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モーツァルトの倚音

 まず,倚音(アポジアトゥーラappoggiatura) について説明しておこう。
コトバンクによると,「強拍に置かれて2度進行で和声音に解決するもので,自由掛留音とも呼ばれる」となっている。
 私が倚音のことを初めて知ったのは,NHKの「フルートともに」だった。講師の吉田雅夫先生は,倚音の「倚」は,「よりかかる」という意味だと言っていた。
 フルートともにのテキストは楽譜だけで,倚音についての説明はない。すべて番組の中で説明される。たとえば,次の箇所。

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「倚」と鉛筆で書いたのがそれだ。また,いわゆる装飾音のアッチャカトゥーラについても触れていた。
 「わが青春のブラ4」でも示したが,ブラームスの交響曲第4番第4楽章のフルートのソロでの倚音については熊田氏が詳細な分析をしている。「イ」と書いてあるのがそれだ。

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 これらはいずれも通常の表記の音符で,和声進行から「強拍に置かれて2度進行で和声音に解決する」と判断することになるのだろう。


 さて,テーマは「モーツァルトの倚音」である。モーツァルトの場合は倚音を小さな音符で表記しているからだ。この小さな音符はいわゆる装飾音ではない。前述のアッチャカトゥーラとは区別すべきだ。その区別は,和声進行の他,音符にスラッシュがあるかどうかでもできる。
 たとえば,レクイエムのセクエンツァ第2曲のトゥーバ・ミルムでは,まずテノールパートに倚音が現れる。手稿譜では次のようになっている(3小節目)。

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小さな音符には旗がない。四分音符と同じ表記だ。これを,ベーレンライター版の印刷譜では,次のように,括弧書きで八分音符の形にしている。モーツァルトの場合,倚音は八分音符で表すことが多いからだ。

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続くメゾソプラノは倚音のオンパレード。

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3小節目は旗にスラッシュが入っているように見えるが,モーツァルトの場合これは16分音符表記なので,印刷譜では次のようになっている。

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実際の演奏はつぎのようにする。

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 ところで,このような表記は,モーツァルト以前は普通に行われていて,ハンス・マルティン・リンデは「古い音楽における装飾の手引き」で,次のように書いている。ただし,倚音(アポジアトゥーラ)とは書かず「前打音」と書いているが,状況は同じだろう。

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 以上のことは,「フルートとともに」の視聴で始まり,音楽書で(他にも読んだ本はある)自学し,モーツァルトが書いた一見すると装飾音に見えるものでも,倚音であれば,短い音ではなくちゃんとした音価をあたえる,というのは私には常識になっていた。

 あるとき,モーツァルトの歌曲「すみれ」をオケで演奏することがあった。ピアノ伴奏を管弦楽に編曲したものだ。この「すみれ」でも,次のように倚音が現れる。モーツァルトの自筆譜と印刷譜を示そう。

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これを,たとえば,エディット・マティスはちゃんと倚音として歌っている。
 ところが,オケの練習では,コンマスが短い音で弾くように指示していた。私はそれは違う,と思ったが,相手は音大出のコンマスなので黙っていた。
 本番の指揮者の練習日になった。山田一雄先生である。演奏を始めてすぐ指揮棒が止まった。短くするのでなく,16分音符分の音価で「正しく」弾くように言われたのだ。
 そのとき,「音大出でも,こんな(私にとっては基本的な)ことも知らないのだ」と思った。しかし,まあ,それはそうだろう。音大でベートーベン以降の音楽しか演奏せず,モーツァルトやバッハでも先生に言われた通りに弾いていただけであれば,バロックの演奏法について詳しく知らなくても当然だ。ウタ科やピアノ科の人が交響曲に詳しくなくても不思議はない。私がモーツァルトの倚音のことを知っていても,イタリアオペラの歌い方については何も知らないのと同じだろう。むしろ,アマチュアが,自分の興味の向くままに勉強している方が楽しく,意外に詳しいのかもしれない。そこに生活はかかっていないのだから。

 そう,アマチュアは生活がかかっていないだけ,自由気ままに演奏法を考えることができる。文献で,CDやYoutubeで。そこに,音楽の楽しみがある。