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売れない写真と売れる写真

 日本では写真は売れないと聞く。写真はアートとしての認識が低い。そりゃ「複製可能」な媒体であるから、それはそうなるかとは思う。
 ましてやデジタルの時代。写真はますます容易に、技術より作者の頭の中こそが評価のポイントとなっていき、そしてそれを表現するための加工もさらりとできるようになった。そしてそこが技術としての評価ポイントにもなっているように思う。
 それでも、飾りたい写真としてその作品を欲する、そんな写真と、そうではない写真があるように思う。それは、うまいへたの差ではなくて、技量的にはどちらも負けず劣らずではあるが、その上で飾りたい写真とそうではない写真があるように思うのだ。

 先日、ある写真展に行ってみた。
 山の写真で、それはおそらく誰が見てもきれいだし、目を引く写真であった。好みはあるかもしれないが、それは確かに見事な写真ばかりであった。
 話に聞けば、この写真の何枚かは売れたようだ。またサインを求める人もいて、それだけこの作品に皆心惹かれたようである。いくらか調整が過ぎるように見えるものもあったが、僕も総じて、「こんな写真を撮ってみたい」と強く思わせるものばかりで、対して僕が撮る写真はなんでこうじゃないんだろうか、自分が撮りたくなる写真はなんでこうじゃないのか、といっとき考え込んでしまったりした。
 いや、そもそも、オマエの写真は下手なんだよ、と言われればそれまでだし、まあ、うまくはない。上手くなろうという努力をしてない。楽しくパシャリとしているだけである。
 この方の写真には、絶景を撮るために足で稼ぎ、自然条件も左右されるからきっと何度も挑戦していることがうかがえるし、光をきっちり読み取っている。色の調整は、本当にこの色だったの?と言うくらい赤い。SNS向きとも言える。が、それはこれまで見てきた風景写真がどうしても誰でもいい誰かが撮ったようなものばかりに感じていた僕にとって、それを超えた感じを抱かせる、そういうものだった。実物を超えているのだ。

 だが、そう、自分の撮りたい写真は、これではないのだ。美しいし、一度くらいこんなのを撮りたいとも思うし、自分にはこういうセンスはないなあ、とも思うけれど、その前に、自分の撮りたいものは、そこにはない、そういうものではないんだ、とも思ってしまう。
 生まれてこのかた、どうもマイノリティ気質な気がする。同世代の人たちが好むものを好まない。J-popを退屈に思う。みんながかっこいいと思うものになかなかハマらない。
 だから、自分がいいと思った写真は、なかなか人に理解してもらえていない。そう思う。

 でも、それでいいんだ。分かる人に分かってもらえれば。


 ……ちょっと待て。

 本当にそれでいいのか。それは独りよがりもいいところじゃないか。

 でも、自分の撮りたいを抑え込んで、人に理解してもらえるような写真を撮るというのもやっぱり違う。


 以前、職場でちょっとした栞、とでも言えば良かろうか、そういうものを毎年作ることになっており、3年に一度ほどその表紙のデザインを変えることにしている。決まりではないが、まあ、気分だ。
 その表紙は季節柄自分が撮った桜の写真にしているのだが、表紙がそうやって変わったところで、何か反応があるわけでもなし、文句が出るわけでもなし、ちょっと好き勝手させてもらえる作業で、周りもまたオマエか、と言った感じ。

 今年は、桜の写真と言っても、ごく普通に鮮やかでコントラストの高い写真にした。今年はと言うのは、この数年、桜は青白く、コントラストが比較的弱かったり、強すぎだったりそんなものばかり撮っていたからで、今回のはたまたま最近の感じとは違うふうに撮ったのが、表紙のデザイン的に使い勝手が良かったのだ。

