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明治神宮外苑再開発に伴う樹木伐採に反対した

 明治神宮外苑再開発に伴う樹木伐採の問題を自分事にしないままでデモに参加してしまったので、最初の方の熱気にやられてしまいそうだった。そもそも明治神宮外苑ってどこ?と、迷ってしまうくらい関わりのない土地だった。でも、デモでスピーチしている人の話を聞いているうちに、この問題は、広く、資本主義や商業主義化した社会の問題なのではないかということを感じるようになった。一部の企業や団体の経済的な目先の利益のために、樹木を伐採することが示しているのは、私たちの生活の余白の部分の市場化ではないのか。私がゆっくりと散歩をしたり一駅分歩いて帰ろうとしたりする時間やその空間が、商業によって奪われること、それの予兆に感じる。いや、予兆ではないのかもしれない。すでに「余白」の市場化は起こっているのだ。私たちが街を歩けば、どこを向いても広告の俳優と目が合う。ときには、地面にだって、私の消費の欲望を搔き立てるために、広告が存在する。東京では耳からも広告が入ってくる。私たちが過ごしている空間はすべて何かの資本主義経済的利益の追求のために、使われてしまうのだ。それが、外苑の再開発事業に対する運動となったことで、表面化しただけなのである。

 今回のデモの後には、小さなグループに分かれて、参加者と対話をする時間があった。私のグループでは、神宮外苑という土地に対する思い出を話した。グループの人たちは口々に、若い時に散歩をしていたこと、大学の授業をサボってここにきたことなど、神宮外苑と共に過ごした思い出を語りだした。神宮外苑は多くの人にとって生活のメインではなく、余白部分であるかもしれない。しかし、人生を振り返って、そのような人生の「余白」がどれほど私たちを癒し、私たちを「豊か」にしたのかは、計り知れない。便利さや経済発展も「豊かさ」であり、立派なことだろうが、やはり、何もない時間や(主に、市場の論理上において)意味のない時間に含まれている「豊かさ」こそ、人間性なのだ。このような「豊かさ」は数字や言葉などで簡単に表現することのできない。だからこそ、私たちはそれを見失い、「余白」を無駄で、意味のないものとして考えてしまう。しかし、人間的な意味で「豊かさ」を創造するのは、そのような時間・空間なのだ。

 デモにおいても、同じように「余白」の価値が置いてけぼりになってしまっているように感じる。
 私はデモのあり方に関心を向けて、デモについて調べていく中で、「デモは本当に意味があるのか?」「デモに効果はあるのか?」という問いに何度も直面する。実際にデモを行う人たちは「デモは意味がない」という言葉を投げかけられる人もいるはずだ。デモは本当に意味がないのか。
 私はこの問いに対する二種類の回答を持っている。一つ目は、そもそもの効率の良さとはなにかという逆の問いかけだ。もちろん、目標に向けて行動する際に、効率性は無視できない概念である。一方で、効率性が社会を変えるにあたって重視すべきことなのかという新しい問いが成り立つ。例えば、街中を歩きまわるデモ行進をしたとして、そのデモを見た人たちが考えを変えるかもしれない。考えを変えるまで行かずとも、問題を認識してもらう機会になるかもしれない。そうやって地道に輪を広げていくことも、デモの「効果」として挙げられるのではないかと考える。そのため、何か単一的な目標達成を、デモの成果として考えるのは、再考の余地がある。
 二つ目として、デモの意義を問うことや効率性や生産性と問うことは、結局は資本主義経済や市場の合理性の価値観からの批判に過ぎないということだ。特に現在のような新自由主義の社会の中では、効率性・生産性が重視される。前述のように、商業主義は何もない「余白」の部分を、経済的な利益を追求するために商品化したり、市場化をしたりする。要するに、市場の論理では、「余白」は無駄なものであり、より効率の良い(経済を回すため、生産をおこなうため)空間や時間の使い方をしようということだ。「デモは本当に意味があるのか?」という問いの「意味」という言葉には、より効率良く問題を解決し、生産性のある時間の使い方をしようという市場の論理が透けて見える。結局、私たちが本来、批判するべき対象としての新自由主義の論理や「余白」を無機質な商業で埋めてしまうような経営者の論理で、デモという行動を、意味がある/意味がないという二項対立的枠組みに押し込んでしまっているのだ。

 今回の明治神宮外苑再開発に反対するデモでは、登壇者のスピーチのあとに10分ほど音楽を聴く時間があった。周りの人達がどのように過ごしていたのかは分からないが、私は目を閉じて夏の夜の風を感じて、スピーチの内容を頭の中で反芻していた。そして、言葉にならないものを言葉にすることに努めた。私はデモに音楽を聴いてまったり時間を過ごすようなときがあってもいいと思う。先ほどの生産性の話にもつながるが、何かを一方的に主張することだけがデモで求められているのではない。ゆっくり音楽を聴いて、同じ時を共有して、その空間と親和し、ゆっくりと呼吸をする。そのような時間も必要だ。なにより、今回のデモは、権力が私たちからそのような日常の時間を奪うことに反対をするデモなのだ。私たちがこの場所をどのように使用し、どのように生きているのかを体現することができたという点において、この形のデモは素晴らしい。アイデンティティに関わるデモに関しても同様のことが言える。デモという行為を通じて、私たちが今、この場所で生きているということを示すこと、その行為自体が政治的で社会的なのだ。

 今回のデモとダイアローグは、「私からあなたへ」という一方的なコミュニケーションではなく、「私からあなたへ」、「あなたから私へ」そして「私から私へ」という高次元的なコミュニケーションができた。自分の可変性にも気づくことができたし、なによりもその気づきによって、柔軟に何かを聞き、受け入れることが可能になった。聞くことや対話することが簡単なことではないことは分かっているが、今回のアクションは、誰かを変えるためではなく、自分自身が変わるための大切な機会だった。

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