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母と"がん"のこと、

母が"がん"だと宣告されたのは、昨年末のことだった。

初めは可能性として、その名前を聴いていたけれど、詳しく検査をしてその可能性が高いと言われた時、正直、頭が追い付かなかった。

それでもなんとか担当医の先生の言葉に冷静さを保って、少しでも悪い可能性を頭の中から消そうとして、自分の感情よりも母の感情を優先させようとして、なんとか最後まで話を聴いて、聴いて、聴いた。

結果、母は年越しを迎えることなく入院することになった。
母はその前日から食事が許されない生活になった。

食べられない事へのストレスや、発熱と腹痛に苦しみながらも、(後で分かったことだが、これは抗生剤の点滴の影響だった)
母は周りの助けもあって、なんとか前を向こうと、自分の置かれた状況を受け入れようとしていた。

けれど、次第に母は元気を失っていった。
原因は、先生や看護師さんの残酷な言葉の数々だった。

先生は飾らない事実を言う。勿論それは患者のことを思ってのことだったのだと思うけれど、母の胸の奥に突き刺さった不安感は、次第に錆び、母の心を蝕んでいった。
看護師さんは母によくしてくれる。
けれど、同室の患者さんにも、母より状況の良い患者さんにも勿論話をする。
母ができないことを、母がやりたくてもできない事への不満を患者さんが口にし、看護師さんが同情的な言葉をかける。それが母の耳に入る。

面会時間は15分、
大部屋にいて、車いす生活の母は、電話があまりかけづらい状況になり、
次第に孤独感も募ってゆく。
僕や、家族にできることはほんのわずかしかなかった。

放射線治療が始まる、その説明の時、
母は空腹感や自分の病気への不安感に押しつぶされそうな状態で、
僕とも話せない状態だった。
治療を受けることに、つまり、放射線治療で長期間苦しむことに、
とても前向きな気持ちになれない状態だった。

そんな時、放射線科の先生は言った。
『楽に死ねると思いますか?』
僕と母の心の中の何かが、割れる音がした。

治療をしなければどうなりますか、母が先生に問いかける。
先生は、素知らぬ顔で、あと数か月、と言う。

僕は先生への怒りに手を震わせて、
それでも、何か言葉をかけたいと思って、
思いつく限りの事を考えて、母に言った。
『僕はお母さんに生きていてほしいと思う』
そんな僕に、母は言った。
『〇〇は、私をどうしてこれ以上苦しめようとするの?』

今僕は、転院先の病院を探して、ネットの海を彷徨っている。
僕は家族の助けもあり、希望と思われるものを見つけることができた。
けれど、それが母にとっての希望かどうかは、分からない。

僕が母に生きていてほしいと思うのは、エゴなのだろうか。
自分勝手な、母の気持ちが分かっていない行動なのだろうか。

…暗い影が、何度も僕の傍に来ては、僕を誘っている。

僕は、母がもし命を失ったら、生きていけるだろうか。
生きる理由は、他に、どこかにあるのだろうか。

ふつふつと湧いた希死願望の沼から僕を引き上げてくれたのは、
いつだって母だった。
自己実現も、将来設計も、何も持たない僕を今に引き留めるのは、
いつだって母だった。

僕は母のために様々なことを考え、行動に移していく。
…それと同時に、僕自身の死に場所も探していく。

相談できる人はいても、結局それをして助かるのは自分だけ、
母は助からない。だから家族以外には話さない。

だからこうして、何かに書いていくことにした。
母と"がん"のこと、そして、僕と母のことを、

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