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闘う知性 柄谷行人「坂口安吾と中上健次」

 「坂口安吾と中上健次」は、私が好きな柄谷行人の私が最も愛読している書物である。
 巻頭に置かれた「『日本文化私観』論」は、柄谷の安吾論のなかでもっとも知られている論考であろう。安吾研究の第一人者である関井光男は「安吾研究を一変させたほど影響力が大きった」と語っている(「坂口安吾と中上健次」293頁)。この論考では、自らを突き放すような他者性、柄谷の言葉で言い換えるならば、ある「現実」に文学の「ふるさと」を見出した。これ以降の論考は、さきに述べた認識を発展させたものといえる。が、「『日本文化私観』論」が他と比して、ひときわ印象的なのは何故であろうか。その答えは、巻末の井口時男氏による解説において展開されている。
 まずは戦後すぐに、少年期の柄谷行人がみた光景を引用しよう。

私がいわば"原色的"におぼえているのは、昼間の比較的空いた電車での出来事である。電車に乗りそこねて、片足をホームと車輌の間に落としてしまった中年の女がいた。その女を押し倒して乗り込んだ他の乗客は、彼女が血まみれの足を新聞紙でくるみ、しかも新聞紙からだらだら血が滴り落ちるのを、見ぬふりをしていた。私の母も知らぬ顔をしてきた。電車は出発し、いくつかめの駅で、いつのまにか女はいなくなっていた。

柄谷行人「坂口安吾と中上健次」15頁

 この「なまなましく現実的な」記憶は柄谷の精神に刻印されている。そしてこの記憶は「『日本文化私観』論」において最も「抽象的で観念的な」難問へと反転するのだ。つまり、世界とは、精神とは、認識とは、現実とは何かという難問へと。
 80年代以降の論考では、抽象化を徹底しているようにみえる。そのなかで、たとえば、フーコーがいう「人間は死んだ」における観念としての「人間」と、関係の絶対性を知るという意味での安吾の「人間」。また、ハイデガーの頽落Verfallと安吾の「堕落」の対比など、重要な指摘も多い。けれども、私は極めて具体的な挿話が抽象化される「『日本文化私観』論」が柄谷批評の白眉だと思う。
 坂口安吾と中上健次は「知的な」作家という意味で、共通している。いわばこの二人は「闘う知性」である。が、柄谷にとっての二人の最大の相違点は、同時代を生きたか否かということになろう。
 日本の文学史においては、作家と批評家とのバディ関係が見られる。中原中也と小林秀雄、初期の大江健三郎と江藤淳(のちに、彼らは最大のライバルへと転じてしまうのだが)、そして、中上健次と柄谷行人である。意外なことに中上の生前に発表されたものは短い書評やエッセイのみで、主要なものは死後に書かれている。したがって、柄谷の読解をなくしては、こんにちまで中上健次がこれほど読まれることもなかったように思われる。 
 この本の中で私のいちばんのお気に入りは「朋輩 中上健次」なる追悼文である。書かれたのは1992年8月15日、つまり中上の死の3日後だ。この文章は柄谷行人が記したなかで最も抒情的で最も美しい文章である。ここには、深い哀しみに打ちひしがれた、傷心の柄谷行人がいる。そのような柄谷を見ることは、他の文章では読めないに違いない。中上健次は柄谷行人と「文学」をつないでいた存在である。その中上の死去は「重力の喪失を感じる」ほどのものなのである。

私は、中上健次をテクストとして読みたくない。それは個人的な関係を離れて見ることができないということではない。たえず前方の闇に向けて跳躍をくりかえす中上、病者の光学をもった中上、あの中上とともに私は居たいのだ。

同、200頁

 論考のなかでは、「新潮」1993年10月号に掲載された「差異の産物」が特に優れていると思う。これは、新潮文庫版「地の果て 至上の時」に付された「解説」(惜しむらくはこの解説も収録して欲しかった、これは「柄谷行人書評集」に再録されている。)をもとに、発表されたものである。文学史では両極的とされる、私小説(あるいは自然主義)と物語(あるいは伝承)。このどちらかに還元する読み方を、柄谷は警告する。なぜなら、中上は「そうした両極を所有し、且つそれらを超えたところに「小説」を考えていた」のだから。中上健次を読む上で欠かせない論考といえるであろう。

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