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「うまい写真ですね」と言われたら「しまった」と思えの理由。

たぶん自分には人よりちょっとだけ技術がある。それは「見た感じのままを撮ることができる」ほんのちょっと。
 
これらの技術は頭で考えてやっているのでなく、逆に考えないで撮る技術。一般には「発見して→考えて→理解した上で→撮る」プロセスを、「考えずに撮る」ことで、視覚刺激そのままを定着させようとします。
 
実はこれ、技術でもセンスでもなくて、ただ訓練なんです。「自分が気になる光景を最低でも毎日1枚。一日も欠かさず10年間続けたら写真家になれる」写真学園の恩師の言葉に「え?たったそれだけで?」半信半疑で続けただけ。
 
「気になった光景を毎日続けて撮る。センスや技術は後からついてくる」まったく信用できない言葉です。いったい、いつどこでセンスやら技術やらを習得すると言うのでしょう。
 
本屋さんやフォトスクールに行くと、さまざまな撮影技術や技法を教えてくれます。教えてもらえば自分の引き出しが増えます。技法を使って撮れば、自分の写真がうまくなったように見えます。先生も周囲の人も友人も「写真がうまくなった」とほめてくれます。
 
ですがそれでは育たない。誰かと似た写真の中で遊び続けるならそれで満足でしょうが、自分の中で育ってないので、いずれ伸び悩んで飽きてきます。
 
「どの技術を/いつどこで/どれだけ/使うか使わないか」これが「センス」と呼ばれる部分の正体になります。考えて出てくるものじゃない。頭で考えれば考えるほどセンスから遠ざかり「戦略」になっていきます。こわいことに何の専門知識の無い普通の鑑賞者が、その戦略をあっさり見抜いてしまうんですね。
 
「うまいんだけどそれだけ。なんとなくウソクサイ」
「すごいんだけど、見ていてちっとも楽しい気持ちにならない」
 
それは、あなたの狙いや意図が見えてしまっているから。
なにより一番に、戦略が見えてしまっているからなんです。
 
「はっ!」として撮りたい気持ちになってカメラを向けたはずです。見た感じのまま撮れば、写真を見る人に伝わるでしょう。そこで「うまい写真」という印象を持たれてしまうと、あなたの「見た感じのまま」は再現できていないことになりませんか。それで本当にうまい写真でしょうか。

 
うまい俳優はちっともうまそうに見えません。「あの人、稽古も役作りも全然してないよ。ふだんから絶対あんな感じだよ」って言われてしまう。本当はスゲエ稽古してるのに、なにも演技してないように見える。だからうまい俳優なんです。
 
写真も同じ。「すごい写真だなあ」「うまい写真だなあ」では、写っている写真の世界に鑑賞者が没入する手前であなたの技術が足止めしています。
 
どこにでもある、技術なんてどこにも使われていないような普通に撮られた(ように見える)写真...。この「ように見える」部分に、あなたが持っているすべての技術とセンスを費やして写真を撮ります。それが「見た感じのまま」撮る最大で唯一のコツ。とても簡単でしょう?

 
「わーいいなー。ここどこ?」
「わーすてきな人ー。これ誰?」
 
鑑賞者の最初の一言って、そうなってほしいと思いませんか。
 
うまい写真に見える写真は、ちっともうまく見えない写真。僕はそう思います。