「なくならないよ」でハイおしまいではなくて
気持ちがあっても体が拒否する。
そういう日が続いていて、書きたい欲は満々あるのに体が受けつけてくれなかった。天気の話ではないけど、今年は例年の数倍も体調が良くない。
原因として元々体が強いほうではないのも1つだが、それ以上に「見たくない情報にぶつかりすぎた」のも大きいと思う。情報とは、他でもない
いじめ
について。
今後、noteでも何かしらでシリーズ化させて語りたいテーマだけど、それはさておき。意図的に触れるのと違って事故的に触れてしまうと、心がやられてしまう。加えて、体に残った後遺症も出てきてしまう始末。
2022年は、どうやら回数が多すぎたようだ。
あっという間に当時になる
あくまでもこれは個人的な話だから、一概に「全員こうだよね」とは言わない。ただ、私の場合はいじめに関して自分の大丈夫な範囲内で思い出すぶんには問題がない。
問題があるのは、先ほども言ったように事故的なものだ。不意に目に入ったニュースでやっていたり。誰かの言葉が流れてきたり。意識的にミュートやNGワードを使っているし、普段はニュース自体をあまり見ないようにしている。それでも今は情報社会、
どうやったって事故る。
そうすると、あっという間に当時になる。
あの時に大勢の前で辱めを受けた事、食べられない物を食べさせられ続けた事、死んでもおかしくない鬼畜なゲーム、意に反する無茶な要求、それらを痛みと恐怖と悔しさなど
負のトッピング全部盛り
で思い出して息ができなくなってくるのだ。すぐに消えてくれるなら苦労はしなくて、当然ながらトッピングは食べきれなくて残る――つまり長引く。心がそうなると紐づいている体にも影響が出てくるわけで、とんだ連帯責任だなと毎回毎回、涙。
そりゃ書くどころではないはずだ。
「なくならないよ」という斬り捨て
いじめに限らず、自分にとって苦手なニュースなどは否応なく目に入ってくる。「マスクを顔パンツと呼んだりする」のような話題もそうだ。
私自身は、容姿について否定されたり、バカにされたり、笑われたり、気持ち悪がられたりして生きてきた。だから、夏でも肌を出さない長袖ばかり着ているし、極力マスクも外せない。
そんな私にとって、あくまで私にとって、そういう意味ではないとしても揶揄するかのような呼び方を広められるのはすごく苦手だし「周りからそう思われているのか……」と意識してしまい、外に出る事自体が難しくなった。
いじめにしても、人の見た目いじりについても、本当に酷くて「なくなってほしい」と私は思っている。けれど中には、苦しみを打ち明けても
「なくならないよ」
と現実的な一言でハイおしまい――とする人もいて、個人的にはとても悲しい。自分で対策するしかないんだぞ的な意味合いもあるのかもしれないが、私自身は
苦しむ側が対策をするシステム自体
を変えていけたらいいなと思っているから。
たとえ今この瞬間にその方法しかないとしても、一言で斬り捨てられるのは苦手。
だとしたら、
「本当はこうあってほしいんだけどね」
「ものすごく歯がゆいけどね」
といったクッションの言葉くらいは欲しいなと。クッションを挟んでもらえると「ああ不満や苦しさがこの人には伝わってるんだな」と感じられる気がして。文字通り、ふわっとなれる気がして。
贅沢だろうか?
けれど、私はそうありたい。
まとめ
いじめ、見た目いじり、誹謗中傷。
それらに限らず他のでもそうだけど、こういうのは一体どうすれば(極論ではなく平和的に)なくなっていくんだろうなと、いつも思う。
「なくならないよ」といった、諦めろ一択ではなくて。「気にするな」といった、見逃しなさいではなくて。「ここはそういう場所だから嫌ならやめろ」といった、加害者寄りの言葉ではなくて。
などと真剣に考えながら、自分如きに何ができるのかを模索して、やはり「書いて発信していく」が1つだろうと思って筆を執っている次第だ。何度考えても、この結果にしか辿り着かないだけなのだが。
目に見えない傷は特に理解されづらくて、
今この瞬間に苦しんでいる人
もいるだろう。
コンプレックスをさらっと笑われて、心がずたずたになったり。服を着ていては分からない場所に暴力の痕をつけられて、着替えるたびに死にたくなったり。過去の記憶がフラッシュバックして、日常生活が人並みに送れなかったり――。
何度も言うが、そういう苦しさをふわっと消せる魔法の言葉が私には浮かばなくて、伝えられなくて、ものすごくものすごく歯がゆい。願う事しかできない自分が、とてつもなく情けない。
だからせめて、書かせてほしい。
偉そうに聞こえたなら、本当に申し訳ないが。綺麗事の自己満だと一蹴されるのも、覚悟した上でだが。毎日のように、息苦しく、行き苦しく、生き苦しく感じながら、自分なりの今日をどうにかこうにかでもやり過ごしているあなたへ。
「何も成せていないから」
「これといった成果もなかったから」
「生産性がないから」
「誰でもできる事すらできなかったから」
そういうのは、ここでは関係なく。条件なんてくっつけず。ただただ言わせてほしい。他の記事で何度も見たよとうんざりするかもしれないが。繰り返し繰り返し繰り返すのがエトナシ流なので。
「よく生きてくれてるね」と無責任には言いません。何を知ったふうにとなるだけだから。「生きていればきっといつか」と無責任には言いません。それはいつだという話だから。
「生きてればいつか」はいつですか?|エトナシ サラ|note
その上で。全てを踏まえて。
いつも、本当にお疲れ様です。
誰がなんと言おうとお疲れ様です。
自分がどう思おうとお疲れ様です。
「うるせえよ」かもしれません。「お前に言われたくない」かもしれません。「疲れてねえよ」かもしれません。その時はごめんなさい。
ただ、
「エトナシサラさんがそう言ってたな」
とだけでも、心の端の邪魔にならないところへ置いていてくれたら嬉しいです。もしも迷惑でなかったらで構わないので。自分はお疲れ様と労われていい存在なんだと、少しでも伝わりますように。
本当に本当に、お疲れ様です。流し読みでも真面目読みでも、ここまで読んでくれた、ここだけでも読んでくれた、
あなたが私は大好きです。
こちらのボタンを押して「サポート(投げ銭)」をいただけると、書くチカラになります。活動を続けていくための支えになります。サポートをしてくれた方には、私から御礼のメッセージを贈らせていただいています。