短編小説「さよなら、青い人」

「卒業」
 人によってその捉えかたは千差万別だ。
 学校、組織からの卒業。
 依存していた人や物からの卒業。
 それぞれの「今を変えたい」という思いが足を前に歩ませ、未来へと進んでいく。
 私にとってもこの日は特別だった。


 卒業生を見送る数本のカワヅザクラが花びらを散らし、濃いピンクが春の木漏れ日の中できらめいていた。
 肌寒い日が続いていたが、今日は高校の冬服で肩に力を入れなくてもよいほどの陽気で罰ゲームのように足元から身体を吹き抜ける意地悪な冬風はもういない。

「なあ、俺たちこれで終わりなのか?」

 輝きながら流れゆく季節の中で時間が止まったかのような「彼」が私へ問い掛ける。

――そうだよ。お互いに卒業しなきゃ。

 私はひどく生気のない声で返す。
 やり直す……そんな気分には到底なれなかった。

 彼が嫌いだとか、そんな幼稚な感情からではない。
 この世のことわりに従い、お互いあるべき場所へ還るだけの話である。

「俺は由衣ゆいといつまでも一緒に居たい! 永遠に!」

 良い言い方をすれば理解ある「大人」になりきれなかったのだろう。
 まだまだ子どもだった彼は顔を真っ赤に染め上げそうな勢いでアスファルトに目掛けて叫んだ。
 きっとその握られた手は湿っていただろう。
 突然こんなことを切り出されて辛いだろう。

――この三年間で色々変わっちゃったんだよ。わたしも、あなたも。

 こみ上げてくる思いを噛み殺し、わたしは決して決別の意を崩そうとはしない。
 彼とわたしでは住む世界が違うのだ。
 仕方ないことだった。

――永遠なんてないんだよ。

 自分で言っておいて泣きそうになった。
 だって、それは今のわたしたちの関係、世界を否定することになるからだ。

「永遠はある! 絶対に!」

 彼は目から雫を散らしながら言う。
 わたしは知っている。
 この男子が嘘をついていないことを。

 わたしが一年生の頃だ。
 回りと比べて少しだけどん臭く、容姿にも自信が持てず交流が苦手で周囲から突き出されるには十二分過ぎる才能の持ち主だったと思う。
 中学の時もそうだ。
 人生を諦めていたわたしを救ってくれたのは、小さなときから続けてきた絵を描くこと。
 その行為が、その時だけが呼吸できる気がする。
 あることがきっかけで認めてくれたクラスメイトや彼の存在がわたしの仄暗い世界に光をもたらした。

 救われた気がした。
 インターネットしか生きる場所のなかったわたしに根をつける場所ができたのだ。
 その時だけではない。
 友人も、彼も何度も助けてくれた。
 何度も。
 なんども。
 だから。

――終わりなんだよ、もう。

 わたしは、泣きたかったのかもしれない。
 これ以上お互いに依存していてはダメになってしまう。
 あの辛い思い出も、同じ季節を何度も繰り返して繰り返して。
 それが永遠というのならば、わたしはわたしでなくなってしまう。

「……そうか。もう、いいんだな」

 彼が目元を拭いながら重い言葉を吐き出した。
 どれだけわたしは彼を苦しめるようなことをしてきたというのだろうか。
 計り知れない罪悪感を抱えながら弱い自分を叱責する。

 彼との、この学校との思い出全てが楽しいわけではなかったが、それでも踏み出した世界は明るくて景色は鮮明で。言葉一つひとつがまるで昨日のことのように思い出せる。
 わたしには勿体ないくらいの友人と……恋人だった。
 彼がわたしに与えてくれたもの。
 わたしが彼に与えられたもの。
 そのどっちもが、曇りを知らない人生の宝物のようで……わたしは今、それから目を背けようとしている。
 だけど。

――卒業……なんか、したくないよぉ……っ。

 目頭がジンと刺激され、景色が歪む。
 感情の熱を帯びた雫が頬を濡らし、ポツポツとアスファルトに落ちる音が自分の耳にも入るようだった。

由衣ゆい……」

 彼がわたしを抱きかかえようとしたが、伸ばした手はわたしの身体をすり抜けて虚空を掴んだ。

「すまない。俺がお前を縛り付けたんだ」

――違うっ。わたしがあなたを作り出したんだ! 現実を受け入れられなかったから!

「作り出した? 由衣ゆい、何を言って――」

 私の言葉にまるで狐にでもつつまれたかのような彼。

――由衣ゆいっー。

 次の瞬間、背後からクラスメイトの女子二人が声をかけてくる。

――おうおう、こんなところで一人で泣いててどうしたよ。

――小桜さんもう残ってないかと思ってた。落ち着いてでいいから、三人で打ち上げとかしない?

