見出し画像

「社長なんて」と思っていた私の気持ちを変えた一冊の本の話

いろいろあって社長をやめて、いろいろあってまた社長になった。

この決断をするにあたり、自分の中では相当な葛藤があった。というのも率直に「果たして自分に務まるのだろうか」という不安が大きかったからだ。

このことは騒動を起こす以前からずっと思っていたのだが、騒動の後はさらにその気持が強固になっていた。

表に立つ人間は立派な人間でなければならないのか

社長がすなわち全員立派な人というわけではないけれども、私の尊敬している社長さんたちはみんな揃いも揃って品格があり、器の大きい人格者だった。あるいは、スティーブ・ジョブズのような圧倒的な才能の持ち主か。

とにかく一般人より「立派な人」「すごい人」でなければ社長になどなってはいけない、社長どころかリーダーにすらなってはいけない、ということを上野の「大統領」で昼からメガハイボールを飲みながら漠然と考えていた。

そんな折、一冊の本を読んだ。

我が逃走(家入一真)Kindle版 Amazon.co.jp

「我が逃走」という家入一真さんの自叙伝である。家入さんのことはペパボの創業者ということで前々から(一方的に)存じあげていたのだが、これまで著作物は読んだことがなかった。

読み始めたら、あまりにも面白すぎて一気に読み終わってしまった。

そして思った。「あれ?別にダメな人が社長になってもいいんじゃないの?」と。

性格的な欠点を直すことはできない

本を読んでいただければわかるのだが、家入さんは本当にダメな人だ。人として基本的な約束も守れないし、慕ってついてきてくれた周りの人たちにも数えきれないほど迷惑をかけている。

でも、彼は当時最年少で会社を上場させ、いまはCAMPFIREの代表として立派に社長業を務めている。つまり、プロデューサーとしての才能は天下一品だけど、一般的な社会人としては「ダメな人」なのだ。この人に「何を求めるか」で評価が完全にひっくり返る。

こういう人に、欠点を改善して立派な人になるように言ったらどうなるか。「あなたは社長なんだから、もっとちゃんとしましょう」と。おそらく、その欠点の改善にものすごいエネルギーを費やしてしまい、長所を発揮する前に音を上げて社長をやめてしまうのではないだろうか。

「自分を変える」というムダな努力

私もそうだし、周囲を見ていても思うが、年齢にかかわらず性格的な欠点を根本的に直すのは不可能だ。そして、欠点のない人間などいない。ならば、この欠点が業務において致命的にならないようなんらかの対処をするしかないのではないだろうか。

この気づきは目からうろこだった。

それまで「どうやったら自分の欠点が直るか」「どうやったら社長になるにふさわしい人格を養えるか」ということばかり考えて、最終的には「無理」という結論に達していたけれども、そもそも根本的な考え方が間違っていたのかもしれない。

私を含め多くの人は「自分を変える」というムダなことに労力を費やしすぎているのではないだろうか。

会社はチームであるという当たり前のことに気づいた

もう1つ家入さんの本を読んでいてわかったのは、家入さんの周りには常に家入さんの欠点を補ってくれる「サポート役」がいるということだった。

ペパボ時代でいうとサトケンさん、その後は秘書の内山さん。

これまで、家入さんの自由奔放なキャラクターと「上場企業の社長」という経歴がいまいち脳内で整合性がとれなかったのだけど、本を読んでわかった。サトケンさんが家入さんがやらなそうな実務を巻き取っていたのだ。

そうかそうかと思って我が身を振り返ったとき、今回の私の事業に誘っていた木村さんを思い出した。木村さんは前職でまったく無関係の部署にいた"25歳の才女"で、誘った理由は「自分に足りないものを持っていそう」という点と、あとは「直感」だった。そして実際少し一緒に働いてみたら、思ったとおり頭もキレるし、実務能力も高かった。

このことに気づいたとき、「木村さんが一緒にやってくれるんなら出来るんじゃないか?私一人なら無理なことでも」と思った。

初めて自分にも社長ができるかもしれないと思った瞬間だった。

「ダメな人」のすばらしい長所

ただ、自分と家入さんを対比したときに、決定的に違っているところがあった。それは他人に対する寛容さだった。

家入さんは勝手な想像だけど、他人に対してガミガミうるさいことを言うイメージがまったくない。なんとなく、こんなに自分のダメさをさらけ出している家入さんなら、同じように(あるいはもっと)ダメな自分のことも受け入れてくれるんじゃないか?と期待してしまう。

実際のところはわからないけど、こういうパブリックメージがあるから多くの若者が家入さんの元に集まり、CAMPFIREで働きたいと言ってくるのではないだろうか。

一方の自分はというと、まだまだ他人に対して寛容になれない場面が多い。そうあろうと努力はしているが、ときおり他人に失望することはある。

これはなぜなのか。少し考えてみて思い当たったのは、自分では「ダメな人」だと言いながら「そこまでダメでもないのではないか」「そうはいっても自分よりもっとひどい人もいる」と思っているのではないか?ということだった。

つまり、ダメさ加減が中途半端なのか、あるいは自分のダメな部分を100%受け入れていないかのどちらかなのではないかと。

そこで、思い切って自分のダメなところに真正面から向き合い、100%受け入れることにした。

するとどうだろう。誇張でもなんでもなく、自分以外の全員が神様に見えた

そうなると、不思議なことに他人の欠点ではなく良いところばかりが見えるのだ。他人に対して寛容になるように無理にがんばらなくても、自然と「助けていただいてありがたい」という気持ちが湧いてきた。

ダメな人間もとことんそのダメさを受け入れて謙虚になれば、ダメであること自体が長所になりうるのだ。

逆にダメな部分から目をそむけて「自分はすごい」と思い違いしてしまうと最悪なことが起こった。さっきとは逆で、自分以外の全員がバカに見えた。こうなってしまうと、他人に対してイライラするし、お小言のひとつも言いたくなってくる。

ものすごく立派な人がそれをやるならともかく、ダメな人間がそれをやってしまうとどうなるか。説明する必要もないだろう。

「リーダー=最も優れた人」ではない

というわけで、どうやら私は長年大きな勘違いをしていたのではないかという気がしている。

「リーダーは誰よりも立派な、優れた人でなければならない」とこれまで思ってきたけれども、それは真理ではないのではないかと。リーダーとは、人の力をうまく借りられる人であり、必ずしもその組織の中で1番出来る人である必要はないのではないのではないか。

そのように考えると、びっくりするほど気がラクになった。自分はなにも完璧でなくてもいいし、周りの人たちももちろん完璧である必要はない。欠点があっても、弱さがあっても、何の問題もないのだ。

私と同じように「◯◯たるものこうであらねばならない」という思い込みにとらわれて勝手にプレッシャーを感じている人は、ぜひこの「我が逃走」を読んでみて欲しい。

「ああ、こんなにダメな人でも大きな会社の社長にだってなれるし、選挙にだって立候補できるし、仲間に囲まれて楽しく生きていけるんだ」という謎の安心感につつまれ、生きる気力が湧いてくるに違いない。

「一周回って家入さんは偉大だ」という結論に達し、私は本を閉じた。

よろしければサポートおねがいします!励みになります。