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GIベビー、ベルさんの物語(仮)

2023年12月頃に出版予定の、GIベビー、ベルさんのノンフィクション本の序章と第一章を、無料公開いたします。
ベルさんをアメリカに連れて行き、わたしが見つけた肉親に対面してもらうため、クラウドファンディングでご支援を賜りたく、そのための公開です。よろしくお願いいたします。


序章


 アネッタ、麗子れいこ、ベル。その人には、三つの名前がある。

 彼女が最初に認識した自分の名は、アネッタだった。物心ついてから18歳まで育ったカトリック教会系の児童養護施設で、シスターたちから呼ばれていた洗礼名だ。

「小学校に上がるまで、自分はアネッタだと思ってて、他に名前があるなんて知らなかった」

 小学校に入学すると、ランドセルや学用品には「つつみ麗子」と書かれた。「麗子」は、おそらく彼女の母親がつけた名だ。どんな思いをこめて、どんな状況下で名づけたのか、彼女は誰からも聞かされていない。
 児童養護施設を退所したあと、病院で住み込みの雑用係として働いたものの、2年ともたずにそこを辞め、キャバレーで働き始めた。そのとき自分でつけた源氏名が「ベル」だ。
 以降、彼女はずっと「ベル」として生きてきた。わたしが出会ったのも、ベルさんだった。

 ベルさんが白人とのハーフであることは、見た目からすぐにわかったし、親しくなってからは、1949年生まれであることも知っていた。なのにわたしは彼女を、米兵と日本人女性との間に生まれた混血児、"GIジーアイベビー" と呼ばれた子供たちと、すぐには結びつけることができなかった。
 GIベビーが物語の核となる映画『人間の証明 』は何度も観ていたし、それに出演していたジョー山中や、同じロックミュージシャンの山口冨士夫が、GIベビーであることは知っていた。澤田さわだ美喜みきとエリザベス・サンダース・ホームの話も、テレビや本で何度も触れたことがあった。RAA(特殊慰安施設協会)についての本も、自宅の本棚にある。それなのに、ベルさんがそういう子供たちの一人だとは、すぐには気づけなかった。

 これには二つ理由がある。ベルさん自身がその認識を持っていなかったことと、わたしが、いくつかの思い込みにとらわれていたことだ。

 思い込みの一つは、戦後日本が占領下にあった期間を、2年程度だと思っていたこと。もう一つは、進駐軍が駐留していた場所を、関東なら横須賀、厚木、立川、福生ふっさ、東北は三沢みさわ、九州は佐世保させぼといった、映画や小説によく出てくる場所だけだと思っていたこと。さらに、GIベビーの孤児が収容されていたのは、エリザベス・サンダース・ホームだけ、という思い込みもあった。
 このため、終戦4年後に札幌で生まれたベルさんと米軍が結びつかず、ロシア人の血が入っているか、あるいは韃靼人だったんじん末裔まつえいかなどと、見当違いの考えが先に頭に浮かんでしまった。

 こうして書くだけでも顔から火が出る思いだが、ほんの数年前まで、その程度の認識しか持っていなかった。これは、わたしに限ったことではないと思う。戦後の混乱期を知らずに育ったわたしたちの世代は、70年代にハーフタレントたちが活躍するテレビを楽しんでいても、彼らの多くがそうだったにもかかわらず、GIベビーという存在をよく理解していなかった。目覚ましく発展していく日本には、外国人がどんどん入ってきたし、また日本人も海外に出て、国際結婚も珍しくなくなった。そんな社会で生きているわたしたちにとって、ハーフは二つの文化をルーツに持つ羨ましい存在であり、戦後の暗い歴史とは切り離されていた。

 しかし前述したように、もともと興味があって戦後に関する本などを読んでいたわたしは、あるときふいに「あれっ、もしかして」と気がついた。
 すぐに資料を漁り、1949年の日本はまだ占領下であったこと、ベルさんが生まれた札幌にも米軍キャンプがあったこと、《混血孤児》を預かった施設はエリザベス・サンダース・ホームだけでなく、日本全国にあったことを知った。彼らの数は、想像よりずっと多そうだった。

 ベルさんは、GIベビーかもしれない。それは確信に変わった。同時にわたしの中で、彼女の出生を探ることで、戦後混乱期の日本の隠れた一面、特に、今まで知ることのなかった女性史に肉薄できるのではないか、という期待が湧き上がった。女をテーマにした小説を書いてきたわたしにとって、それは魅力的な素材だった。
 しかし、自分の出生について何も知らない彼女に問いただしても、

「GIベビー? ふうん、そうかなあと思ったこともあるけどねえ」

 という返事しか返ってこない。
 わたしと出会う以前、彼女は何度か肉親探しに挑戦しては、失敗していた。わたしの中に芽生えた好奇心も、次の一歩を踏み出す場所がなく、宙でぶらぶらするばかりだった。

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第一章 新宿

出会い

 JR新宿駅の東口を出て、新宿通りを四谷よつや方面に向かう。紀伊国屋きのくにや書店本店を通り過ぎ、伊勢丹まで来ると、大きな交差点に出る。かつて「追分おいわけ」と呼ばれた、甲州街道こうしゅうかいどう青梅おうめ街道の分岐点だ。そこから、その先さらに一キロメートルほど直進した四谷四丁目の交差点辺りまでが、江戸の頃に内藤新宿と呼ばれた宿場町の中心だった。道の両側には旅籠はたごが並び、明治期にかけて、飯盛女めしもりおんなと呼ばれる女たちが置かれた層楼が、一大遊郭ゆうかくを形成していた。
 大正に入ると、女たちを売る店は、風紀上の問題から街道沿いより北側の裏手に移転させられた。第二次大戦前の新宿の地図には、今も続く寄席の末広亭すえひろていより一本東、現在の明治通りに重なると思われる大門通りを挟んで東西両側に、「貸座敷かしざしき」と呼ばれた遊女屋がずらりと並んでいるのが見て取れる。大戦の後、そこは「赤線地帯」となった。現在、明治通りの東側は、ゲイタウンとして世界に名高い新宿二丁目にあたる。西側は新宿三丁目で、様々なタイプの飲食店が立ち並び賑わっている。

 スナック『雑魚寝ざこね』は、その三丁目側の遊女屋街があった辺りにある。競争の激しいこの街で、今年(2023年)開店45周年を迎える貴重な店だ。店主が役者をしていることもあり、客は芝居関係の人たちが多い。
 その辺りが今よりずっといかがわしかった70年代から、バブル景気を謳歌おうかし、その崩壊を乗り越え、長い景気低迷期を生き延びてきたこの店に、わたしが友人に連れられてはじめて行ったのは、2003年のことだった。

 ベルさんは、雑魚寝の常連客だった。Uの字型のカウンターだけの店だから、背が高く、派手な美人で、外国人にしか見えない彼女はとても目立った。こちらはすぐに顔を覚えたが、あちらはわたしなど見向きもしないという感じだった。

「ベルは女が嫌いだから、気にしないで」

 マスターの水島みずしまさんからそう聞かされていたので、つんけんされても気にはならなかった。
 数年通ううちに水島さんと親しくなり、花見や観劇など、他の常連客たちとともにお店以外のイベントに誘われるようになった。そこにはベルさんがいることも多かった。しかしどんなに打ち解けた場でも、彼女はわたしを警戒して距離をおいていたので、口をきくことはなかった。
 その時点でわたしが彼女について知っていたのは、水島さんと同い年だということ、国はわからないが白人とのハーフだということ、北海道出身だということ、そして、元ストリッパーだということくらいだった。

 はじめて親しく言葉を交わしたのは、2011年5月1日、新宿スペース・ゼロでの文学座の公演『思い出のブライトン・ビーチ』を観た帰り道だった。水島さんのお嬢さんが出演したので、雑魚寝の人たちと行ったのだ。東日本大震災から二か月も経っていない、不安な空気に満ちていた時期だった。

「地震のすぐあとに、ベルから電話があってね、一人じゃ怖いって言うから、しばらくうちにいていいよって、呼んだの。最初の晩、寝ていたら、水島さん頭を撫でてって言うから、どうしたのって聞いたら、今まで人からそうしてもらったことがないから、して欲しいって。そうか、と思ってね。一晩中、頭を撫でてあげたよ」

 少し前、水島さんからそんな話を聞いたばかりだった。彼女が施設で育った孤児だと知ったのは、そのときだったかもしれない。
 観劇後、夕方から雑魚寝を開ける水島さんと一緒に、みんなで甲州街道沿いをぞろぞろ歩いているとき、偶然ベルさんと並ぶ瞬間があり、そこからおしゃべりが始まった。何がきっかけでわたしに気を許してくれたのかは、わからない。
 そのとき彼女が熱っぽく語ったのは、主に夜間中学のことだった。卒業して8年ほど経っていたはずなのに、まるで今も通っているかのような、生き生きした話しぶりだった。読み書きを習い、計算を習い、生まれてはじめて修学旅行にも行き、卒業式では代表として答辞も読んだ、そんな話だった。

