見出し画像

優雅な貧乏生活 その1

差別としての「貧困」について前回に書きましたが、今回はその貧乏を楽しんじゃおうという「優雅な貧乏生活」についてです。「これこれの貯蓄がなければ幸せな老後は送れない」という、老後の不安をかきたてる脅し文句の洪水に屈することなく、少ないお金で優雅に暮らす方法を江戸時代の俳人たちの生き方から学んでみようと思っています。

今回は、そのイントロ。このシリーズ(優雅な貧乏生活)は、気が向いたときなどに書いたり、他の方にお願いして書いてもらったりします。

ちなみに今回の写真は、前回の写真を反対側(海側)から見たものです。右上にちょっと見える岩の面には小川芋銭(うせん)の俳句が彫られています。

大海を 飛びいづる如(ご)と 初日の出

初日の出が太平洋から飛び出すように出てくる!そんな意味の句が、岩全面に刻されています。雄大な句碑です。

うちはこのすぐ下にあったので、「初日の出飛び出しの景」を毎年見ていました。いや、初日の出でなくても太陽は太平洋から飛び出してきます。

▼お上はあてにならない

閑話休題(それはさておき)…

国民の収入を引き上げようという国や地方自治体の試みは、それはそれで大切なのですが、それだけではちょっと足りないんじゃないかと僕は思います。

そうそう。ここで、ちょっと注意をば。

僕たちは「どちらが正しいか」という一点中心主義にすぐに陥りがちです。しかし、平川克美さんが『21世紀の楕円幻想論 その日暮らしの哲学(ミシマ社)』の中でも主張されているように、いろいろなものには楕円のように2つ(あるいはそれ以上)の中心があります。僕がコメントを受け付けない設定にしているのは、だいたいの反論が、「どちらが正しいか」という一点中心主義の人からのものだからです。

…というわけで、国や地上自治体の試みも大切です(これがひとつの中心)。でも、僕たち個人の心構え(もうひとつの中心)も大事なんじゃないかと思うわけです。そんなわけで、貧乏そのものを楽しむ「優雅な貧乏生活」生活を、この十年ほど考えています。

だって、こんなに年金が当てにならないときに高齢者になりつつあるのですから、こりゃあなんて他人を当てにせずに自分で考えなければならない。

だいたいすべての人の収入を引き上げるなんて、ちゃんとできればいいけれども、よくよく考えれば、これって「ねずみ講」と同じでしょ。国の歳入がほぼ横ばいなのに対して、貧困層は増えているんですから(そして富裕層は、その富を手放そうとはしないし)破綻するのは必至です。

そして、そのしわ寄せは、おそらく一番弱い人のところにくる。

だからお上はお上で努力をしていただいて、こちらはこちらで勝手に優雅にする術(すべ)を模索するのです。

▼お手本は俳諧師

「優雅な貧乏生活」のお手本は、江戸時代の俳諧師です。松尾芭蕉とか、そういう人たち。僕たちが参考にしたいのは彼らの生き方、「俳諧的生き方」です。

俳諧(はいかい)というのは俳句と一緒にされがちですが、俳句は明治になってから正岡子規が作ったもの。俳諧とはちょっと違います。

俳諧の説明をしていくと、話が「優雅な貧乏生活」に行かないので、このページの最後に超簡単に説明しますので、いまはスルーして読み進めてください。

「俳諧」という語は、もともとは「たわむれ」とか「おどけ」という意味です(『日本国語大辞典)。「俳」も「諧」も、もともとがユーモアという意味(『字通』)。「俳」がふたりの間のユーモア(ボケとツッコミ)、「諧」がみんなでのユーモアです。

ですから、俳諧的な生き方というのは、この世の中を諧謔(ユーモア)で読み直してしまおう、生き直してしまおうという生き方です。このお手本としては、たとえば江戸時代の俳人、横井也有(よこい・やゆう)の鶉衣(うずらごろも)などがあるのですが、それについても、この連載(あ、連載になっちゃった)でときどき紹介しますね。

そんなわけで僕たちも、江戸時代の俳諧師たちのように、貧乏を逆手にとって、それにちょっとしたユーモアを加えて世の中を優雅に笑って生きようというのが「優雅な貧乏生活」なのです。

あ、そうそう。「優雅な貧乏生活」は、フィッツジェラルドの「優雅な復讐」も元にしています。

▼優雅な貧乏野点

「優雅な貧乏生活」というけれども、具体的にはどうしたらいいんだ、という方、まあ、そうお急ぎにならずに、それはおいおい書いています。

が、そのうちのひとつを紹介すると…。

たとえば、いま僕はこれをスタバで書いています。スタバはコーヒーのショート(S)が280円。税金がプラスされると302円。スタバよりも安いドトールでも220円します。お金がないときには、それもちょっとキツイということがあるでしょう。しかもドトールだと、そんな優雅な気分にはならない(笑)。

そこで!

