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親との折り合いで通った文化服装学院時代の話

トップ画は先輩のショーモデルに皆で借り出された時の写真。私が着てるのは、在学時から今までとんでもなくご活躍続きの東佳苗さんの作品。

私が所持している中で一番文化服装学院っぽい写真だと思ったので使用させていただきました。当時オンライン掲載許可も頂いてます。

在学時点ですでにスタイル確立されてたのが流石。
私は勿論ウィッグだよ〜

ファッション業界の人なら知らない人は居ないけど、文化服装学院とは髙田賢三、山本耀司、コシノヒロコ等など、世界のファッション界で活躍する人々を山ほど排出してきたデザイナーの登竜門で新宿にあるマンモス校。

洋服で食べていくつもりなんてなかった私が一体何故この学校に入ったのか?それは親との折り合いだった。

こちらはLena Kobayashi先輩のショーにて。

私は元々歌手になりたくて、全日制高校を辞め通信制に移ってからは、週5で味噌カツ屋のアルバイトをしながら実費でボイトレに通ってた。16歳の時当時最大級だったとあるオーディションに通過してデビューに向けて話が進んでた。のを親に認めてもらえずポシャンになった。

その時「高校卒業資格を取得したらなんでも好きにして良い」と言われてたのが、17歳時には「進学は絶対しなきゃダメ。愛知県内(地元)で。」に変わった。

そもそも問題だらけの実家に居るのが苦しい上やりたいこともあり東京に出たかった私は、進学せずに上京するつもりでいた。でも強行突破は難しい。18歳で身内の保証人無しに借りられる部屋は当時なかったし、どんな親でも最低限のリスペクトは示そうとも思った。

「東京には行く。学校は、絶対行けというなら文化服装学院一択。でも行っても就職はしないよ。」

Wikipediaより

文化服装学院は10代半ばから装苑やZipper、CUTiE等の雑誌を読んでて知ってた。ハイセンスな人たちが集まる場所!と何処か憧れてた。ある時何故かその校庭に居る自分が夢に出てきたこともあった。

すぐ仕事にする気はないけどファッションは好きだから、手に職付けとくならデザインと洋裁。お洒落でクリエイティブな人達が沢山集まるから良い刺激をもらえるはず。学ぶならしっかり学びたいし、万が一将来仕事に困ってもある程度信用得られる学校名だし。わざわざ行くなら。みたいな理由。

因みに入学は簡単で卒業まで生き延びるのが難しい類の学校だから、入試への心配は殆どなかった。

親には全然納得されず長らくの戦いが続いたけど、「絶対寮に住み、入寮費と数カ月分の生活費は事前に自分で稼ぎ、更に3年間機関保証の奨学金を借りて行け。」と提示された条件で折り合いを付けた。: 後に親の収入や資産状況を知り、支払いきれない金額ではなかった。つまりそういうこと。3年間の寮費に関しては祖父祖母が支払ってくれた。

髪にしろ洋服にしろ、とにかく色んなスタイルを試した3年間。火曜日は学校前に美容師さんが待ち伏せしてて、色々髪を変えてもらえたんですよね☺︎

進学自体を望んでなかった自分としては未だ超理不尽と感じる条件での進学だったものの、3年間は楽しく刺激的だった。入学したばかりの頃は「こんな同年代が存在するの⁈」という驚きの連続で、まさに矢沢あいさんの『ご近所物語』的世界観だった。

卒業時には約半分の生徒が脱落するファッション工科課程に入学したので、一年目は寝る間のわずかな中、学業に励んだ。若さ。

2,3年目は同じ課程内だけど少し緩やかでミリ単位パターンや縫製から逃げられるニットデザイン科に進学し、難を逃れたw でも一番は先輩方のショーに感銘を受けたからだった。一本の糸から生み出す世界の無限性と自由に惹かれた。

制作過程。在学時テーマにしてたのがピッピー、ジプシー、インディアン。その間信仰を持ちエッセンスを加えていった。

ただ本当にしたかったのはファッションじゃない。だから合間出来ることはたかが知れてても、色々やってみた。全然喋れないくせに何かに繋がるかな〜と受けた「恋のから騒ぎ」のオーディションに通過したのは、面接日を間違えて行って面白がってもらえたから。マジ。

他にも長期休みはアルバイトを挟みながら、モデルをしたり東京や名古屋のナイトクラブで歌ったり、オムニバスCDに参加したり、色々思いつくことをしてみたけど、結果卒業後にしたくなったのは演劇だった。☜これについてはまた次回。

今思うとあの歌唱クオリティで超恥ずかしい〜泣笑
でもやらない後悔よりずっとマシ!

文化服装学院に通うことで得たものといえば、なんと言っても仲間、つながりだと思う。

日常が仮装大会のようで、飛び交う話題の中心はデザイン、アート、カルチャー。理屈より感性の人々でみんな拘りや追求が半端ない。特殊でストイックな環境だったからこそ、その中で共に過ごした"わかり合える感じ"は一生モノだと思う。

来週麻布十番で開催するTシャツデザイン展示も、卒業後出逢ったOB会代表でもあるリッチーさん主催。長くお世話になってます。

そして3年間日夜洋服を通して表現をすることが、モノづくり全般に必要なクリエイティビティや忍耐力集中力を成長強化させていったと思う。

学生時代は商業的な洋服ばかり作らなくて良いし、私は就職する気がなかったのでポートフォリオも必要ない。だから都度思うがままにやってた。でも今ならもっと良いもの作れると思う。笑

普段着は色々試し過ぎて、あえて超素朴なスタイルにしてみてた時もありました。クリスチャンになって「Born Again」したセルフイメージも兼ねて。

Photo by Tatsuya Kawasaki

自分の望む人生の最大値みたいなのって何だろうと最近よく考える。そしてそれって物理的な例ではとても表せないなぁと思う。最終最後は内側の問題。

進学で18-21歳を犠牲にし、約束と違うことだらけの結婚生活とコロナ禍で25-30歳を犠牲にした〜

もっと言うなら、そもそも生まれついた環境から色々ハードコース過ぎた〜

私の人生、何😇

とか思う瞬間があっても、それって犠牲なようでちゃんと「生きてきた」し、寧ろそういうこと含めて「人生」で「私自身」というか。天命的に思い通りにならないのって苦しいけど、自分を本当の意味で磨いたのはそういう時期だと思う。

でもわざわざやりたくないことする必要はないし、今からは可能な限り心向くことをさせて頂くつもり!

ただ人間である以上、大差あれ全ては周囲の人や環境との擦り合わせ。逃げた方が良い時もあるけど、避けたくても避けられない状況・忍耐する価値ある試練が人生にはある。

それに全てが自分の想像や計画の範囲内なら、成長や見れる景色もそこまでだよね。春に日本で会った人たちの何人かにも言われた。

「そういう本当は望まなかった経験が絶対に表現に出てくる。技術的な練習だけが力じゃないよ。特に俳優業は、経験値が必ず強みになるよ。」

って。

オードリーヘップバーンが

何としても避けたかったのは、人生を振り返ったとき、映画しかないという事態です。

とも語ったように、人生ってトータルバランス。

何に重きを置くかは人それぞれだけど、意識的に人生をもっと広く高く深い視野で見ていたいと思う。

悟りきれないから、謙遜に。

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