Etsuko Rosal

下町暮らし。5匹の元野良猫と高次脳機能障害のある義兄との日々の断片「猫と義兄」。

Etsuko Rosal

下町暮らし。5匹の元野良猫と高次脳機能障害のある義兄との日々の断片「猫と義兄」。

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猫と義兄

 5匹の元野良猫と下町に暮らしている。 いま、そのうちの1匹は目には見えない。  脳障害のある義兄がいる。 中学生の時に脳梗塞を起こし一命を取り留めたものの、脳の損傷による高次脳機能障害と器質性精神障害を抱えている。  義兄に脳障害があることが分かったのは、彼が47歳の時、自宅で病死した父の遺体を8日間放置した、死体遺棄の容疑で逮捕されたことがきっかけだった。  我が家の猫たちは、すべてが何かしらの身体的な障害もしくは基礎疾患を抱えている。出会った時に既にそうだった者、

    • Ⅱ. セカンドオピニオン [猫と義兄ー猫編]

       以前住んでいた土地は、小さなエリアに大小の公園といくつかの学校が集まっており、住宅も庭や軒下をもつ戸建がほとんどだった。そのため地元の保護猫の活動団体を中心に、TNR(猫の捕獲、不妊・去勢手術、元の場所に戻すこと)された地域猫が多く暮らしていた。  私の住んでいた低層階のマンションも、何人かの住人が餌をあげている一匹の猫がいた。食事時になると、どこからともなく現れ、駐輪場で餌を貰うのを待っている。ただ、住人たちの餌やりは気まぐれで、彼らが休暇で不在の時は、ずっと廊下で食事

      • I. 隻眼 [猫と義兄ー猫編]

         ──猫は向こうからやってくる。  この言葉は、ある詩人によるものだ。  我が家の五匹の猫たちはみな、向こうからやってきた、と言えるかもしれない。だが無計画に迎え入れたわけではない。  我が家の猫のうち、正確な年齢が判っているのは一匹だけである。  その猫は、あるピアニストと仕事をしていた時、彼の伯母が保護した野良猫のうちの一匹だった。  デスジャズというジャンルを掲げるグループで活動していた、そのピアニストは、強面のビジュアルと予測不能な発言や行動を繰り出すミステリア

        • 10. ショルダーストラップ

           アニはいつもリュックサックのショルダーストラップが捩れ、肩からずり落ちた状態で背負っている。靴底を地面に擦りながら歩くので、しばしば夫が注意する。  高次脳機能障害の判定をした市立病院の紹介で、二つ隣の駅にある精神医療の専門病棟を有する大学附属病院を訪れたその日も、肩が捩れたリュックサックを背負い、靴底を引きずる音と共にアニはやってきた。  誕生日にプレゼントしたスニーカーは、靴べらを使わずに足をねじ込んで履いたため、ヒールタブが踵に引っかかって折れていた。  コの字型

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        マガジン

        • 猫と義兄──猫編
          2本
        • 猫と義兄──義兄編
          11本

        記事

          9. マラドーナ

           アニは考えを言葉にするまでに時間を要する。それは数週間から数ヶ月に及ぶ場合もあり、アニへの問いは、忘れた頃に答えが返ってくることがあるので、気長に待つようにしている。  義父の死後、一切の炊事ができないアニのために、一週間分の食事を作り、毎週末に渡している。脳障害により、注意力が欠如することが多いため、ガスコンロを使うことなく電子レンジで温めるだけで食べられる状態まで調理してから、種類別に一食分を小分けにしている。  献立は、留置所で測った血圧が200を超えていたアニの

          9. マラドーナ

          8. 冬至

           私は義父母と言葉を交わしたことがない。  義母は20年近く前に他界しており、義父については、火葬炉の前で棺の小さな窓越しに束の間の対面をしたのみである。  釈放されたアニと初めて話をした際、自分が義父と一度も関わる機会がなかった、という話をしたところ、会わなくてよかった、と何度も笑いながら言われたが、その様子を見る限り、冗談ではないように思われた。  これは、アニから聞いた、義父による家庭内ルールである。  これまで家事の一切を取り仕切り、精神面でも一家の中心的な役割