「優雅な貧乏生活」仲間を集めます。3人~5人くらいがいいでしょう。この仲間集めも大切なのですが、それについてはいつか書きます。

「優雅な貧乏生活」仲間は、100均で抹茶茶碗を買って持っています。「え~、そんな安い抹茶茶碗なんて」と思わないでください。ここら辺は、横井也有が面白いことを書いていますので、いつか紹介します。

さて、そのみんなでお金を出し合って「お抹茶」を買います。たとえばamazonを見てみると「お稽古用抹茶」100g=819円(送料込)というのがあります。お茶を点てるときに使う抹茶の量は「1.5g」です。100g買えば66人分もあります。ひとり分、13円弱です。

適当な場所を見つけて(木陰がいい)、そこを野点(のだて)の場所にします。雨が降っていたら公園の四阿(あずまや)などもいいですね。そういう公園を見つけておくということも大切です。

お茶を点てるお湯は、カップ麺を作るふりをしてコンビニでもらってもいいでしょう。お金に余裕があれば和菓子屋さんか、なければスーパー、それもなければコンビニで季節の和菓子(の安いもの)も買います。

みんなで野の花を摘みに行きます。適当な花器を見繕い(たとえば細い管とか)、それに摘んできたお花を美しく活けます。

そして、作法にのっとってちゃんとお茶を点てます。この「作法にのっとる」ということが「優雅な貧乏生活」では大切なことです。儀礼(ritual)にするのです。むろん流派にこだわる必要はないし、自己流が入ってもいいでしょう。

そして、お菓子をいただき、お茶をいただき、さらにはみんなで俳諧の連歌(連句)をする。

するとドトールでコーヒー(S)をオーダーするよりも安く、しかし優雅にすごせるのです。

これのためにはお抹茶の点て方の基本を知っておいた方が、より優雅になりますね。そして、俳諧を巻く(「巻く」っていうんです)方法とかね。で、そういう方法もここではお伝えしていきたいと思っています(たぶん誰かに依頼します)。

そんなわけで「優雅な貧乏生活」。みなさんもお楽しみください!…なんて言いません。まずは僕と、その友人たちとで楽しみま~す。

▼付録:俳諧について

さっきスルーした俳諧の方法です。今回は超簡単な説明だけです。

まず誰か(A)が「五七五」を詠みます。最初の句なので「発句(ほっく)」と呼ばれ、これが俳句の元になります。たとえば芭蕉が『おくのほそ道』の旅で「さみだれをあつめてすずしもがみ川(→後に「すずし」は「はやし」に変わります)」と詠んだ、これが発句です。

すると次の人(B)は、この「五七五」に続くように「七七」と読みます。先ほどの芭蕉の句に対して一栄という人が「岸にほたるを繋ぐ舟杭」と詠みました。

ここで「さみだれをあつめてすずしもがみ川 岸にほたるを繋ぐ舟杭(五七五 七七)」という、ひとつのまとまりができます。

場所は、川辺。前日まで降り続いた五月雨(梅雨の雨)を集めて、涼し気に流れる最上川。昨日までのうっとうしさが消えている、それが芭蕉の句ですね。それに付けた一栄の句では、その岸に船をつなぐ杭がある。で、そこにたくさんの蛍が乱舞していて、船ではなく、まるで蛍を係留しているようだ、なんて情景になります。時刻が夜になりますね。

さて、次の人(C)は、Bさんが詠んだ「七七」に対して「五七五」を読み、ここで新たな「五七五 七七」の世界を作るのですが、ここで決まりがあって、Cさんの「五七五」は、最初のAさんの「五七五」の世界と関連があってはダメなのです。

ここでは、芭蕉とともに『おくのほそ道』を歩いた曾良が付けました。「瓜ばたけいさよふ空に影まちて」と詠む。途端に芭蕉が詠んだ川辺から、場所は瓜畑に移り、しかも蛍の光がそれほどに見えるのは十六夜の月がまだ出ていないからだと、前の句の情景をより鮮明にしています。

こんな風にどんどん、どんどん変化させて句を付け合っていく、それが俳諧です。そうそう、連歌をご存知の方ならば形は同じですね。俳諧は、「俳諧の連歌」というのが正式名です。すなわち「連歌ジョークバージョン」です。

「連句」ともいいます。