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2020年読書マラソン『はじめての短歌』穂村弘

2020年読書マラソン2冊目
『はじめての短歌』穂村弘 河出文庫


・すきま時間に読みやすい度:★★★
・短歌初心者へのおすすめ度:★★★


短歌とビジネス文書の言葉は何が違う?すぐれた短歌は「共感」よりももっと強く、人々に「驚異」を与え、心の奥に突き刺さる。住み慣れた世界、語りなれた言葉の束縛を解き、現代人が忘れた自由な表現を取り戻そう。社会に埋もれた<私>を発見し、言葉に表す方法が楽しく身につく、穂村弘の短歌入門。 ◎解説=山田航


自分の詠む短歌の陳腐さや拙さが気になって、創作活動がスランプ気味になっていた最近。偶然書店で見つけ、助けを求めるような気持ちで読みました。1章ずつが短くて、要点がわかりやすくまとめられているのでとても読みやすかったです。

一般的にどんな短歌がよいとされるのか、「具体例」と「改悪例」を並べて示してあるのもわかりやすく、勉強になりました。私のような現代短歌の基礎を知らない初心者の方や、「最近現代短歌って耳にするけどどんなとこが魅力なの?」って方におすすめです!

・・・


◆日常と短歌の世界で、”言葉のチューニングを切り替える”

日常と短歌の世界には、明確な違いがある。本書では以下のような具体例が示されている。


日常(社会)

・会社
・唯一無二ではない(例:課長の不在に備え「課長代理」がいる)
・生きのびる
・読者全員が同じイメージを持つよう、正確に描写することがよしとされる


短歌の世界(世界)

・家庭
・唯一無二(例:夫、妻etc.)
・生きる
・読者が自由にイメージできる余地を残すのがよしとされる


社会と世界の切り替えをうまく表現した例として、以下の短歌が紹介されている。


生徒の名あまた呼びたるいちにちを終りて闇に妻の名を呼ぶ 大松達知


「教師として生徒の名を呼ぶ」社会的な自分と、「闇に妻の名を呼ぶ」家庭での自分の対比が、後者の自分をよりエロティックに見せている。

誰しもが彼のように二面の顔を持って生きている。社会を「生きのびる」自分と、会社や学校の外、あるいは家庭で「生きる」自分。短歌はこの後者に近い世界だという。


◆「生きる」とは?

では、生きるとはどういうことなのか?本書では、「生きる」の魅力を説明する際に「小さな死」という言葉が使われている。

「小さな死」とは、日常の中で、できるだけ避けようとする物事のこと。たとえば、老人ホームに行く日を忘れる、飲み会で先輩から説教される、後輩の愚痴を聞かされる、といったような。おそらく多くの人は、こうしたこと(=小さな死)が起こるのを避けようとする。

こうした、純粋に個人的な体験である死の慄きにこそ「生きる」感覚が宿ると、本書では述べられている。

そして、小さな死が一般に避けられるものであるからこそ、そうしたことを恐れない人、ものともしない人がワイルドでかっこよく見えたりするのだという。


本書では「会社へ向かう電車を、いつもの駅で降りずに海へ行く」といったような例が出ていたが、私の大学時代もまさにそうだった。

大学へ向かう電車を降りずに乗っていれば、湘南の海へ行けた。でも私や多くの友人は、そうしなかった。だってそれは社会的に「生きのびる」こととは反していたから。
だけどそれをやってのけた友人がいた。「いいお天気だったから、講義をさぼって江の島に行っちゃった」と。それは社会的にはNGとされる行為だけれど、私には彼女が自分の意思で「生きて」いるように見えてかっこよかった。

生きるということ、短歌の世界で価値があるとされるのは、おそらくこうした感覚だ。

◆「それ以上の感情」を宿らせる

少年の君が作りし鳥籠のほこりまみれを蔵より出だす 佐藤恵子
少年の君が描きて金賞を得たる絵画を蔵より出だす 改悪例1
少年の君が描きし「だいすきなおかあさんのかお」を蔵より出だす 改悪例2


上の3作品を比べたとき、「金賞」や「おかあさんのかお」はどうしてだめなのか?

