があったはずなのに、夢見てたはずの未来がダメになって行くって過程、ふたりが出会って恋をして、ここから先は全てがキラキラと光り輝いてしかいないっていう未来へと向かう過程。このふたつを相対的に見せることで、輝かしいところはよりキラキラと、それが崩壊していくところはもっと痛々しくっていう意図なんだと思うんですけど、この映画はそれだけじゃなくて、それと同時に、明らかに冤罪のファニーが釈放されないことへの言及と言うか、この時、黒人の人たちが受けてた"暴力"というのが具体的にどういうことなのかっていうのの解説にもなっているんです。つまり、観客である僕らも人種差別というのがあることは知ってるわけじゃないですか。で、この映画が時代的にも地域的にもそういうのを孕んでいる話だってことも分かっていて。だから、ティッシュがいくら頑張ったってファニーの冤罪は晴れないんだろうなと思って観てるわけですよ。ただですね、それが一体当の本人にとって、どれほど理不尽で許せないことだったかっていうのは実際は分かってなかったんですよね(僕はそう感じました。)。それが、この映画で過去のエピソードが挿入される度に、「これ程まで根深く狂った世界ではもう無理なのかも。」って感じでどんどん身につまされていくことになるんです。だから、恋愛っていう誰もが共感出来るテーマであればこその、それが全く関係ない他人の気持ちひとつで引き裂かれて行くっていう理不尽。それをもの凄く感じたんですよね。で、ジェンキンス監督はこういうのをとても丁寧に日常の中のひとつの出来事として見せてくれるんです。映画っていうエンターテイメントとして。ファニーを逮捕した警官が過去に関わりがあったことが分かるシーンなんか、ホラー映画かって程の恐怖でした(だから、社会問題の悲惨さとか現実の恐ろしさというよりも、あくまで映画として面白いんですけど、それをバリー・ジェンキンス監督が当事者として描いてるところに、なんというか、凄いなぁと圧倒されるわけです。)。

要するに、社会の闇を恋愛ってテーマで語ってる映画なんですけど、それを見せる時の見せ方が凄くスマートで(今までの話と全く逆のことを言う様ですが)、差別や貧困の理不尽さを描く時にそれを声高に叫ぶのでもなく、逆にあえて芸術的(ポップ)に描くことで現実の酷さを相対的に見せるわけでもなく、描きたいストーリー(この場合はファニーとティッシュの恋愛ですね。)を描いてたら、どうしても差別や貧困が写り込んでしまうってバランスになってるんです。1970年代のニューヨークの黒人たちの"普通"を描くというのはそういうことで、どう考えたって"普通"じゃない事柄が黒人にとっては"普通"だったんだってことだと思うんです。しかも、でありながら、その世界を色鮮やかでポップな色彩構成や(当時の世相を写す様な流行り曲ではなく)ミニマルな弦楽奏のBGMにしたのは、これを単なる告発の映画ではなく創造的な話(映画)にしたかったからなんじゃないかなと思うんです。だから、それこそがジェンキンス監督の最も言いたいことであり、"黒人のマインドとは"っていうメッセージの部分なんじゃないかなと思ったんですよね。

あと、この映画、タイトルが最後に出て来るんですけど、それに凄く意味があると思っていて。映画の原題は「if beale street could talk」で、「もし、ビール・ストリートが話せるなら」って意味なんですけど、最初に書いた様に、ビール・ストリートっていうのはアメリカのメンフィスにある通りの名前で、この話の舞台はニューヨークのハーレムだから全然関係ないんです。ではなぜ、ラスト・カットの後なんていう意味深なところにタイトルを出したのかというと、メンフィスっていうのは、アメリカから世界中に拡がった音楽、ブルース発祥の土地なんですね。アメリカ発信の芸術のもっともポピュラーなもののひとつと言ってもいいと思います。で、そのブルースで歌われてたことって、当時奴隷としてアメリカに連れて来られたアフリカ系黒人たちの哀しさとか辛い現実のことなんです。それを白人たちにバレない様に歌にしてたわけで。つまり、そのメンフィスにあるビール・ストリートがもし話せたら何を言うかってことだと思うんです(物語を全て見せてからこのタイトルを出したと言うのはそういうことなんですよね。)。だから、このことをジェンキンス監督はメッセージとして踏まえた上で、こんな風に美しく詩的で物悲しい。そして、映画らしい映画に仕上げたんじゃないかなと思ったんですね。単純にやられてるだけでも、かと言って報復に訴えるわけでもなく、結果的に世界中に黒人の現実を伝えることになったブルースと同じ様に。平熱で芸術として成立する作品にというマインドで。

映画の要所要所に出て来る、現実に起こったことを見せる場面のナレーションをティッシュがやってるんですけど、ちょっと他人事みたいな感じの平熱感があるんですよね。それと、ラスト・シーンの刑務所の面会所に、ファニーとティッシュの子供がいることによって絶望と希望のどちらもが垣間見えるのが、なんて言うか、現実を踏まえながら夢も見てるっていうか。そのバランスの取り方がとても切なくて胸に刺さりながらも良いなと思ったんです。

https://longride.jp/bealestreet/

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