見出し画像

ストーリー・オブ・マイライフ/わたしの若草物語

緊急事態宣言が明け、いよいよ映画館が(まだまだ通常運転ではありませんが)営業再開されたという事で、まずは公開を待たされていたこれを。150年前に書かれた少女小説の古典『若草物語』を、現代的な女の子の青春映画として傑作だった『レディ・バード』のグレタ・ガーウィグ監督(僕が『若草物語』という古典の何度目かというくらいの映画化を心待ちにしていたのは、この『レディ・バード』の監督だったからです。そのくらい革新的な青春映画だと思ってます。)が映画化した『ストーリー・オブ・マイライフ / わたしの若草物語』の感想です。

えー、まるまる3ヶ月ぶりに映画館に行きまして、ロビーで上映を待ってる間の「ここから様々な世界が拡がっている。」というあの感じ。僕はあれが好きで(映画館以外の自分の好きな場所を考えても、ライブハウス、劇場、飛行場に至るまで全てがこれでした。)。それを改めて感じることが出来ただけでもコロナ自粛悪いことばかりじゃないなと思うわけですが、正しくこの『ストーリー・オブ・マイライフ』という映画自体がそれ("人は思う様にどこへでも行ける。"ということ)を描いた映画だったわけです。そして、そここそが監督が原作から大きく改変した(というか、監督はインタビューで、もともと原作にあった部分を発掘しただけと言ってますね。)ところであり、更に、その改変こそがこの誰もが知ってる古典を現代を生きる女性たちの物語にしている上に、こっちこそが原作者のルイーザ・メイ・オルコットが本当に言いたかったことなんだという、何というかミステリー小説を読み終えた後の様な、いや、間違いなく青春物だし少女の成長物語なんですけど、その世界を俯瞰することで、150年前の少女小説のお手本の様な話がじつは真逆の思想によって描かれていたんだということを言っているわけなんです。だから、まずはこの構成が凄いんですよ。というか、構成を含めたグレタ・ガーウィグの脚本がほんとに凄くて。そこに感嘆するんです。

で、それがどういう作りになっているかというと。僕自身、原作の『若草物語』をちゃんと読んだことはなくて昔テレビでやってたアニメをちらっと見たことがあるくらいなんですが。まぁ、それくらいの知識量で挑んでも、子供向けのアニメになる様な話がこんな複雑な(構成自体もそうなんですけど)女性の心理を描いているわけがないなということは分かるんです。いや、分かるというか違和感があるんですね。映画を観ていて。で、この違和感がとても心地良いというか。あの、まず、冒頭は四姉妹の二女の(シアーシャ・ローナン演じる)ジョーがある出版社に原稿を持ち込むところから始まるんですけど、僕が昔チラ見した『若草物語』は確か四姉妹が暮らす一軒家が舞台で、姉妹が一緒に遊んだりケンカしたりしながら様々なことを考え成長して行くという話だったはず…。これ、いきなりジョー一人暮らししてるし舞台ニューヨークだし。という違和感。そしたら、この冒頭の部分というのは『若草物語』の続編の『続・若草物語』のエピソードらしいんですね。で、ジョーがニューヨークで駆け出しの小説家として生活しているというのを"今"として、そこから子供時代の(『若草物語』の)エピソードを振り返るって構成になっているんです。要するにこの映画の本分(リアル)は四姉妹が家を出て大人になってからにあって、子供時代の楽しかった日々が大人になってバラバラになった四姉妹の現実と対比して描かれることで、ある意味子供目線で世界を見ていたあの頃はファンタジーの中にあったんだっていうことと、そのただ楽しかった世界というのは実際に僕らが子供の頃に読んだ本の中の世界であるということが相まって、誰もが大人になった時に振り返る子供時代の、あの何かひとつオブラートに包まれた様な思い出の情景、それが大人になったジョーたち四姉妹にも同じ様に見えているんだっていうリアリティになっているんです。だから、僕が感じた違和感というのは、「これ『若草物語』じゃないじゃん。」ではなくて、その振り返って描かれる部分があまりにも『若草物語』であることに対してなんです。つまり、みんなが知っている『若草物語』に対比する様に描かれる四姉妹の現在があまりにもリアル(今日的)だからなんです。