「わたしはそれまで字も読めなかったんだから、本当に中学に行ってよかった。行ってなかったら、どうなっていたかわからない」

 この台詞は、後に何度も繰り返し聞くことになる。
 それからというもの、雑魚寝で顔を合わせれば、隣に座って話をするようになった。年に数回のことだったが、そのたびに少しずつ、身の上話も聞くようになった。

ベルさんの話 《施設での生活》

 わたしは施設で育ったの。最初は、横浜の『聖母愛児園せいぼあいじえん』てところ。その名前がわかったのは、ずっとあとになってからだけどね。
 小学2年生で北海道に移ったから、横浜でのことはほとんど覚えてなかったの。何歳からそこにいたのかも、わからない。覚えてるのは、5歳くらいのときに、意地悪なシスターにお風呂で頭を沈められたこと。すごく苦しくて、怖かった。病院に連れ行ってもらって助かったけど、もう少しで死ぬところだった。わたしが何か悪いことをしたんだろうけどね。園長先生は謝ってくれたけど、それから大人を信じられなくなった。

 小学校に行ったのも、少し覚えてる。赤いランドセルを買ってもらって。ふたを開けると薔薇ばらの模様が入ってた。校庭に大きな木があって、近くにトンネルがあった。父兄参観日に、みんなはお母さんが来たのにわたしには来ないから、シスターにどうしてわたしには母さんがいないの? って訊いたら、
「今は事情があって言えないけど、あなたのお母さんは、ちゃんとあなたの出生届を出してくれたのよ。だから名前も生年月日もちゃんとわかっているのよ」
 って言われた。そうじゃない子もいるって。だから、わたしは恵まれてると思う。

 小学2年生のときに、北海道に行ったの。横浜からずーっと電車でね、すごい長旅だった。
 わたしとカワイスミエ(仮名)とキダエミコ(仮名)とシスターの四人で。床に新聞紙を敷いて寝たのを覚えてる。カワイスミエもキダエミコも、わたしみたいな子供(ハーフ)だった。カワイスミエがぎゃあぎゃあ泣いて、シスターが「あなたたちはこれから山に捨てられるんだ」って言うから、「だったら今ここに捨てればいいじゃない」って、言い返してやった。
 それからは、北広島市にある『天使の園』っていう施設で育ったの。聖母愛児園と同じで、シスターたちが面倒を見てくれた。

 小学3年生か4年生のときに、お母さんが一度だけ会いにきてくれたの。顔はもう忘れちゃったけど、綺麗な人だった印象はある。ぺらぺらの薄い着物を着てたことと、白いベールをかぶせた赤ちゃんを抱いていたのを覚えてる。だけど、それがわたしのきょうだいなのか、訊いたりはしなかった。
 お母さんが帰るとき「絶対迎えに来てね」って言ったの。そうしたら「いい子にしてたら迎えに来るよ」って答えてくれた。
 そんなことを言われたら、待つでしょ? 親の言うことだもん、信じるでしょ?
 わたしはすごく乱暴な子供だったんだけど、お母さんが迎えに来てくれるって信じて、いい子になって、ずっと待ってた。だけど、いつまで待っても来なかった。ああ、来ないんだって気がついてから、人をまったく信じられなくなった。

 天使の園では、手がつけられない子供だったと思う。いつも怒ってて、いらいらしてた。反抗してシスターに噛みついたこともある。
 学校でも、そう。勉強ができなくて、先生の話なんか聞いてなかった。一人で校庭で遊んでたこともある。将来の夢を発表するときがあって、「スチュワーデス」って答えたら、「あんたみたいな子が、スチュワーデスになんかなれっこない」って言われて、頭にきてね、その先生に殴りかかったよ。あとから校長先生が来て、わけを話したら悪かったって謝ってくれたけどね。
 そんな調子で、全然勉強しなかった。授業中はぼうっとしてたね。

 中学は、普通の学校じゃなくて、精薄児せいはくじが行く学校に入れられたの。それがもう嫌で嫌で、「どうしてこんな学校に行かなきゃならないんだ、普通の学校に行かせろ」ってシスターに食ってかかったんだけど、「あなたは勉強ができないから」って言われて。
 とにかくわたしは、シスターにも先生にも、ずっと「できない」って言われ続けたの。「お前はできない、できない、できない」って。そんなふうに言われたら、できるものだってできなくなるでしょ。勉強だってする気なくなるでしょ。
 それでそのまま、行かなくなっちゃった。だから、中学には全然行ってない。代わりに、施設で雑用の仕事をしてた。炊事を手伝ったり、小さい子の面倒をみたり。

 施設では、子供たちはみんないろんな仕事をするの。掃除、洗濯、皿洗い、畑、牛の世話、乳搾り。一番嫌だったのは、サイロってわかる? わらを入れて、雨合羽あまがっぱを来て踏んでいくんだけど、それが嫌で嫌で。逃げるとすごく怒られてね。

 中学生のとき、今度はお祖母ばあさんが面会に来た。
 シスターから急に「アネッタ、お祖母さんが来たよ」って呼ばれて、応接室に行ったら、知らないお婆さんがいてさ。真っ白な髪で、上品な感じの綺麗な人だったけど、もう大人は信じてなかったし、「へえ、これがお祖母さんか」って感じよ。ニコリともしないで、立ったまま腕組んで睨みつけて、

「あんたたちが、わたしの人生を滅茶苦茶にしたんだ」

 って、言ってやった。向こうは何も答えなかったけどね。
 「お母さんはどこ?」って訊いたら「今は言えない」って。それから、何か欲しい物はないかって訊かれたから「セーター」って言ったの。お母さんの写真て言えばよかったのに、思いつかなかった。それで、あとからセーターが送られてきた。それっきり。

 18歳になったら、施設って出なきゃいけないんだって。
 ある日急に「明日からここで働きなさい」って、車に乗せられて、札幌の精神病院に連れて行かれたの。そこで、皿洗いや掃除の仕事をすることになった。住み込みでね。院長の子供たちの洗濯までさせられたよ。こっちは小学生の頃から自分でパンツ洗ってるのに、なんて贅沢でわがままな子供なんだと思って、院長に、パンツくらい自分で洗わせろって文句言ったことがある。
 次の年、その職場に、天使の園からヤマダトモコ(仮名)が入ってきたの。前から気が合わない子で、その子と働くのが嫌で嫌で、今から思うとわがままなんだけど、病院を辞めちゃった。

 しばらくぶらぶらしたあと、すすきのの大きなキャバレーでホステスをやった。そこで踊ってた踊り子さんを見て、いいなあ、素敵だなあ、踊り子なら、字が読めなくても書けなくてもできるよなあって思って、紹介してもらって、踊り子になったの。履歴書なんていらないからね。社長に会って「はい明日から舞台出て」って、そんな感じ。
 だけど、最初に入った事務所が悪いところで、キャバレーの踊り子さんみたいに踊るだけだと思ってたのに、最初の仕事で「はい脱げ」だもの。ああ、騙されたーって思って。でも逃げられないでしょ。だから、脱ぐからもっとギャラをくれって頼んだら、お金をくれたから、それをうまく隠して舞台に出たの。だって、そこらへんに置いといたら盗まれちゃうから。誰も信用できないもん。

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ベルさんの話 《ストリッパーに》

 しばらくして、知り合いがいい事務所があるよって紹介してくれて、『カジノ』に移ったの。ママ(『カジノ』の経営者)が本当にいい人で、今でもつき合いが続いてるよ。ママはわたしの少し年上だから、当時は20代だったと思うけど、賢くてやり手でね、その頃の旦那は踊り子に手を出してばっかりのどうしようもない男だったけど、ママは本当にいい人だった。しっかりしてた。お世話になった。
 『カジノ』っていうのは、すすきのにあるストリップ小屋なの。ストリッパーはみんな、小屋に所属するんだよ。それで、全国の小屋を回るの。仕事は10日が基準。一回の興行が10日だから。10日踊って休んでもいいし、休まないで次に行ってもいい。好きなようにやらせてくれるから、稼ぎたいだけ稼げた。かばん一つで、小屋から小屋。

 家? その頃はなかったよ。小屋に寝泊まりしてたから。どこの小屋にも、布団もお風呂もあったからね。
 自分の物ったって、鞄に入る量しか持ってないもん。全然平気だった。だけど、男を連れ込んでセックス始める子もいたから、嫌になっちゃうこともあって、そういうときはホテルに泊まったよ。気に入ったお客さんを誘って、泊まることもあった。踊り子はみんな、だいたいそんな生活。