 すると、同僚から珍しいレスポンスが来たのだ。
 これいいね。好きだわー。


お、そんな感想言うの? 珍しい。と思った僕に、
 いっつも青ーくてねむーい感じだったもんね。

 はい、そうです。おっしゃる通りです。

 確かにその写真は見栄えがすると思う。花びらもかすかなピンクで、いい色が出ていると思う。でも、僕にとってはそれだけ。桜を撮りました、それだけ。

 けれど、もし売るとなれば、この桜を撮りました、それだけ。の方が売れるのかもしれない。

 売れる写真と売れない写真は、人々の望むこういうの、にきちんとマッチさせているかどうか、がポイントなのかもしれないということだ。みんなが見たい景色をしっかりおさえた写真。そちらの方が需要があると思うわけだ。

 けれども、桜を撮りました、だけの写真ではダメだ、ということも知っている。

 遠藤浩輝という漫画家さんの短編で、「プラットホーム」というのがある。彼のデビュー作だ。その漫画には日陰者となった片腕のヤクザがいて、親分の息子である主人公をあれこれとよく面倒見てくれる存在だ。彼は絵を描くことが好きで、有名な絵の模写をしたりしている。その時のセリフが印象的である。

良い絵は人を誘うんだ。
こっちの世界においで、ってね。


それは、人間の持つ黒い感情を、絵にすることはなにも悪いことではないという話から始まるセリフだった。自分のそういう感情を、せめて絵にするくらいいいじゃないか、と。

そうして片腕のヤクザは続ける。

でも、その世界は決して独りよがりであってはいけない。

いい絵は人を誘うんだ。
こっちの世界においで、ってね。


とにかく誰もがキレイだという絵がある。ラッセンはある意味そのネタ的代表格になったかもしれない。が、もう少し位相を高くすればゴッホだってそうだ。好みの問題はあれ、誰が観ても良いと感じるはずだ。
先述の写真展の作品は、まさにそうだった。人がきっと美しいだろうなと思う世界を、それ以上の技量と労力でさらなる美に昇華していた。
こういう人がきっと、写真家と呼ばれるんだろうなと感じた。映画で言えば小津安二郎とか黒澤明とか、宮崎駿とか、新海誠もかな。
写真で言えば誰だろ。

だが一方で、人々が観たいとは思ってもいない世界を切り取って、新しい概念や価値観を叩きつけるような作家もいる。ギャスパーノエ、ラース・フォン・トリアー、青山真治。片腕のヤクザが述べた絵画論はこちらにあたる。独りよがりではないが、自分の世界をきちんと見せる形に整えて、見る人の常識とか、理性とかを打ち破ってくるもの。そんな作品たち。

写真の世界で、この人は、こう、と感覚的にでも区別するほど、写真を観ていないことが露呈してしまうが、逆に映画についてはけっこうな数を観てきた。ラース・フォン・トリアーの「ダンサー イン ザ ダーク」なんか、何の救いもないし、物語の流れはぶつ切りだし、矛盾も垣間見えるけれど、これでもか、という監督の悪意に追い込まれていくビョークの演技と歌声に魅了された。だが友人は、とにかくこの映画を酷評した。けれど、観たあとに議論が残る映画は、間違いなく「悪くない映画」なのだ。

そうか、売れる映画とは、とにかく誰が見ても、おお、と思わせる、現実を超えたところにある凄み、誰もが納得する凄みを持つもので、
売れない映画とは、議論が残る映画、ということなのだ。
ダメな映画は、議論すら残らない。

写真も同じだ。きっと。
議論が残る、すなわち、こっちの世界へおいでという手招きが見える作品。その手招きに気づかされて、どう反応すればいいのかどうか戸惑う作品だ。

そうして僕が撮りたい写真は、きっと後者なんだろうと思う。誰もがいいね、となるわけではないが、確実に誰かの琴線に触れて、議論が起きるような。

しかし、そのためには、あまりに力が足りない。力が足りなくても、誰が見てもきれいだと思う一枚なら、それはそれでいいのだが、議論に残る写真を撮ろうとしてその力がなければ、それはもう反古である。
売れなくても、しかし見る人を惹きつける。こっちの世界へおいでと手招きする、そんな写真を撮りたい。そのために僕がやるべきこと、そりゃ色々あるんだけど、それが分かっていたら、苦労はしないのにね。


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