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誰にも読まれない日記は神様との対話

現在厳しい境遇に居られる方々が、一刻も早く元の日常と平安を取り戻せますよう、心よりお祈り申し上げます。

今夜はゆっくり池袋の某カフェにて日記を書いておりました、一週間分をまとめて。

昔から自分しか読まないノートに日記や思考を列ねるのが自然と習慣で、それが自分にとって何よりもの至福タイムなんですよね。

でも歳を重ねて、毎日紙に書くってことが中々出来なくなってって。それは私の場合忙しくなってというより(それなら10〜20代半ば頃のが多忙だった)、SNS発達の影響が大きいと感じてる。

XやInstagramに投稿すると、なんとなく頭を整理できた気になっちゃうというか。投稿しなくても、誰かの投稿を読むことによって自分も考え落とし込めてる気になってること... 私はあります。

そして当然ながらSNSと紙に書く日記って、違うんですよね。後者は誰にも見せない、忖度も気兼ねも要らない、何を書いてもOKな場所。

ぼんやりではなく、じっくり考えて自分のものとして統合していく時間。一体日々色々、自分は本当の本当にはどう受け止めていて、どこに向かおうとしているのか。

置き去りにされ昇華出来ずにこびりついてるあれこれが、自分の進みを無意識にも妨げたり、心を暗くするモヤとして佇んでると感じる。

未解決が未解決のままな事実以上に、{自分事なのに見て見ぬフリしてやり過ごすこと}が重大な問題なのかもしれない、と最近思う。

自分や取り巻く日常と深く向き合う方法、人によって様々なのだろうけど、私の場合は紙に書くと一番それが出来る。

私はこの時間、ここ10年くらいはこれを祈りのように、神様と対話しながら書いてるような思いで居る。

書くのは感謝と喜びが基本。

嫌なことさえも、信仰により学びを見出し、感謝と喜びに変換させて書く、という感じ。

それが出来ないような時には、切なる願いを神様に向けて記す。

クリスチャン用語で言えばいわゆる「デボーションノート」を毎日の出来事によりしてるってことになります。

書く前と後では、心の晴れ具合が全く違うんだよね。そしたら自ずと行動だって変わる。全ては自分の内側次第で大きく変わる、ということを実感する。

日記デボーション、去年はぼちぼちだったから、今年は5年ダイアリーをGET‼︎したので改めて習慣付けすることにします☺︎

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