 わたしは、ほとんどトリだった。外人は人気があったからね。
 わたしは外人ストリッパーで売ってたの。ベル・クリスチーナって、自分で名前もつけた。どこの国って訊かれたら、ロシアとかドイツとか、適当に答えてた。外人だから金髪にしろっていうんで、ビールで染めてね。下の毛もよ。すごく傷んでパッサパサになっちゃうから、髪はたまには美容院で染めてた。
 喋ると外人じゃないってばれるから、ママからは「ベルちゃん、絶対に喋らないで」って言われてね。でも、嫌な客がいるとカーッときちゃってさ、「なんだてめえ、コンニャロー!」ってやっちゃって、よくママに叱られた。ベルちゃん、あなたは黙ってれば綺麗なんだから、黙ってなさいって。

 ママのことは信頼してたから、施設で育ったことを話した。それまで、どんなに仲よくなっても、誰にもそういう話はしなかった。いっさいしなかった。何か訊かれたら「うん、田舎にお母さんがいるよー」って答えてた。だから、あの頃そういう話をしたのは、ママだけ。
 字が読めないことも話して、ギャラから貯金して欲しいって頼んだの。ママ、ちゃんとやってくれたよ。他の踊り子たちにも「ベルちゃんは田舎にいる病気のお母さんに仕送りをしてるから、貸せるお金はないんだよ」って、口裏合わせてくれて。
 わたしはいつもそう言って、借金を断ってたの。踊り子はみんな、すぐお金を借りようとするからね。男とかクスリに使っちゃうんだよ。みんな、ヤクザもんとつき合ってたから。ヒモだよね。
 わたしは、そういう男とはつき合わなかった。ママにも、ヤクザだけはやめなさいって言われてたしね。
 一度、網走あばしりの小屋に出てるとき、毎日花束を持って舞台を観にくる男がいて。いい男でさ、結婚を申し込まれたの。実家まで連れて行かれたんだよ。だけど、その人のお兄さんが、こっそり「弟はヤクザだから、やめておきなさい」って耳打ちしてきたの。結婚したかったんだけど、そのことをママに話したら、絶対にやめなさいって。すごく迷ったけど、断った。今は、やめといて本当によかったって思う。ヤクザなんかと結婚してたら、悲惨だもん。そういう人、たくさん見てきたから。

 それとクスリね。あれも絶対にやらなかった。覚醒剤よ、あの頃はね。踊り子さんたちは、みんなやってたの。もうね、ボロッボロ。歯も抜けちゃって、ひどい。本当にひどいの。歯のない口で、舞台に出るんだから。それ見て、絶対にやらないって決めてた。
 ママに褒められたよ、ベルちゃんよくやらなかったねって。そりゃあさ、わたしだって弱い人間だから、何度か手を出しそうになったこともあるよ。でも、やらなかった。
 あと、外で誰かとお酒を飲むときにも、すごく気をつけてた。何をって、クスリだよ。トイレに行ってるすきに、グラスの中に入れられちゃうことがあるから。絶対に全部飲んで、空にしてから席を立ってた。お店の人にも「わたしがいない間にお酒入れないで」って頼んでね。もしも帰ってきたときお酒が入ってたら、「悪いけど、捨てて」って、入れ直してもらってたよ。
 そのくらい、気をつけてた。誰も信用してなかったから。

 警察に捕まったことは、2回ある。舞台で全部見せちゃうから、それって犯罪でしょ。踊ってたら手首を掴まれて、低い声で「わかってるな」って言われてね。ああ、捕まっちゃったって。
 留置場には、10日間入れられるの。踊り子の仕事のサイクルと同じ? ほんとだ。面白いね。10日間、毎日尋問されるんだけど、乱暴なことはされなかったよ。どうしてストリッパーなんかやってるんだとか、まじめにやんなさいとか、お説教ね。あと、学校に行きなさいって言ってくれた警察官もいた。全然、右から左だったけどね、あの頃は。
 その頃、テルキ(仮名)とつき合ってて、明大前で同棲してたの。すごいハンサムで、飲み屋で会って一目惚れして、わたしから声をかけたんだよね。うん、それが東京で暮らし始めたきっかけ。
 テルキは一応役者だったけど、下手くそ。ひどい大根。だから全然仕事がなくて、わたしが養ってたようなもの。
 だけどさ、テルキ、わたしが留置場に入っても、一度も面会に来なかったんだよ。ハガキ一枚寄越さなかった。
 わたしが字が読めないから? ううん、テルキはわたしが字が読めないなんて、知らなかったから。言わないよ、そんなこと。生い立ちだって話してないもん。札幌で生まれ育って両親は札幌にいる、って話してた。信じてたと思うよ。彼氏だろうが誰だろうが、言わない言わない。そういうことを話したのは、あの頃はママだけ。

 テルキの役者仲間の一人が、水島さんだったの。
 あとで仲良くなったけど、その頃はあの人にだって、何も話してなかった。踊り子をやってることも隠してた。でも、新宿の小屋で踊ってるときに偶然観にきちゃって、バレちゃった。だけど、施設で育ったとか、生い立ちはいっさい話さなかった。絶対、誰にも話さなかった。誰も信用してなかったから。

 親友? それはね、一人だけいた。マリリンていう、黒人のアメリカ人。事務所は違ったけど同じ踊り子で、歳も近くてね。すごく気が合って、一緒に住んでたこともあったよ。
 とっても頭のいい人でね。ものすごく太ってたの。お相撲の小錦こにしきっていたでしょ、ああいう太り方。だから、舞台に出るとひどいの、野次が。クロンボ引っ込めー、デブ引っ込めーって。マリリンは知らん顔して踊ってるんだけど、わたしが頭にきちゃって、舞台に出てって「黙れテメエ! この野郎出てけ!」ってやっちゃって、叱られてね。
 わたしもビール何十本と飲んだけど、マリリンもすごく飲む人で、よく一緒に飲みに行ったよ。バンスってわかる? ギャラの前借りのこと。ママにバンスをお願いして、よく飲みに行った。二丁目のゲイバーが多かったな、女でも入れてくれるお店があったから。
 そのときも、行く前にお店に電話しておいて「これから友達を連れて行くけど、変なことを言ったらただじゃすまないからね」って、脅してから行ってた。どこに行っても嫌なこと言われてたから、マリリンは。でも、わたしがどんなに怒っても「いいんだよ、ベル」って言うの。そういう人だった。優しい人だった。
 ううん、マリリンにも、自分の生い立ちは話してないよ。実家は札幌で両親がいるって、そう話してた。向こうも根掘り葉掘り訊いてなんかこなかったよ。こっちも訊かなかったしね。

 え? マリリンもハーフじゃなかったかって? いやあ、自分はアメリカ人だって言ってたよ。家族はアメリカにいるって。
 言葉? うん、日本語を普通に話してた。英語を喋ってるところ? それは見たことなかったな。えっ、マリリンもわたしみたいな生い立ちじゃないかって? わたしみたいに、マリリンも嘘をついてたかもしれないって? まさか。……ああでも、そうか。そうだよね。いやあ、考えたこともなかった。
 マリリンとは、いつの間にか離れちゃったの。喧嘩したわけじゃない。自然と。携帯電話なんかなかった時代だから、いつの間にか連絡つかなくなっちゃった。
 40歳くらいのときだったかな、マリリンは死んだよって、昔の踊り子仲間から聞いたの。どうして死んだのかは知らない。でも、あれだけ太ってたからね。それに、とにかく飲んだから。わたしの何倍も。アル中だったんじゃないかな。だから、びっくりはしなかった。

 わたしが踊り子を辞めたのは、36歳くらいのとき。もう年だし、そろそろ辞めようかなって。ママに頼んでた貯金、二千万円になってたよ。いつの間にか消えちゃったけどね、飲んだり遊んだり、いろんなことに使って。
 それからは、いろいろとバイトをしたよ。歌舞伎町のキャバレーにちょっといて、それから伊勢丹の斜め向かいにあったピザハウスで皿洗いのバイトとか、西口のビジネスホテルのベッドメイキングとか、家政婦もやった。あと、カラオケボックスの掃除係。
 人とあんまり関わらなくていい仕事が好きだった、気楽だから。