それは、「金賞のもつ価値」や「『嬉しさ』という、母として当然の感情」が「それ以上の感情」をせき止めてしまうからだという。ワードから感情がほぼ一意的に結びついてしまうのは、情景や感情を想像する余地をなくしてしまう。


私の場合、自分の短歌が陳腐に思えた大きな原因は、ここにあるように思った。そこで過去の作品を自分なりに改善してみた。

ライターで打ち上げ花火に火をつけた たぶんなんにも怖くなかった (原作)
ライターで煙草に火をつけるみたいに打ち上げ花火に火をつけた夜 (改善後)


少しよくなったように思う(まだまだ改善すべき点があることについてはここでは一旦置いておく)。「怖くなかった」と明言してしまうより、「煙草に火をつけるみたいに」とした方が、その時の姿や感情に想像の余地が残っている。これがおそらく、本書で述べられている「それ以上の感情」を宿らせるということだ。


◆「共感」と「驚異」

共感できる短歌はよい歌と評価されることが多い。だが私の場合、同じように詠もうとしてもただのありふれた短歌になってしまいがちだ。共感される歌と「普通だな」で終わってしまう歌の違いは、どこにあるのだろうか?

本書によると、それは共感の前に「驚異」があるかどうかだという。驚異をくぐった後にはじめて共感が生まれるのだそうだ。


砂浜に二人で埋めた飛行機の折れた翼を忘れないでね 俵万智
砂浜に二人で埋めた桜色の小さな貝を忘れないでね 改悪例


いたく錆びしピストル出でぬ
砂山の
砂を指もて掘りてありしに 石川啄木
いたく朽ちし木片出でぬ
砂山の
砂を指もて掘りてありしに 改悪例


通常、ありえそうなことは改悪例の方だ。砂浜や砂山に、飛行機の折れた翼や錆びたピストルがあるのは「異質」だ。だが短歌全体を見ると、共感を呼ぶ作品になっている。これが、驚異を経た共感とのこと。さらにこれらはただ異質なだけでなく、「折れた」り「錆び」たりしている。こうした状態も、「終わり」や「不能感」を連想させ、驚異の役割を果たしているのだという。


◆社会の枠組みをはずし、よい短歌を詠むためにはどうすればよいのか?

社会で生きのびることを辞めずに、よい短歌を詠むことはどうすればできるのか?それは本書を読んでください。笑

書いてあったことを一部紹介すると、「なんとなく素敵そうなことを詠むと失敗」するとのこと。それは前述したように、日常と短歌の世界では、しばしば物の価値が逆転するからだろう。普段価値のないとされている、短歌の世界で価値のあるものに、どれだけ目を向けられるか。それがよい短歌を詠むコツだろうと、私は理解した。

本書の最後の文で、短歌の世界について端的に述べられている。


”いい短歌はいつも社会の網の目の外にあって、お金では買えないものを与えてくれるんです。”


社会の網の目の外にある。芸術は往々にしてそういうものだと思う。だから私は、社会人になってから短歌に強く魅力を感じるのかもしれない。社会的な立場を手にし、「生きのびる」ことへの強制力を強く感じるようになったからこそ。

そう思うと、このタイミングで短歌に出会えたことは必然だったように思えるし、社会的価値の低い(と自分では思っている)からこそ短歌の世界で価値があるとされるものを、これからもっと見つけていけるんじゃないかと思う。


・・・


スランプ気味でしたが、少し前向きな気持ちになれました。やっぱり俳句も短歌も、感覚的に「いいな」と思うものは、実は論理的によさを説明できるんですね。短歌の世界での感覚を、これから意識してもっと磨いていこうと思います。


2020年読書マラソン、3冊目にバトンタッチです。


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