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青ヶ島に杜氏を訪ねて

希少酒「青酎」は、伊豆諸島の有人島として最南端、青ヶ島の焼酎である。他の追随を許さないオリジナリティー溢れる味と香りを、ときおり愉しんでいた。
 
今から15年前、池袋の居酒屋で見つけて注文し、ひとくち呑んでグラスを置いた。すえた味がして、青竹のような独特の爽やかさが失われている。店員を呼んでボトルのラベルを確かめると、杜氏、Kさんという女性の名前が印刷されている。なにがあったのか。こういう酒なのか。いつか彼女を訪ねて聞いてみよう、と決意した。
 
それから7年という長い歳月が過ぎ、とうとうその時が来た。当時ともにあの酒を飲んだ友人も含めて3名からなる調査団を結成し、夜の竹芝埠頭に集まった。今から9年前、2013年3月のことである。
 
八丈島まで船で11時間、さらに乗り継ぎ青ヶ島まで3時間。両島の間には黒潮が流れ、2.5mの波でひどい船酔いに苦しむ。昨日まで1週間も高波で欠航していたという。乗客は我々3名のみ、観光で訪れる人などめったにいない。絶海の孤島である。
 
青ヶ島の人口は当時174人(2013年3月統計)。日本で最も人口が少ない村である。這うように上陸して、民宿で横になる。胃腸を正しい位置に整えた後、「青ヶ島酒造合資会社」を訪ねる。事前に役場を通して見学を申し入れてあり、Aさんがひとり待ってくれていた。コンクリート造りの建物にはステンレスの桶が転がり、閑散としている。秋に芋を収穫してから仕込み始め、2月には終えるからだ。壁にこびりついた黒い汚れは、すべて麹菌だという。
 
かつて、島ではご主人のために奥さんが家で酒を造っていた。自生するオオタニワタリというシダ科の植物と麦から自然麹を培養し、主食であった芋で仕込んだ。青酎は小さな工場で造られているが、当時で7人ほどの島民が杜氏として各々の酒を造るので、杜氏によって伝承の麹が異なり、風味も異なる。だから、同じ銘柄でも各杜氏の名前をラベルに明記するのである。このような酒造りは、全国でも唯一だろう。
 
「以前呑んだ青酎には、美味しいと感じないものもありました」と本題に触れる。「麹と仕込みで味は決まる。発酵がうまくいかなかった仕込み桶から、蒸留、貯蔵、瓶詰めされたんじゃないか」とAさんは言う。自然麹は、さまざまな種類の麹菌が微妙なバランスを保っていて、高温多湿の気候に左右されやすい。「人によっては酸味が気になるという声も聞く。取り除くことはできるが、青酎らしさはなくなる」。
 
離島での酒造りは、輸送コストがとても高い。青酎の製造で生計を立てられる人は、社長ぐらいである。Aさんは、酒造り以外にがけ崩れ工事の現場監督、切り葉生産をなりわいとし、最近は牛を2頭買って牧場を始めた。杜氏の高齢化も進んでいる。自然と暮らしから生まれた稀有な島酒は、これからも受け継がれるだろうか。
 
最後にKさんのことを訊く。重い病で床にふせ、余命いくばくもないという。丁寧な案内に礼を言って工場を後にする。宿は居酒屋が営んでいて、島人と語らいながら夕食をいただいた。みんな、八丈島の「情け嶋」をボトルキープして呑んでいる。
 
間に合ったのか、間に合わなかったのか。宿でKさんの青酎をひとくち含み、いつくしんだ。

島から帰り数か月後、2013年5月の深夜、青ヶ島を取材した番組を観た。
 
NNNドキュメント「おもうわよう 東京の孤島に魂が帰る」
http://www.ntv.co.jp/program/detail/21820643.html
 
島には医師が一人きりの診療所があるだけで、大病を患うと八丈島などの医療施設に移るしかなく、島で最期を迎えたくても叶わない現実を番組は描いている。火葬場がないため、島で亡くなると土葬して島民総出で49日間弔い、15年後に掘り返して再び納骨する。高齢者には、島民の手を煩わせたくないという想いがにじむ。
 
番組では、島の最高齢者である女性が映し出された。この方こそ、他でもない私たちが探し訪ねた杜氏、Kさんだった。前年に撮った映像では、会えなかった彼女が元気に島を歩いている。思わず息をのんだ。
 
孫が30人、そのうちの一人がタレントの篠原ともえだった。カメラは、彼女がおばあちゃんを訪ねる様子を追う。1日1便の9人乗りヘリコプターで来て、ヘリコプターで帰っていく。

青ヶ島では、1785年の大噴火で300余名の島民のうち約100名が犠牲になり、生き残った全員が島外に避難。それから50年後、八丈島に逃れた人たちが帰還した。

青ヶ島、不屈の精神。

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