つまり、フィクションをきっちりフィクションとして描きながら登場人物たちを多面性のあるより現実の人々に近いキャラクターとして描いているんですけど、この描き方がめちゃくちゃスリリングなんですよね。例えば、主役のジョーは原作者のルイーザ・メイ・オルコット本人をモデルにした役なんですけど、今回ジョーの役をやってるシアーシャ・ローナンは監督の前作『レディ・バード』で主役のクリスティンを演じてるんですね。で、このクリスティンは監督のグレタ・ガーウィグの若い頃をモデルにした役なんです。つまり、今回のジョーは原作者と監督のふたりの女性が投影されたキャラクターになってるんです。で、原作を読んでジョーに共感した監督がジョーが成長して行く中で変化する心情と自分の経験を照らし合わせた時に、ジョーがこうしたのはきっとこういう心の動きがあったからだろうというのをやってるんですけど(要するに本の中のキャラクターに作中には書かれていない経験値を乗っけてるみたいな感じです。分かりますかね?)、その中で恐らくどうしても納得出来なかった部分というのがあって(そこのところを大きく改変してるわけなんですが)、それをジョーの分身であるオルコットの人生と重ね合わせることで、オルコットが本当に描きたかったこととは?というのと、さらにジョーのキャラクターをより真実味のあるものにしてるんですよ。凄いですよね。このフィクションが事実と呼応する様な、いや、呼応するというよりぶつかり合ってハウリングを起こしてる様な描き方、その乱暴さがいかにも『レディ・バード』のグレタ・ガーウィグだなって感じでいいんですよね。

しかも、その描き方を主人公のジョーだけではなくて、四姉妹それぞれにやっていて(いや、四姉妹だけじゃないですね。ローラ・ダーン演じる母親やメリル・ストリープ演じる叔母さんにもです。)、それぞれのキャラクターがそれぞれの人生観で生きているっていう、何ていうんでしょう、"人はそれぞれその人にあった生き方で生きていっていいんだ"って表現になっていて(だから、それぞれに深く頷ける名言があるんですよ。ただ、わがままで自分勝手だった四女のフローレンス・ピュー演じるエイミーが結婚について語るところなんか、その悟った様な物言いにちょっと震えました。フローレンス・ピューってあの、あれですよ。『ミッド・サマー』の主人公ダニーの娘ですからね。そうやって考えてもなんか感慨深いんですよね。『ミッド・サマー』ではあんなに自分がない感じだったのになぁみたいな。長女のメグ役のエマ・ワトソンなんかもそうですね。『ハリー・ポッター』の娘ずいぶん大人になったなぁなんて。)。で、それをまた全肯定的に描いてないところもいいんですよね(ここもグレタ節だと思いますけど。)。何も分かってない(分かってないからこそ恐怖と不安に囲まれた中で生きている子供時代。)からこそ永遠を感じていた少女期。それが人生というものを知っていく中で終わりかけているのを感じた時の「少女時代が終わっちゃう。」っていうジョーのセリフの切実さにグッと来ました(たぶん、原作の『若草物語』のカタルシス部分てここなんじゃないかと思ったんですけどどうですかね?『バージン・スーサイズ』とかイスタンブールの慣習の中で暮らす五人姉妹を描いた『裸足の季節』とか、みんなこの『若草物語』のフォーマットだったんだなと思いました。)。

で、その中でティモシー・シャラメ演じる幼馴染みのローレンスだけがそれほどリアルな"男"として描かれてない様に見えたのもフィクションと現実のバランスとしていいなと思ったし、あと、ラストの"生きる為にまずは権利を手に入れろ"っていうメッセージもグレタ的(乱暴)でいいですよね。まぁ、つまり、総じて「こちゃごちゃ言いながらもなんとか生きてる私たちは凄いな。」と思わせてくれるグレタ・ガーウィグ最高って感じの映画でした。

https://www.storyofmylife.jp/

#映画 #映画評 #映画感想 #映画レビュー #コラム #ストーリーオプマイライフ #若草物語 #グレタガーウィグ #シアーシャローナン #フローレンスピュー #エマワトソン #ティモシーシャラメ #青春映画

サポート頂けますと誰かの為に書いているという意識が芽生えますので、よりおもしろ度が増すかと。