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ベルさんの話 《パパ》

 パパと知り合ったのは、ピザハウスでバイトをしてるとき。地下鉄の新宿駅の改札のところで、声をかけられたの。お茶しないかって。
 小さくて冴えなくて全然タイプじゃなかったから、追っ払おうとして「お金くれるなら、つき合ってもいいよ」って言ったら、くれるって言うから面白くなって、つき合ったの。そうしたら、次の日も電話くれて、優しいなと思った。七つ年上で、奥さんも子供もいる人だったけどね。すごくいい人だった。
 つき合ううちに、この人は信頼できると思って、生い立ちのことを話したの。それで、どうしてもお母さんに会いたいんだって言った。そんなこと思ったのは、はじめてだった。踊り子をしてる間は、お母さんのことなんかいっさい思い出しもしなかったのに。不思議だよね、どうしてだろう。パパだったからかな。
 そしたらパパが、いろいろと調べてくれて、わたしのおじさんて人を見つけてくれたの。お母さんのお兄さんか弟、どっちだったかは覚えてない。名前もわからない。学校の先生だって言ってた。パパの車で、その人の家まで行ったの。町田だった。
 おじさんは会ってはくれたんだけど、わたしが喧嘩腰になっちゃったから、パパがまずいと思ったみたい。「お前は車で待ってなさい」って言って、パパだけがそのおじさんの家に入って、話をしてくれたの。

 あの頃はね、わたしまだ、すごく怒ってたんだよ。お母さんに会いたいっていうのも、今みたいな気持ちとは全然違ってて、「どうして約束を破ったんだ」って、ひとこと言ってやりたかったの。謝って欲しかった。

 パパがおじさんと何を話したのか、そのとき聞いたと思うんだけど、覚えてない。たぶん、お母さんのことは何も知らないって言われたんじゃないかな。
 ひとつだけ覚えてるのは、パパが「あの家は、何か宗教に入ってるぞ」って言ってたこと。部屋に、ものすごく大きな仏壇があったんだって。
 それから、埼玉にも連れてってくれたよ。お母さんが住んでた家がわかったって。埼玉のどこかは、わからない。パパがどうやって調べたか? さあ、知らない。聞いたかもしれないけど、覚えてない。
 着いたらね、平屋の小さな一軒家だった。お母さんはいなかったんだけど、隣の家から男の人が出てきて、大家さんだって言うの。その人がお母さんのことを覚えてて、「旦那さんが外人さんで、一緒にアメリカに行っちゃったよ」って教えてくれた。
 写真も見せてくれてね。はっきり覚えてないけど、黒人の男の子が写ってた気がする。
 お母さんの旦那さんが黒人だったか? うーん……そう言ってたかもしれない。よく覚えてないの。きっとまた、わたしは怒ってたんじゃないかな、お母さんがいなかったから。
 それからしばらくして、パパから連絡がないからおかしいなと思って、会社に電話したら、死んだっていうの。交通事故に遭って亡くなったって。
 わたし、いてもたってもいられなくてね、お葬式に行ったよ。こんな外人みたいな顔した大きな女が突然来て、わあわあ泣いてたんだから、家族はなんだろうと思っただろうね。でも、ちゃんとお別れしたくて。だって、わたしにあんなに優しくしてくれた人、今までいなかったんだもん。

偶然

 「パパ」がベルさんのお母さん探しをしたのは、二人が出会った1987年頃から、パパが亡くなった1989年までの間だ。
 まだインターネットもなかった頃、彼がどのような方法でそこまで調べたのか、聞けないのが残念でならない。おそらく貴重な情報を手に入れていたはずだが、当時読み書きができなかったベルさんは、メモひとつ残していないのだ。
 パパの名刺を見せてもらうと、当時勢いのあった鉄道会社の企業グループのひとつで、営業課長の職にあった。ベルさんの部屋の箪笥たんすの上に置かれた遺影は、小柄で線が細く、いかにも実直そうな雰囲気だ。
 写真立ての横には、聖書と十字架が置いてある。すぐ下の引き出しには、白いベールも仕舞ってある。彼女は今でもれっきとしたキリスト教徒で、心が乱れると、近所の教会に行ってお祈りをしているという。

 すっかり黄ばんだパパの名刺にある新宿区落合の住所を、インターネットでマップ検索してみた。それしか、彼の情報がなかったからだ。彼が手にしていたものの欠片だけでも感じたい思いで、パソコンに向かって住所を打ち込んだ。
 会社は名前を少し変えて、まだ同じ場所にあった。しかしそれより先に目に留まったのが、そばにある『聖母病院せいぼびょういん』の文字だった。物心ついたときにベルさんがいた横浜の施設は『聖母愛児園』だ。まさかと思って調べてみると、やはりどちらも、元は同じカトリック系の修道会が創設した施設だった。さらには、ベルさんが8歳から18歳まで過ごした北海道北広島市の『天使の園』も、同じ組織が作った施設だった。
 日本各地に弱者救済の施設を作ってきた組織ではあるが、東京にあるのはこの病院だけだ。それが、当時ベルさんが唯一心を許した人が、毎日通っていた職場の近くにあった。ささやかな偶然かもしれないが、ものを調べていてこうしたことがあると、不思議な繋がりを感じて胸がざわつく。

 現在『社会福祉法人聖母会』となったこの組織の発端は、明治31(1898)年、熊本に作られたハンセン病診療所だった。
 ここは後に「慈恵じけい病院」となる。2007年、日本で初めて赤ちゃんポスト《こうのとりのゆりかご》を設置したことで、話題になった病院だ。このときは、激しい賛否の論争が起こった。
 設置の背景には、望まぬ妊娠や貧困下での妊娠により、女性が病院にも行かず、誰にも相談できずに一人で出産し、子供を遺棄、または殺害してしまう事件が相次いだことがあった。母親に非難が集まる一方で、彼女たちをそこまで追い詰めた事情や、当時の社会状況にも関心が寄せられた。
 これらの事件は、《望まぬ妊娠》の可能性を抱えた身体を持つ同じ女性として、わたしにも無関心ではいられないものだった。赤ちゃんポストに対する「捨て子が助長されてしまう」といった非難には、どんな想像力を持ったらそんな意見が出てくるのだろうと、憤慨もした。
 この世のどこに、自分の意志で捨てたい子供を身ごもる女性がいるだろうか。

ベルさんの話 《夢想》

 お母さんはね、きっと大変だったと思うの。とても苦労したんだと思うの。そういう時代でしょ? 
 これはわたしの想像だけど、きっとお父さんとお母さんは、大恋愛をしたんだと思う。結婚するつもりだったと思う。だけど、あの頃は外人の子供なんて、差別されるでしょ。だから、お父さんもお母さんも、家族に猛反対されたんじゃないかしら。それで、別れさせられて、お母さん一人じゃわたしを育てられないから、施設に預けたんじゃないかって思うの。とっても苦しんで、つらかったんじゃないかな。
 想像よ、ただの想像。

ひらがなドリル

 ベルさんはGIベビーに違いないと確信してから、占領下の日本や混血孤児についての文献を当たるにつれて、わたしが頭に思い描くようになった彼女の出生の事情は、彼女が想像しているような、ロマンチックなものではなくなっていた。
 連合国軍占領下の日本を知らずとも、アメリカ統治下の沖縄で何が起きていたかは、ニュースや書籍によって知っている。返還後でさえ、女性として聞くに堪えない事件はいくつもあった。もちろん、恋愛もあったに違いない。しかし、メディアに取り上げられ、わたしたちの耳に入るのは、いつも悲しい事件ばかりだった。

 会うたびに少しずつ、水を含んだスポンジを指でやんわり押すようにして、滲み出た記憶を語ったあと、ベルさんはいつも「お母さんに会いたい」と言った。拝むような言い方だった。それでも「じゃあ、わたしが探してみようか」とならなかったのは、彼女の甘やかな想像を打ち砕いてしまうことを恐れる気持ちが、わたしの心の隅にあったからかもしれない。

 彼女の母親探しをする気にならなかったのには、もう一つ理由がある。わたしたちが親しくなったときには、すでに3回も母親探しは行われ、いずれも成功していなかったことだ。
 パパに死なれてしまったあとも、ベルさんは諦めず、母親探しに挑戦していた。それでもだめだった。だからもう、素人ができることはやり尽くしたのだろうと考えていた。

 時間を、2回目の母親探しまで戻そう。

 来年は50歳になるという年末のある日、ベルさんは、客のいない早めの時間に雑魚寝に行き、水島さんに「年賀状の書き方を教えて欲しい」と頼んだ。

「変なことを聞くなあと思いながら、紙に《新年あけましておめでとうございます》って書いてあげたの。そしたらベル、それを別の紙に書き写し始めたんだよね。一生懸命書いてるから覗いてみたら、何だか変なの。字が下手なのもあるんだけど、書き順が不自然で、横棒も右から左に引いたり、普通じゃないの。それで、はっとして。ベル、もしかして字が書けないの? って聞いたら、そうだって」

 すでに20年以上のつき合いになっていた水島さんが、はじめてベルさんの秘密を知った瞬間だった。

「全然気づかなかった。僕の周りの誰も、気づいてなかった。よくカラオケなんかも一緒に行ったけど、画面を見てすらすら歌ってたし。あれ、歌詞を全部覚えてるのを歌ってたんだね」