          7. カレーライス

           アニは数ヶ月という短い期間だが、路上生活を送っていたことがある。  春の終わり、保釈されたアニと初めて食事をした時、歯がほとんど無いことに気がついた。傍目からは、欠けてそれぞれ1/3ほどになった左側の中切歯と側切歯が辛うじて確認できるのみで、実際に何本の歯が残っているのかさえ判らないほどだった。会話の時に、やや言葉が抜けるような印象を受けるのは、歯音がうまく発音できないせいだろう。  アニの話では、その時の路上生活が歯の大半を失う原因になったという。  母が亡くなって数

          7. カレーライス

          6. ぜいたくてちょう

           ──お兄さんは普通じゃないと思います。  警察署での聴取の終わりに差し出された一冊の手帳とともに、刑事からそのような言葉をかけられた。勾留されているアニとまだ1度しか面会をしていなかった当時、刑事の言葉に私は動揺した。警察の示す、普通じゃない状態とはどのようなものか。  警察署を後にし、まだ冬の寒さが残る夕暮れの街を、刑事にかけられた言葉を反芻しながら駅に向かうと、家路を急ぐ人たちが行き交う時刻になっていた。  市役所で用事を済ませ往来へ出ると、外で待つ夫が硬い表情でア

          6. ぜいたくてちょう

          5. 孤独を感じるか

          ──ずっと独りで、寂しくありませんでしたか。 ──いずれ結婚をしたい、という思いはありませんか。  第三者からの客観的かつ一般的な問いかけは、家族の力では開けないアニの脳内を見せてくれる。この質問は、アニの起こした事件に関心を持った新聞記者が取材に訪れた際に訊ねたものだ。この二つの問いに、アニは「いいえ」と即答していた。  中学3年生の時に脳梗塞を起こして以来、人知れず高次脳機能障害と共に生きてきたアニは、弟である夫の記憶では、高校、大学、社会人へと成長していくなかで次第

          5. 孤独を感じるか

          4. 梅雨のはしり

           義母が遺した手帳に記された、当時のアニの主治医と思われる医師の苗字を手がかりに、その人が現在勤務する病院を探し出すことができた。  手帳は、アニが退院してから1ヶ月ほどの通院記録を最後に途絶えてしまっているため、当時を知る人や病院に見てもらった方がいいかもしれないと、その医師のいる病院とアニが緊急搬送された市立病院に連絡をした。  35年以上前に起こした脳出血と今回の事件との関連性について、後遺症としての脳障害に一因があるのではないか、という仮説をもとに二つの病院に相談し

          4. 梅雨のはしり

          3. 偏食家

           アニは極度の偏食家だった。  子どもの頃からほとんどの野菜を口にしなかったという。魚も滅多に食べることはなく、食事はひたすら炭水化物と肉類が中心だったそうだ。  義父は亡くなる数ヶ月前に体調が悪くなり、炊事ができなくなったという。アニ独りの食生活を支えていたのは、隣駅にあるイタリアン専門のファミリーレストラン、揚げ物が中心に並ぶ惣菜店、100円ショップで取り扱われているカップ麺や菓子パンなどであった。一切の炊事ができないため、外食か出来合いのものを買って食べるしか選択肢が

          2. 生まれつき

           義実家を訪れたのは、アニの逮捕から一週間ほど経ってのことだった。  逮捕を知るきっかけとなった、ニュースでの報道。休日の早朝に報じられたにも関わらず、ニュース動画のコメント欄には、その日のうちに夥しい数の意見が書き込まれていた。落伍者たるアニへの痛烈な批判と「8050」問題への言及。なかには警察が発表したアニの供述から、他に家族がいるのではないか?という推理を繰り広げる者も出ていた。  翌日には、事故物件を掲載するウェブサイトに、義実家が事件の詳細とともに登録されていた

          2. 生まれつき

          1. 小糠雨

           アニ(義兄)との初めての対面は、留置所のアクリル板越しだった。逮捕から四日後のことである。  「父親の金を自分のものにしたかった」 アニは警察にこう供述したという。    当初から夫はアニの供述に強い違和感を持っており、警察をはじめ検事、国選弁護人との電話でもしきりにそれを伝えていた。お金に執着するようなタイプの人間ではない。  かつて日光街道の宿場町として栄えたその土地の駅前のロータリーを北東に行くと、利根川水系の一級河川が現れる。緩やかに蛇行しながら市を北西から東南