文系大学生

江藤淳と柄谷行人、石原慎太郎と大江健三郎が好きです。アイコンは文豪っぽい宮本浩次、背景…

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江藤淳と柄谷行人、石原慎太郎と大江健三郎が好きです。アイコンは文豪っぽい宮本浩次、背景は若き日の石原慎太郎。読書記録など。

最近の記事

父性の文学 庄野潤三「夕べの雲」

 庄野潤三『夕べの雲』は、昭和三十九年九月から翌年一月まで日本経済新聞に連載された「新聞小説」である。読者はまずこの事実に驚嘆するにちがいない。なぜならこの小説に描かれているのは、作家と思しき主人公大浦と細君、長女の春子、長男の安雄、次男の正次郎がおりなす「生活」であり、なんらエンターテイメントに満ちた、いい換えれば明日の続きが気になるような事件などではないからである。そしておどろくべきことに、『夕べの雲』は、どんな波乱に満ちた小説よりも面白いのである。  江藤淳はこの小説を

    • 死屍累々とメダカは… 吉行淳之介「暗室」

       吉行淳之介の小説を読むとき、私はいつもスラスラと、滞りなく読んでいる。いい換えると、私はいつも「考える」ことなしに読んでいる。そして、読後に残っているのは、幾つかのすばらしいディテールである。  「暗室」は、主人公の「私」と、女たちーーマキ、多加子、夏江との関係が描かれた小説である。そして彼女らとの情事を通して、人間の「性」と「倫理」との対立関係を浮かび上がらせている。「性」というのは、ここでは分かりやすく性的欲求といい換えてもよい。そして、この関係によってこの小説全体に奇

      • 「批評家」の青春 伊藤整「若い詩人の肖像」

         伊藤整「若い詩人の肖像」は、題の元となったであろうジョイスの「若き芸術家の肖像」がそうであるような、自伝的長編小説である。「あとがき」に、「新たにフィクションや架空人物を配し」と記されているので、実人生にどれほど忠実であるのかは読者には与り知らぬところであるが、巻末の年譜を見ると時系列や主要な出来事はほとんど忠実であるといってよい。だから、ここでは「私」=伊藤整自身としてこの文章を続けていく。  この小説は、大正11年、17歳の伊藤青年が小樽商業高校に入学したところから始ま

        • 近代の超克は可能か? 富岡幸一郎「内村鑑三」

           内村鑑三は、自身の生涯には「三度大変化が臨んだ」といっている。一度目は札幌でのキリスト教入信、ニ度目は「道徳家たるを止めて信仰家」となった時ーー余の義を余の心に於て見ずして之を十字架上のキリストに於て見たーー、そして三度目はキリストの再臨を確信した時である(133)。このうち、ニ・三度目の「大変化」については、十分に論じられているといってよい。特に、筆者が内村の「思想の、その生涯の頂点」とする「再臨信仰」を、「近代」を超えるものとして提示している論点は大変面白い。  『文學

        父性の文学 庄野潤三「夕べの雲」

          個人を越えて 宇野千代「雨の音」

           宇野千代「雨の音」は「私小説」であるが、これは宇野氏自身の「人生」を語ったり、告白したものではない。むしろ、宇野氏は「人生」を語ることへの不審があるように思われるのである。  この小説では多くのことが描かれる。主人公の「私」の、従兄との結婚や子どもの死(娘の寵子が生きていたのはたった三時間であった)。雑誌「スタイル」の創刊やその編集をしていた吉村(モデルは北原武夫)との結婚。戦時下での生活や戦後の事業の失敗。そこからはじまる借金返済生活。返済直後におとずれた吉村との離婚。再

          個人を越えて 宇野千代「雨の音」

          闘う知性 柄谷行人「坂口安吾と中上健次」

           「坂口安吾と中上健次」は、私が好きな柄谷行人の私が最も愛読している書物である。  巻頭に置かれた「『日本文化私観』論」は、柄谷の安吾論のなかでもっとも知られている論考であろう。安吾研究の第一人者である関井光男は「安吾研究を一変させたほど影響力が大きった」と語っている(「坂口安吾と中上健次」293頁)。この論考では、自らを突き放すような他者性、柄谷の言葉で言い換えるならば、ある「現実」に文学の「ふるさと」を見出した。これ以降の論考は、さきに述べた認識を発展させたものといえる。

          闘う知性 柄谷行人「坂口安吾と中上健次」

          母の再生 青野聰『母よ』

           江藤淳の「成熟と喪失」における「成熟」の成り立ちはあまりにも有名である。その成り立ちとは、もっとも近しい「他者」たる母からの決別――副題にある「“母”の崩壊」が成熟をもたらすというものである。ここには、ある前提がある。つまり、子と母とのあいだにどんなかたちであれ意識的な「つながり」があるという前提が。なぜなら、「つながり」がなければ喪失など起こりうるわけがないからである。  なぜ、江藤は「母」という問題に強く固執したのか?いうまでもなく、彼が幼少期に母を失っているからだ。つ

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