 ベルさんは、その容姿から外国人に間違われることも多い。それが幸いして、読み書きができないことを誤魔化せてきたのかもしれない。
 一方で本人は、相手に気づかせまいとするあまり、人一倍強い猜疑心を育てていた。そのせいで、しなくていい喧嘩をしたり、不利益を被ってもきた。そんな中で、長いつき合いになっていた水島さんやその仲間たちは、彼女にとって特別な存在になりつつあったのだろう。だから、秘密を打ち明けたのだ。
 水島さんはすぐに、近くにある紀伊國屋書店本店で、子供用のドリルを買い、ベルさんに贈った。

「あいうえおって、上からなぞるやつがあるでしょ、それ。まずはひらがなを覚えなさいってね。最初は頑張ってやってたんだけど、そのうち挫折してやめちゃってさ。ドリルも捨てたって言うんで、もう僕は怒って、大喧嘩。テレビばっかり見てるなら、テレビなんか捨てなさい! って言ったら、ひどいって泣いてね」

 ベルさんは、共通の友達にも泣きついたという。

「友達から、ベルはこの歳までああして生きてきたんだから、今さらそんな辛いことをさせなくてもいいんじゃないか、って言われたけど、僕は譲らなかった。読み書きだけは、絶対にできるようになんなきゃだめって。しばらくしたら、ベル、自分でドリルを買い直して、また字の練習を始めたの」

 ドリルと格闘していたある日、ベルさんは、テレビで夜間中学を取り上げた番組を観た。これだ、行きたい、と思った。そして翌日には、区役所に相談に行った。不安だった授業料は無料だと聞いて、すぐに手続きを頼んだ。新学期は翌年の四月だったが、準備期間として九月の二学期から入学を許された。
 こうしてベルさんは、晴れて世田谷区立新星しんせい中学校の門をくぐり、中学生となった。昼間は新宿のビジネスホテルで働きながら、夕方には学校へ通う生活が始まった。

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ベルさんの話 《夜間中学校》

 あんなに楽しいことって、今までの人生でなかった。卒業したくなかったよ。もう一回行けるものなら行きたい。もっと勉強したいもの。高校にも挑戦してみたけど、わたしには無理だったの、難しくて。だから、本当はもう一回中学に行きたい。そしてもっと勉強したい。
 先生たちは、みんな優しかった。親切だった。すごく丁寧に教えてくれた。しんどくなっちゃって、何度か行かなくなっちゃったことがあるんだけど、必ず先生が電話をくれて、
「頑張っていらっしゃい。待ってるから」
 って言ってくれてね。それでまた通いはじめて、おかげで卒業できたの。
 行事も楽しかった。移動教室、遠足、それに修学旅行。本当に楽しかった。もう一回行きたい。
 中でもA先生ね。教頭先生。大好きだったの。わたしと同い年。

「麗子、お前はやればできる、やればできる」

 って、A先生はいつも言ってくれた。
 あと、これもよく言われたよ。

「麗子はすぐにカーッとなるから、落ち着きなさい。怒る前に、落ち着いてよく考えなさい。落ち着け、落ち着けって、自分に言い聞かせなさい」

 それから、ウッときたら、自分に「落ち着け、落ち着け、できる、できる」って言うの。今でもそうよ。そうすると落ち着いてきて、ちゃんと考えられる。

 今こうして、人と会話ができるのも、中学校で勉強したおかげなの。昔のわたしはいつもいらいらしてて、何かって言えば怒ってばっかりいたから、すぐ喧嘩になったし、人と普通に話ができなかったの。
 どうしていらいらしてたかって? 理解できなかったからよ。横で人が会話してても、何を話しているのか理解ができないから、相手のことなんか考えないで、勝手に自分の言いたいことだけわーっと言ってさ。
 そんなの不愉快でしょう? あの頃、わたしのせいで不愉快な思いをした人、たくさんいたと思うよ。でも、そんなこともわかんなかった。「何わたしにわかんない話ばっかりしてんだ」って、頭にくるばっかりで。
 字が読めて書けるようになって、人の話もわかるようになって、もしわからなくても「落ち着いて、落ち着いて」って唱えたら、カーッとしないで聞けるようになって。それからだよ、こうして人と普通に話ができるようになったのって。

 人の話がわからないってさ、人の気持ちもわからないってことなの。たとえばさ、みんなで映画を観てて、悲しい場面とか感動する場面があるでしょ? それで友達が泣いてても、わたし一人だけ泣けないの。きょとんとして「何泣いてんの?」って感じよ。昔のわたしは、そうだったの。
 今は違うでしょ? この前も一緒に映画観て、一緒に泣いたでしょ? 今はわかるから。悲しい場面を見たら、悲しいって感じられるから。涙出てくるから。

 子供の頃も、新星中学の先生みたいな先生に教わりたかった。あんな先生たちがいてくれてたら、ちゃんと勉強したと思う。「お前はできない、できない」じゃなくて、「やればできる」って励まして欲しかった。

 1年生のとき、作文の授業で、自分の生い立ちのことを書いたの。そしたら先生から、人の前で発表してみないかって言われて。やったんだよ。自分で原稿を書いて、先生に直してもらって、大きな会場でたくさんの人の前で、発表したの(2000年12月7日、第46回全国夜間中学校研究大会における「生徒体験発表」のこと。ベルさんの作文のタイトルは「夢に向かって」)。
 施設のことも、ストリッパー時代のことも、全部書いた。全部発表した。途中で泣いちゃうんじゃないかって、みんな心配してたけど、一回詰まっただけで、泣かずにこらえて最後まで読んだよ。

 それから、国語のF先生が、一緒にお母さん探しをしてくれたの。最初にエリザベス・サンダーズ・ホームに行った。そのときはわたし「横浜にいた」っていうことしか覚えてなかったから、先生がたぶんそこだろうって、思ったんだろうね(エリザベス・サンダーズ・ホームの所在地は神奈川県大磯町だが、混血孤児の収容施設として度々メディアに取り上げられ、全国的に知られた有名な施設だった。一方で、他の施設はほとんど知られていなかった)。
 でも、名簿にわたしの名前がなくて。それで、もうひとつ横浜に『聖母愛児園』て施設があるよって、教えてもらったんだと思う。行ってみたら、そこにわたしの名前がちゃんとあったの。
 でも、そこまでだった。それ以上は何も、お母さんのこともわからなかった。

孤児

 F先生とベルさんが聖母愛児園を訪ねたのは、エリザベス・サンダーズ・ホームの前で撮影されたスナップ写真の日付から、2001年10月だとわかる。ベルさんが全国夜間中学校研究大会の壇上で作文を発表してから、十か月後のことだ。
 同じ2001年10月の消印が入った封筒が、ベルさんの手元にある。差出人はベルさん。宛名には《堤カヨ(仮名)様》とあり、住所は埼玉県の所沢市になっている。中には何も入っていない。

「カヨさんて、わたしのお祖母さん。一度、手紙を出したことがあるの。出してからしばらくしたら、返事が来た。でも、中にはわたしが出した手紙が、封をしたままで入ってた。それが、これ。一緒に手紙が一枚入ってて、確か《放っておいてくれ》みたいなことが書いてあったと思う。自分が出した手紙の中身? 頭にきて、その紙と一緒に破いて捨てちゃったから、わからない。どうして封筒だけとっておいたのかも、わからない。お祖母さんの住所をどこで知ったか? うーん、覚えてないなあ」

 いきさつは忘れてしまったというが、日付から考えて、F先生との調査の中で、カヨさんの住所を探り当てた可能性は高い。
 字が書けるようになり、人前で作文を発表するまでになったベルさんが、先生に励まされながら、一度だけ会ったことのある祖母に宛てて、一生懸命手紙を書く様子が目に浮かぶ。
 いったい、どんなことを書いたのだろう。ベルさんのつたない筆致の宛名書きを見て、カヨさんは何を思っただろう。なぜ、あのような冷たい返信を寄越したのだろう。

 ここまで読んで気づかれたかもしれないが、ベルさんは、施設時代の人の名前をフルネームで覚えているなど、抜群の記憶力を持つ(後の調査で、これらの氏名はすべて正しかったことがわかる)一方で、折々のできごとの経緯などはあまり覚えていない。大事なお母さんの調査に関することも、ほぼ覚えておらず、どのタイミングで何を知ったか、どう知ったかも忘れてしまっている。
 これには何か理由があるのではないかと、ずっと考えていて、思い当たったことがある。家族のいない彼女には、思い出を共有し、一緒に振り返る時間を持つ相手がいなかったからではないか、ということだ。
 人の記憶は、繰り返し思い出すことで定着する。過去のできごとを誰かに語って聞かせたり、誰かから聞かされたり、一度語った話を何度も語り直して、その度に一緒に笑ったり泣いたり怒ったりすることは、大きな記憶の強化になる。幼児期のことなどは、自分ではまったく覚えていなくても、家族間で何度も語られるうちに、立派な思い出のひとつとなって記憶される。
 ベルさんには、そういう相手がいなかった。家族ははじめからいなかったし、心を許した友人も、夜間中学に入学する50歳くらいまでいなかった。人を信用していなかったから、親しくなっても関係は希薄で、期間も短い。どれほど重要なことであっても、誰とも共有せず、ほとんど語らぬまま、些末なことに追われる日々を送っていれば、記憶はすぐに薄れてしまうのではないだろうか。

