「たくわえる」ということ
たくわえ、たくわえ。
よりによってな年明けに、私はその言葉を頭の中で繰り返していた。
「たくわえ」とは、災害の時のために個人で行う備蓄的な意味だけじゃない。例えば遭っていない場所にいるとして、だからこそ自分ができることをするための「力を溜める」の意味もある。さらには、いざという時のための「知識を深める」の意味もある。
行動力、先立つ物、知見――。
いろいろな要素が「たくわえ」となり、自分や誰かや何かを助けると思う。かといって、どれもをたくわえられるとは限らない。人には向き不向きがあるし、可能不可能があるから。
で、今の立ち位置や状況と向き合えそうな時に向き合いながら「どれを主にたくわえるべきか?」と少し考えるのが、2024年の始まりだった。
少し。
正直、たくさんは無理だった。
自分のことで手いっぱい
あまりに無慈悲で大規模なニュースを見ると、つい「何かしらをやらなければ」と思いがち。たしかに緊急事態と言える場面において、やれる人は積極的にやってほしいと思う。
ただ、中には
現状は自分のことで手いっぱい
の人もいると思う。
(言い回しは上から目線かもしれないけどそういうニュアンスではなく)してあげたくてもその力が出なかったり。誰かや何かのために全振りできない事情があったり。
かくいう私も、病院へ行かなければいけない予定があって、当時の意識はどうしてもほぼほぼそっちにしか向けられなかった。今日、ついさっき、ようやく解放されて方向を少しだけ変えられたものの、まだ満足にとはいかない。
そんな今現在思うのは「何かが起こった時に全員が全員そっちに注力できるわけではないよな。でも、それがなんだか歯がゆいんだよな。しかも、そんな自分を結構責めてしまっているな」ということだ。
罪悪感に手を当てさせてほしい
そも全ての物事に目を配れるわけじゃないし、そのたび「たくわえ」を開放できるとも限らない。
人生オール自分後回し
にはできないから、当然と言えば当然。
――と、頭では分かっている。分かっているけど、大きな出来事があった時は特に「これでいいのか?」がつきまとったりして。心の中で「自分のことで手いっぱいでそれどころじゃない感じになっているのはダメダメだ。酷い奴だ。自分本位だ。やっぱ私は役立たずだ」などと、
強い罪悪感
が根を張ったりして。
それがますます悪循環で、より他のことに手を出せなくなったり。実際、私を含めてそういう人も少なからずいるだろう。とはいえ
「だからこうしましょう」
なんて、専門家じゃないから言えない。
ていうか、対処法があれば私が知りたいくらい。ただ「私もそうだよ」とは、伝えられる。「これはこれで辛いんだよね」とは、書き残せる。
インフルエンサーでもない馬の骨の言葉がなんぼのもんかって話だけど、もし似たような感覚に苛まれているなら
その心を撫でさせてほしい。
なでなでのつもりで言葉を読んでほしい。
気休めにもならなかったら、ごめんなさい。気に障ったなら、申し訳ありません。そっ閉じしてくれ。
ただただ、素直に思う。
まとめ
とかなんとか書いている今もなお、様々なニュースが四方八方へ飛び交っている。
情報が入るたびに「なのになんの力にもなれない自分」に、無力感を覚えてはいないかな?「それに関わることを考える余裕がない自分」を、ばちくそ責めてはいないかな?
無力感や自分責めを優しく優しく混ぜ溶かすスプーンは持っていないけど、どうかどうか背負っている十字架を一緒に持たせてください。重くても決して匙は投げないから。
ああ私?
私の"それ"は、病院から解放されて少しだけ軽くなれた――と思うし多分大丈夫。困った時はお互い様。そのためにも、ずいぶん遅ればせだけど、またあらためて一歩一歩やっていくから。
たくわえ、たくわえ。
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