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8. 冬至

 私は義父母と言葉を交わしたことがない。
 義母は20年近く前に他界しており、義父については、火葬炉の前で棺の小さな窓越しに束の間の対面をしたのみである。

 釈放されたアニと初めて話をした際、自分が義父と一度も関わる機会がなかった、という話をしたところ、会わなくてよかった、と何度も笑いながら言われたが、その様子を見る限り、冗談ではないように思われた。

・エアコンは一年を通して使わない
・キッチンは義父のみが使う
・風呂は2日に1回、シャワー浴のみ。
 ただし、冬至だけ湯船に浸かってもよい。

 これは、アニから聞いた、義父による家庭内ルールである。

 これまで家事の一切を取り仕切り、精神面でも一家の中心的な役割を果たしていた義母の急逝。連れ合いを失った哀しみに加え、今度は自身が一家の中心にならなくてはいけないという状況に直面した義父は、電気技士の仕事を減らし、家事に専念したという。
 義母は病床でアニの行末を案じていたという。
 アニに関して、仕事が長続きしない、生活力の無いだらしのない者として認識していた義父は、自身に残された時間とアニの一生について考えたに違いない。
 慣れない家事と格闘しながら、試行錯誤するなかで生み出された極端な節約策が、光熱費にまつわる厳しいルールだったのだろう。アニの話を聞く限り、そのルールは厳格に守られ、少しでも破られると凄い剣幕で叱責されたという。
 そのなかで、一陽来福の謂れのある、冬至の行事だけは守っていたことに、義父の心の底にある願いを垣間見た気がした。

もし、おれがいま赤んぼうを救いだすまえに事故死すれば、おれのこれまでの二十七年の生活はすべて無意味になってしまう、とバードは考えた。かつてあじわったことのない深甚しんじんな恐怖感がバードをとらえた。

大江健三郎『個人的な体験』

 1945年生まれの義父は、出生前に父親を戦争で亡くしており、その人生に「父」の存在は無かったそうだ。兄弟の末の子として、周りに可愛がられて育ったこともあり、結婚してからも家事や育児は義母に任せきりだったという。幼少期よりスポーツ万能で、好成績を残していた息子たちの試合を観戦に訪れることはなく、夫に関しては高校生までプロチームの下部組織に所属しているほどだったにも関わらず、義父のその姿勢は変わることはなかった、と夫はよく話していた。

 だが、アニと夫に幼少期の様々な記憶を繰り返し訊ねてみると、多くはないものの義父が父親として息子たちと関わっていたことが窺えるエピソードがいくつも聞かれた。
 それは兄弟のいずれかが憶えていて、それをきっかけにもう一方が思い出したり、お互いに記憶を補完しあうこともあり、その様子は発掘作業のようでもある。アニは病前の記憶は幼少期まで鮮明に引き出すことができる。

 結婚の挨拶に義母の実家を訪れた際、電信柱に隠れたまま、なかなか家に入って来なかった、というほどシャイな性格だったという義父。子どもたちに興味が無かったのではなく、どう接していいか分からなかったのかもしれない。
 また、義母が亡くなったのはお前のせい、と義父から言われたと夫が話すと、アニは自分も度々同様の発言をされていた、と半ば呆れた様子で返答していた。義父の性格を考えると、やり場の無い哀しみと理不尽な状況への苛立ちを、つい息子たちに八つ当たりしてしまったのだろう。

 私は生前の義父を一度だけ見たことがある。
ある年のこと、義母の祥月命日に墓参りをした際、義実家に立ち寄る夫を離れた場所で待っていると、かつて写真で見たことのある人物が自転車に乗ってこちらに向かってきた。
 ノンウォッシュのデニムにスニーカー、キャップを被ったその人は、家から出てきた夫を確かめると、一瞬顔が綻んだように見えた。自転車の籠に倒れたビールの缶が、真夏の陽射しを浴びて金色に輝いていたのを憶えている。お盆の塔婆について短い会話を交わしたと思われる二人は別れ、義父は家へと入って行った。そこにはごく一般的な親子の時間が流れていた。

 私の義父の記憶は、それである。

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