 「孤児」を題材にした文芸作品は多い。小説や漫画、映画には、多くの孤児が登場して活躍する。そういう意味では、孤児は馴染みのない存在ではない。しかし、わたしは個人的にその実態に迫ったことはないし、現実の彼らに思いを馳せたこともなかった。家族がいないこと、その寄る辺なさは、大人になった今も想像しきれない。

 ある時期ベルさんは、自分の身の上を嘆いて、生活が荒れた時期があった。見かねた水島さんが、彼女に声をかけた。

「どんなことがあっても、僕はベルのそばにいるから、これからはもう、天涯孤独だ何だと言って、自棄やけになるのはやめなよ」

 彼は実際、親身になってベルさんに接した。彼女の誕生日には自宅に友人たちを呼んで一緒に祝い、一緒に旅行もし、年越しには、自身の大家族が集まる実家に彼女を招待するほどに。
 そんな二人を、わたしが「同い年だけれど親子のような、兄妹きょうだいのような関係」と評したときのことだ。ベルさんが、真顔で迫るようにして言ってきた。

「それは違う。水島さんには本当によくしてもらって、感謝してるよ。でも、親子とか兄妹とか、そういう感覚じゃない。だって、わたしは親もきょうだいもいないんだから、その感覚はわからないからね」

 見つめてくる力のこもった眼差しに、わたしは、自分の軽率さをビシッと指差された気がした。
 孤児とは、そういう人たちだったのだ。そんな当たり前のことに、思い至らなかった。愕然がくぜんとした。ベルさんは、この世に生まれてきた限り必ず存在するはずの親と、家族になれなかった人なのだ。家族のいいところも悪いところも、感覚したことのない人なのだ。

「外で親子連れなんかを見かけると、いいなあ、どういうもんなのかなあ、って思ってた。羨ましかった」

 ベルさんのこの「羨ましい」は、ないものねだりではない。あるべきもの、なければならなかったものを、求めた言葉なのだ。

ベルさんの話 《弟》

 わたしにはね、弟がいるの。ジュニアって名前。どうして知ったか? いつだったかは覚えてないんだけど、確か、パパに言われたんだと思う、お前には弟がいるよって。戸籍謄本に書いてあったって。
 弟も、わたしと一緒に施設にいたかって? 覚えてない。弟はね、お父さんと一緒にアメリカに行っちゃったのよ。何歳のときかは、わからない。でも、確かだよ。そう聞いたもの、わたしの弟はお父さんとアメリカに行ったって。
 どうして弟だけ連れて行ったんだろうね。やっぱり、男の子だからかしら。
 弟はわたしと何歳違いか? わからない。お父さんの苗字もわからない。アメリカのどこに行ったかもわからない。でも、お母さんがわたしに会いにきたとき、赤ちゃんを抱いてたって話したでしょ。あれが弟だと思うんだよね。
 え? そうなると、わたしを施設に預けたあとも、お父さんとお母さんは一緒にいたことになる? ああそうか、そうだよね。そうなのかもしれないね。何か、事情があったんじゃないの? いろいろあるじゃない、わたしなんかにはわからないことが。時代がさ、時代だから。そうでしょ。
 だからね、わたしは弟にも会いたい。すごく会いたい。お父さんのことは、悪いけどあんまり考えたことないの。どうでもいいって言っちゃあ失礼だけど。
 でも、お母さんとジュニアには、会いたい。すごく会いたい。

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お母さんを、探して

 こんな話を、折々、断片的に、繰り返し聞きながら、月日は過ぎていった。

 突然ベルさんから「手術を受けるので保証人になって欲しい」と電話が掛かってきたのは、2020年の秋のことだった。
 膝に人工関節を入れる手術で、術後のリハビリも含めて一か月近くの入院になるという。わたしも手術入院の経験はあるので、保証人が必要なことは知っていた。わたしの場合は二人必要で、当たり前のように家族に頼んだ。ベルさんには、そういう相手がいない。
 二つ返事で引き受けると、彼女は続けた。

「病院代は無料なんだって、生活保護を受けてるから。ありがたいね」

 入院準備など一人で大丈夫かと訊くと、それは問題ないが、次の診察時に受ける手術の説明が理解できるか不安だというので、つき添うことにした。
 病院は、ベルさんが長年暮らしている渋谷区幡ヶ谷にあった。担当医から丁寧な説明を受け、保証人の書類をもらって病院を出ると、ベルさんが近くの喫茶店でコーヒーをご馳走してくれた。世間は、新型コロナウイルス感染症の蔓延にざわついていた。病院も出入りが厳しく、手術当日も、その後の見舞いも制限されていたので、次に会うのは退院の日ということになった。

 一か月後、病院まで迎えに行くと、ベルさんは松葉杖姿ではあったが、顔色はよく、思いのほか元気だった。

「いいほうの膝を悪くしないためにも、痩せなきゃだめだって。頑張る」

 長身なのでそこまでには見えなかったが、90キロ近くまで太ってしまったのだと言って、彼女は笑った。
 リハビリで歩いているとはいえ、まだ無理はできないのでタクシーを拾い、アパートに向かった。窓から見える街並は、クリスマス一色に染まっていた。

 アパートに着くとまもなく、渋谷区の職員が来た。生活保護のケースワーカーだった。
 ベルさんは、家ではずっと布団で寝ていたが、膝のためにはベッドのほうがいいと医師に言われたため、ケースワーカーに掛け合って、無料で医療用ベッドを貸してもらえることになったという。一人暮らしなので前もって運び入れることができず、退院の日時に合わせて配達してもらえるよう、何度も担当者と打ち合わせをしたらしい。
 こうした手配を、ベルさんは入院中に自分一人でこなした。夜間中学に入ったときもそうだったが、彼女には、可能性に賭けて自力で進んで行く力がある。
 ベッドが届くのを待つ間、ベルさんとケースワーカーは実に親しげに、ときに笑いながらお喋りしていた。

 最後の仕事を解雇されたあと、次の仕事に就けず困窮こんきゅうしていた彼女に、生活保護の対象になるのではないかと助言したのは、水島さんだった。
 彼は、申請の手伝いもした。ニュースでは、なかなか申請が通らない理不尽な実態や、そのために悲惨な結果となった事件がたびたび報道されるが、ベルさんはすんなり受け付けてもらえたそうだ。理由はわからないが、身寄りが一人もいないことが、幸いしたのかもしれないとも思う。もちろん、渋谷区の行政が、至極まともだというだけのことかもしれないが。

 やってきた昇降機能付きベッドは、ベルさんの狭いワンルームの半分を占めてしまったが、彼女はかなり楽になったと、満足そうだった。
 わたしは近所のコンビニで数日分の食料を買い、冷蔵庫に入れてから帰った。

 次にベルさんに会ったのは、一年半後の2022年、夏のことだった。電話ではしょっちゅう話していたのだが、新型コロナウイルス蔓延防止のため、国を上げての外出制限が続いていたことと、彼女の70代という高齢も考慮して、会わずにいたのだ。
 その間彼女は、区営の高齢者向け集合住宅に引っ越していた。これも、一人で区に相談して情報を得、自分で応募して勝ち取ったものだった。

 7月27日水曜日、午後に渋谷のパルコ劇場で高橋一生の一人芝居『2020』を観たあと、渋谷区役所からシティバス「ハチ公バス」に乗った。傾きかけた太陽はまだ強く照りつけ、抜けていく代々木公園の目の覚めるような緑の下に、濃い影を作っていた。
 新築の集合住宅は、彼女が今まで住んでいたアパートとは格段の差があった。ベルさんは、びた手摺りの外階段を上がって入る六畳ワンルームの暮らしから、オートロック付き、エレベーター付き、オール・バリアフリーの1DKの生活にレベルアップしていたのだ。バーベキューができそうなほど広いベランダもあり、そこから見える景色はグラウンドと街路樹だけで遮るものがなく、幹線道路から離れているので騒音もない。