――うん、いつもの店だよね。先行ってて。

 わたしが涙を手の甲で拭いながらそう言うと、友人たちは手をひらひら振りながら正門から巣立っていく。
 その先にはピンクの霧がかかり、彼女らは迷うことなくその中へ飛び込んでいった。

――あの子たち、怖くないのかな。

 ぼそりと呟く。
 わたしたちはこの春、高校という庇護下から離れて大学や専門学校、そして社会に出ていく。
 あの淡い霧は行く先を遮る不安という闇だ。
 少なくともわたしにはそう見える。

「……説明してくれよ」

 彼は拳をぎゅっと握り佇んでいた。
 舞い散る希望と絶望の景色を後ろに。

――もう時間がないんだ。わたしも、行かないと。

由衣ゆい!」

――最期に。終わりは全てのはじまりなの。だから、終わりを恐れていないで、行こうっ。

 わたしは本来触れられることのできない彼の腕を「引き」、外の世界へ駆け出す。

「嫌だ! 俺は、本当は――」

 言葉では走りを止められない。
 そして光の霧がわたしたちを包み、体は白へ溶けていった。


***


「卒業おめでとうございます」

 話が極端に短いことで名物の校長先生がそう話を締めくる。
 実感はない。
 何故なら大切な人と過ごすはずだった時間を失ってしまっていたからだ。

 桜色の季節。
 病院のベッドで目覚めた「俺」は長いリハビリを終え、復学。
 そして最愛の彼女がいない学び舎で移ろいゆく季節をただ眺めていた。
 意識を失っている間に見たあの青春はもう来ない。
 実年齢が少し上というだけで仲の良い友達はできなかった。
 それどころか、事故の被害者というだけで腫物扱いをされていた。

「はあ」

 その辛い時間も終わる。
 未練たらしくあいつのことを想っていないで、恋人なんかはまた作ればいい。
 ただ一つ――ブランクのある俺に人生を取り戻すことはできるのだろうか。
 一体、どれだけの歩幅で歩めば元の場所に辿り着けるのだろう。
 戻りたい。
 切に、そう、思う。

――ではお連れしましょうか。永遠に続く時に。

 不意に背後で女の声がした。
 俺が振り返ると、そこには病的に青白い女子が手を組んで佇んでいた。
 彼女を俺は知っている。

――貴女が失った時間をその場所ならばやり直せます。私たちにはそれだけのことを成し得る力があります。

 女は驚きを隠せなかった俺に構うことなく続けた。
 永遠に続く時とは、その場所、私たちとは。
 疑問だけが思考を支配していくが、その隙間から木漏れ日のような淡い光が差し込んだ。

「……いいや。永遠に続くなんて御免だ。俺はそれをあの世界で捨ててきた」

 俺は知っている。

――これから辛い現実が待ち構えているというのにですか?

 知っている。
 だからこそ。

「ああ。俺はどんなに辛くても、醜くても。足掻いてみせる。一度救われた命だ」

 胸に手を。
 心に灯を。

――そうですか。

 その女子は深いふかいため息をつき、淡い青の瞳を何度か見え隠れさせる。

――「全ての希望は生きる者たちの中にある」とはよくいったものですね。わかりました。これから先の人生は辛いことで溢れているでしょう。どうしても逃げ出したくなりましたら私たちを頼って下さい。

 彼女はスカートのポケットから名刺のようなものを俺に差し出す。

「……リライフ?」

――ええ。詳細は以前お伝えしているので省きますが、貴方がたの味方です。

「やっぱり」

 彼女は夢で見た少女――小桜こざくら 由衣ゆいの姿をしていた。
 しかし、その風合いは似て異なり、どこか人間らしさが欠けているように見られる。

――今はお別れですね。

 少女は俺に背を向け、校舎に向かって歩き出す。
 青を孕んだ長髪がなび」いてふわりと舞った。

「もう二度と出会うこともないだろうけどな」

 俺は卒業証書の入った合革筒を掲げ歩き出す。
 だが、思い留まってゆっくりと遠のいていく彼女に「なあ!」と声を投げつける。

「名前聞いてなかったな」

 彼女は左足を軸にくるりと向きを変え「青い人、とでも」と何処か悪戯っぽく微笑んだ。

「さようなら、青い人」

 俺はそう告げて外の世界へと歩み出す。
 きっと大人たちが言っている以上に試練の連続なのだろう。
 時には自ら命を投げ出すようなこともあるのだろう。

 それでも進み続けなければ。
 俺はまだ生きている。



  • 執筆・投稿 雨月サト

  • ©DIGITAL butter/EUREKA project

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