「いい部屋でしょう。全部自分で調べて、ハガキ出して、当てたんだよ。こんなに綺麗で広いのに、前のアパートより家賃は安いんだもん、そりゃみんな応募するよね」

 ベルさんは、嬉しそうだった。退院してからプールに通い始め、20キロ近く体重を落としたと電話で自慢していたとおり、すっきり痩せて手術前より健康そうだった。
 持っていったワインで、二人ともだいぶ酔っ払った頃だ。彼女がおもむろに立ち上がり、押し入れから数枚重なった書類を出して、テーブルに置いた。

「これ、ちょっと見てみてくれる?」

 1枚目から3枚目までは、戸籍謄本だった。筆頭者は「堤幸子さちこ」。ベルさんのお母さんだ。
 仰天した。彼女が弟の話をしたとき、確かに「戸籍謄本」があったとは言っていたが、その言い方から、わたしはてっきり、一度取り寄せはしたものの、何かのタイミングで捨ててしまったか、あるいは、パパが調査のために手元に持ったまま亡くなってしまったかで、今はどこにもないものと思っていたのだ。
 2枚目と3枚目は、ベルさんの祖父母の名前が記載された、除籍謄本だった。はじめて見るので見方がよくわからなかったが、一度だけベルさんに会いにきた祖母カヨさんが、平成17(2005)年に死亡していることは読み取れた。そしてその死亡時の住所蘭には、2001年にベルさんがカヨさん宛に出した手紙の住所と、同じ住所が記載されていた。
 戸籍謄本の発行日を見ると、平成19年(2007年)3月23日とあった。これはベルさんが58歳になる年で、パパと交際していた時期とは20年近くずれている。また、F先生と調査をした2001年とも離れている。
 なぜ、2007年に戸籍謄本を取ったのか。訊ねても、ベルさんはまたしても何も覚えていなかった。

 そうとなれば、3回目の調査のときに違いない。

 3回目のお母さん探しについては、以前、雑魚寝で水島さんから聞いたことがあった。昔、生き別れた人を見つけて感動の対面をさせるテレビ番組があり、出演者を募集していたので、みんなで「ベルのお母さんを探してもらおう」と盛り上がって、応募したという話だった。

「でも、不採用だったんだよね。ベルはあのとおり美人だし、テレビ映えもするだろうから、絶対に受かると思ったんだけど」

 水島さんは、残念そうに言っていた。こうして、3回目の母親探しも暗礁に乗り上げたのだ。
 ベルさんに確認すると、

「そうそう。島田紳助が司会してた番組よ。でも、いつのことだったかなあ。新星中学を卒業したあとなのは確か。あとね、これは誰にも言ってないんだけど、わたし、お母さんを探してくれないっていうのでカーッときて、一人でテレビ局まで行ったの。それで、なんで探してくれないんだって、怒鳴り込んだの。追い返されたけどね」

 と、興味深いことを思い出した。
 いくら怒りっぽいベルさんでも、応募ハガキがボツになったくらいで、テレビ局に怒鳴り込んだりしないのではないか。何か理由があったはずだ。
 そう思い、テレビ局と何かあったのではないかと訊ねてみたが、彼女は、腹が立ったことしか記憶していなかった。

 その後調べたところ、2007年5月24日に、日本テレビ木曜スペシャル『泣いた笑った! ご対面あの人に会いたい』という、島田紳助司会の番組が放送されていたことがわかった。戸籍・除籍謄本の発行日は、その二か月前になる。
 ベルさんは、母親探しの目的以外に戸籍謄本を取り寄せたことはないし、最後の母親探しはテレビ番組応募だ。ということは、応募したのはこの番組で、戸籍・除籍謄本は、そのために取られたのに間違いないだろう。
 テレビ関係の仕事をしている友人たちに意見を聞いたところ、いくつかの可能性があることがわかった。

 ①出演者募集の段階で、戸籍・除籍謄本を出してもらうことは絶対にない。ベルさんが戸籍謄本を用意したということは、一次審査は通って調査は始まり、その過程でボツになった可能性がある。
 ②戸籍・除籍謄本の発行日3月23日が調査の開始時期だとしたら、5月24日放送には間に合わない。それ以前から調査は始まっていて、ある段階で必要となって取り寄せてもらったのなら辻褄つじつまは合う。
 ③調査の途中でボツになった場合、応募者にはそれなりの説明がなされる。
 ④たとえ調査対象が見つかったとしても、対象者や家族の特性や事情によって、テレビ的に出せない場合がある。
 ⑤出演者の人柄も、審査対象になる。

 これらを合わせると、ベルさんの記憶にはないが、一次審査は通って調査は始まっていた可能性がある。
 また、途中でボツになった理由が、戸籍・除籍謄本だった可能性は大いにありうる。
 一回目のパパとの調査のとき、ベルさんの伯父または叔父の反応は、良いものではなかった。また、二回目のF先生との調査の際、手紙を送ったカヨさんの反応は、冷徹極まりないものだった。堤家の人たちは、ベルさんを拒否していたのだ。
 それがボツになった理由だとしたら、テレビ局の人は、ベルさんにどう伝えただろう。今となっては想像するしかないが、「これでやっとお母さんが見つかる」と信じていたベルさんは、希望をむしり取られ、いたぶられたような気持ちになったのではなかろうか。もしそうであったなら、感情のぶつけどころを失った彼女が、テレビ局に乗り込んで行ったのも頷ける。

 どんな経緯があったにせよ、手元に残った戸籍謄本を、ベルさんは怒りにまかせて破り捨てるようなことをせず、大切にとっておいた。そして、15年の後、偶然にもわたしの前に差し出されたのだった。
 そこには、考えてもみなかった情報があった。幸子さんの、結婚の記録が記載されていたのだ。

『國籍アメリカ合衆国ルイスXXXXXX(伏せ字は著者による。以下同)と婚姻届出昭和参拾年参月弐拾九日東京都中央区長受附同年四月拾壱日送付』

 そしてもうひとつ、重要な記載があった。ベルさんの弟についてだ。

『ジニヤ 男 出生:昭和弐拾八年拾弐月拾参日。
 国籍アメリカ合衆国サミエルXXXXXX同人妻フローレンスXXXXXXの養子となる縁組養父母及び縁組承諾者親権を行う母堤幸子届出昭和弐拾九年七月弐拾日受附』

 わたしは興奮気味に、そこに書かれていることが意味するところを、ベルさんに説明した。

・1949年5月24日、札幌で長女麗子(ベルさん)出生。母、幸子。父の蘭は空欄。幸子さんは、出産時17歳だった。
・1953年12月13日、札幌で長男ジニヤ出生。母、幸子。父の蘭は空欄。ベルさんは「ジュニア」と記憶していたが、正しい名前はジニヤだった。
・1954年7月20日、ジニヤさんは、アメリカ人夫妻の養子となった。"実父に引き取られて渡米した"という、ベルさんの認識は誤りだった。
・1955年3月29日、幸子さんは、アメリカ人のルイス・XXX・XXXさんと結婚した。このときベルさんは5歳。
・ベルさんが小学3年生か4年生の頃、施設に面会に来た幸子さんが抱いていた赤ん坊は、ジニヤさんではない。ルイスさんとの間にできた子供かもしれない。だとすると、ベルさんにはもう一人きょうだいがいることになる。

 この戸籍謄本を取ったとき、やはり同じように、誰かが一度解説したことがあるのだろう、ベルさんはいくつか思い出すことがあったようだった。
 わたしの中を、猛烈な勢いで好奇心が湧き上がった。興味の的は、今までベルさんの口からは出てこなかった、幸子さんの結婚相手の名と、ジニヤさんの養父母の名だ。いずれもアメリカ人とわかっている。時期的にいって、軍関係の人だろう。インターネットを使った調査で、何かわかるかもしれない。
 一気に酔いが醒めた。もうベルさんのお母さんは見つからないものだと思っていたが、もしや、という気になった。

「調べてみようか」

 そう言うと、ベルさんは拝むように両手を合わせ、「お願い」と何度も頭を下げた。

 帰宅すると、すぐにパソコンを開いた。途中で仮眠を挟み、ほとんど飲まず食わずで調べ続けた。そして、思ってもみなかったことに、翌日の夕方6時過ぎ、わたしは幸子さんを見つけた。さらにその翌日金曜日には、ベルさんが顔を忘れてしまい、ひと目会いたいと焦がれた人の、白黒写真と対峙していた。

 あくる日の土曜日、調べたウェブサイトを一日かけてすべてプリントアウトしながら、わたしは悩んでいた。わかったことを、ベルさんにどう伝えるべきか。事実を知ったら、彼女が苦しむのではないかという懸念があった。しかしだからといって、わたしが勝手に忖度そんたくして決めていいことではない。
 考え抜いた末、何も隠さず、すべてを話すことに決めた。

 日曜日、何百回通ったかわからない新宿通りを、いつものように東に向かった。
 待ち合わせていた伊勢丹の一階宝石売り場に着くと、ベルさんは鮮やかなブルーのワンピース姿で、ジュエリーのショーケースを覗いていた。声をかけると、振り返った表情は期待に溢れていた。
 まだ雑魚寝が開く時間ではなかったので、ほど近い『どん底』に入った。ここも新宿三丁目の老舗だ。ドアをくぐると店員たちが次々「ベルさん」と声をかけてきて、彼女は長年この界隈で過ごしてきた人なのだと、あらためて思う。

 頼んだ白ワインが来るのを待つ間、この街に遊びに来たときのいつもの癖で、土地に染み込む女たちの匂いに思いを馳せた。
 それから、ミニスカートにピンヒールできめたベルさんが、巨漢のマリリンとケラケラ笑い合い、卑猥ひわいな言葉を投げかけてくる男どもに悪態を返しながら、二丁目に向かって跳ねるように歩いていく様を想像した。

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報告

 ベルさん。電話で話したとおり、お母さんが見つかったよ。でも、残念ながら亡くなってた。
 これが、写真。インターネットからコピーしてプリントアウトしたものだから、あまり鮮明じゃないけど。
 ベルさんの面影があるでしょう? これを見つけたとき、鳥肌が立ったよ。あっ幸子さんだって、すぐにわかった。とても若いから、ベルさんに会いにきたときと、変わらない年頃の写真じゃないかな。

 今の時点でわかってることを話すね。
 幸子さんの夫、ルイス・XXX・XXXさんは、黒人だった。二人の間には子供が四人いて、家族はアメリカのノースカロライナ州というところで暮らしてた。
 ルイスさんは、1989年に60歳で亡くなってる。その9年後、1998年に、幸子さんは67歳で亡くなった。二人は、死ぬまで添い遂げた夫婦だったの。

 四人のきょうだいのことを話すね。上からXXさん男性、XXさん女性、XXさん男性、XXさん女性。
 残念ながら、長男と次男の二人は、ここ数年の間に立て続けに亡くなってしまったの。女性二人は健在だよ。これが写真。下の妹さん、ベルさんに似てるよね、肩の辺りの骨格がそっくり。
 ベルさんがパパに連れて行ってもらった、埼玉の家があったでしょ? 幸子さんが住んでいたっていう。そこで大家さんに見せてもらった写真に、黒人の男の子が写っていた気がするって言ってたけど、この兄弟のどちらかかもしれないね。

 どうやってお母さんを見つけたか、説明するね。
 まず、アメリカの退役軍人のデータベースらしきウェブサイトを見つけたので、ルイス・XXX・XXXさんを検索してみたの。戸籍謄本の名前の表記はカタカナだから、なかなか大変だった。結局、見つからなかった。
 つぎに、ルイスさんと幸子さんの名前でグーグル検索してみたの、いろんなパターンでね。なかなかヒットしなかったんだけど、あるとき、一見関係なさそうなのに、何度も引っかかってくるサイトがあることに気がついて。
 それは、彼らと同じ名字の、黒人男性のメモリアル・サイトだった。亡くなった人をしのんで作ったホームページ。XXXって名字は珍しくないから、検索すると山ほどヒットしたんだけど、このページだけ、何度も何度も出てきたの。
 それで、腰を据えてくまなく読んでみたら、彼の両親を紹介するところに、Louisルイス XXX XXXとSachikoサチコ T XXXという名前が併記されていたの。「TはTSUTSUMIツツミのTだ!」って、心臓がバクバクしたよ。彼は、この夫婦の3番目の子どもだった。
 そこから、夫婦が眠っている共同墓地の、ホームページに辿り着けたの。幸子さんの生年月日と、生誕地が書かれてた。戸籍謄本とぴったり一致したから、もう間違いないってわかった。
 メモリアル・サイトの息子さんは、生前フェイスブックをやっていて、そこから彼のきょうだいと甥に繋がった。彼のお兄さん、お姉さん、妹さん。一番下の妹さんの息子さん。全員、フェイスブックをやってた。
 特に、今も健在のお姉さんと妹さんは、記事を多く上げていて、画像もたくさんアップしていたの。だから、全部チェックしてみた。そしたら、家族の写真が出てきたの。さっき渡したお母さんの写真も、そこにあった。
 たくさんの画像の中からあの一枚を見つけたときは、胸がいっぱいになったよ。思わず「幸子さん!」て叫んじゃった。

 お母さんがベルさんに会いに来たとき、抱っこしていた赤ちゃんは、たぶん上のお嬢さんだと思う。彼女が生まれたのは、ベルさんが小学3年生のときの1月だから。
 ベルさん、一度妹に会っていたんだよ。

 あのね、ベルさん。わたし、この姉妹のフェイスブックを、読めるだけ読んでみたの。二人とも、家族のことをたくさん書いてる。誕生日、結婚記念日、命日のたびに、愛情溢れる言葉と一緒に、家族の写真をアップしてるの。
 とても仲がいい家族だったんだと思う。今でも、姉妹と甥はとても仲がいい。きょうだいはみんな両親をとても愛していたし、愛されていたのがよくわかる。幸子さんは、きっと幸せだった。
 ここからは、わたしの推測だよ。こんな家族を作った幸子さんは、とっても愛情深い人だったと思う。そんな人だから、ベルさんとジニヤさんのことを、忘れたことはなかったと思う。家族の愛情に包まれながら、苦しい思いを抱え続けて生きた人生だったと思う。亡くなる瞬間まで、ベルさんとジニヤさんのことを想っていたに違いないって、わたしはそう思うよ。

家族

 ベルさんは、よかった、よかった、お母さんが幸せで本当によかった、と言って、写真を見つめてむせび泣いていた。
 その姿を見て、一緒に泣きながら、わたしは全身の力が抜けるような思いだった。

 前日悩んでいたのは、幸子さんが四人の子供を生み育て、幸福な家庭を築いていたことを、伝えるべきかどうかだった。
 かつては「どうして約束を破ったの」と詰め寄るために会いたかった母への思いが、いつしか「幸せでいるかどうか確かめたい」に変わっていたベルさんだったが、自分と血を分けたきょうだいたちが、両親の愛情を存分に受けて育っていたことを知って、平常心でいられるだろうか。それが心配だったのだ。杞憂きゆうだった。
 ベルさんは、アメリカ人と結婚してアメリカに渡ったものの、そこで厳しい生活に晒され、孤独で寂しい人生を送る母を想像し、胸を痛めていた。実際、「戦争花嫁」と呼ばれ、戦後アメリカ兵と結婚して渡米した女性たちには、偏見や差別で大変な苦労をした人が多かった。
 だから、笑顔ばかりの家族の写真を見て、ベルさんは心底嬉しかったのだ。

「お母さんは、わたしとジニヤのこと、家族に秘密にしてたよね。だけど、お父さんには話してたんじゃないかって、思うんだ」

「お父さんて?」

「ルイスさん。この人、わたしの義理のお父さんでしょ?」

 ベルさんは、その日からルイスさんを「お父さん」と呼び、彼の写真も欲しがった。わたしは、次に会うときプリントアウトして持ってくると、約束した。

 そのあと、わたしたちはこれからのことを話し合った。
 ベルさんは一刻も早く妹たちと繋がりたいだろうが、彼女たちは母親の秘密を知らない。連絡のとり方には慎重になったほうがいい、とわたしは言い、ベルさんも賛成した。

「あとは、ジニヤさんだね」

 弟のジニヤさんについては、まるっきり空振りで、何も手掛かりを掴めなかった。別の手を考えるべきだが、その方法も思いつけないでいた。

「いいよ、ゆっくりで。わたしは焦ってない。お母さんのことがわかって、妹たちのこともわかったんだもの」

 これほど嬉しそうなベルさんを見るのは、はじめてだった。幸子さんに伝えたい気持ちにかられた。もしも彼女が生きていたら、互いに失った73年間という時間を、どう埋めようとしただろうか。考えても仕方のないことが、頭をもたげてくる。

 戸籍謄本によると、幸子さんは昭和6(1931)年、札幌にある豊羽鉱山とよはこうざんで生まれていた。主に亜鉛を産出していた山だ。半導体の原料であるインジウムが採れたこともあり、2006年まで操業していた金属鉱山。
 そうした土地で生まれ、14歳で終戦を迎えた少女が、17歳で米兵との子を産むまで、どんなことがあったのだろう。麗子と名づけたその子供を、いつ、どうして、横浜の児童養護施設に預けることになったのだろう。
 鬼でも人でなしでもなかった一人の女性に、娘と息子を手放させたものは、何だったのだろうか?


(お読みいただき、ありがとうございました。この続きは、2023年12月頃、亜紀書房より出版される単行本でお読みくださいますよう、お願いいたします。)

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