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MMTを巡る神学論争

米山隆一議員と菊池誠・井上純一らが財政論(MMT)をめぐってX上でバチバチやってらっしゃいました。

要するに、「均衡財政にこだわらずにもっと赤字国債発行しても財政は破綻しないからどんどんやれ」というMMT(現代貨幣理論)派(菊池・井上ら)と、「そんなことすれば円安とインフレと金利上昇が生じて危険である」としてそれに反対する反MMT派の米山議員という構図です。

なんといいますか見てお分かりの通りだいぶ複雑な議論なので、これを短文構造で文脈がぶつぶつ切れるXでやるのが土台無理な話なのですが、相変わらずみんなXで不毛なレスバトルをしてしまうのですよね。


ともかくも、このようにMMTに関しては毎度毎度あちこちで論争になりがちです。

これだけずっと揉めてると、財政均衡(プライマリーバランス)にこだわった方がいいのか、それにこだわらずどんどん赤字国債を発行していいのか。どちらが正しいのでしょうか。皆さんも気になりますよね。

江草も別に専門家というわけでもないただの素人なので全貌をちゃんと分かってるかどうかは自信はありませんが、身も蓋もないことを言うと、こういったMMTをめぐる対立はぶっちゃけ神学論争でしかなく、正しいと思った方が正しくなるものだという認識です。


まず、「お金」というのはそもそも人工物であり架空の概念です。別に畑から諭吉のお札が生えてくるわけでも、数字が刻まれた預金通帳が天から降ってくるわけでもないのですから、人工物であるのは明らかでしょう。あくまでただ人が作り出したものに過ぎません。

そして、これまた誰もが分かるように、紙幣や預金通帳の数字はそれ自体では何の使い道もありません。まあ一応は(社会が崩壊した世紀末的な場面で)「こんな紙切れ紙幣があっても鼻紙ぐらいにしかならん」という定番のセリフもあるので、紙切れとしての価値ぐらいはあるかもしれませんが、基本的にはお金それ自体には使用価値はありません。ただただ、みんなが「お金に価値がある」と思っているからこそ「お金は価値が出る」。だからこそ交換に用いることができる。そういう代物です。

すなわちお金とは社会のみんな(いや世界のみんな)で抱いている共同幻想に過ぎません。

幻想なので、その概念やルールは人間の好きに変えることができます。正確に言うと、人間社会において共有できるだけの説得力を持つストーリー性は求められますが、重力だのエネルギーだのといった自然界の法則にしばられることはありません。そうした自然界の束縛から自由であるという意味で、人間社会が好きに設定できるわけです。

して、MMT論争は「政府の財源は税金で確保しているのか(主流派)」あるいは「国債で確保しているのか(MMT派)」というお金のルール設定(公理)を巡る議論です。つまり「共同幻想の設定」をどちらとみなすかで論争をしているわけですが、それは自然界の法則と関係のないこと、つまりその実証ができない議論なので「どちらが正しいか」という意味では定まりません。あくまで私たち人間社会が「どちらを正しいとするか」なのです。

これはまさに神学論争なんですよね。「神はどういう存在か」を巡って人類は有史以来ずっと揉め続けていますが、それはその幻想的な性質上、「神」を現実世界で立証することが不可能なので、それぞれが信じたいように信じてしまうがゆえに、決着がつかないのです。

誤解しないでいただきたいのは、これは「共同幻想を抱くのは良くない」とか「意味がない」とかそういう話ではないことです。むしろ逆に「共同幻想は人間社会にとって重要だし役に立つ」だからこそ「その扱いが極めて難しい」という話をしたいのです。

「共同幻想」は自然法則から自由だと言う話をしましたが、だからといって変更するのが容易というわけではありません。それまで「全くの現実であるかのように信じていたもの」を人は簡単に覆すことはできません。敬虔な他者の信仰を容易に変えることができないことを考えれば自明なことでしょう。

むしろそういった「人の信仰(共同幻想)」が簡単に揺るがないからこそ、それを基盤として安定した社会(人間同士のコラボレーション)を運営することができています。「お金」なしに回る社会を私たちは容易に想像できませんし、「お金」の価値が簡単に揺らぐと思っていたら皆さん安心できないでしょう。そのため「共同幻想」は私たちにとって有用かつ不可欠なものです。

ところが、「共同幻想の設定」もずっと同じままだと人間社会の中において齟齬がでる場合があります。「こういう話のはずだけど矛盾が出てきてないか」とか「この設定をこう変えた方がもっと社会がうまく回るのでは」とか。そうすると「これはこう考えるべきでは?」と新たな思想の分派が出てくるのです。

これはあくまで自然界との矛盾というよりは、人間社会内部での矛盾であることに注意ください。人間社会があまりに複雑であるがために、あれやこれやと運用上でその場凌ぎの工夫をし続けていくと、従来の「共同幻想」では社会の説明がつかない部分が出てきたり、都合が悪い部分が出てきます。そういう時に「共同幻想」を改革する機運が高まるのです。

聖書の解釈をめぐって分裂したカトリックとプロテスタントもまさにそういうところだったのかと思います。「贖宥状で罪を許すシステムなんて聖書に書いてないじゃないか」とルターが指摘して「共同幻想」にヒビが入ってしまったというわけです。

そして、改革がまさにこうして「聖書」などの根拠に基づいて現行の「共同幻想」を批判するという構図で行われる点が、「共同幻想」の変更の難しさとそのプロセスの宿命的必要条件を示唆しています。

つまり、「共同幻想」があまりに強力であまりに重要であるがゆえに、「共同幻想」を変更する時は「共同幻想」を止めずに壊さずに変更しないといけないのです。言うなれば、心臓の手術をする時に、絶対に体外の人工心肺を用いず、心臓を止めずに行なわなければならないようなものです。不可能ではないまでも、これは当然高度で難度の高いオペレーションになりますし、変更プロセスのややこしさを生み出します。

「共同幻想」は一時的に止めてみるということはできません。人の信仰心を変えることが難しいことを思えば明らかですが、まず止めること自体が困難です。その上、一度止めて戻るということ自体もその人が「幻想」を「幻想」として既に理解してしまっているようなものであり、それはもはや信仰を失ったのと等しくなります。

ゆえに、「共同幻想」を変更する時は、現行の「共同幻想」に基づいた「根拠」を持ち出して、「我々こそが正当で正統な信者である」と主張せざるを得なくなります。プロテスタントがこれまでの「共同幻想」においても正統な根拠であった「聖書」を改革主張の基盤としたように、MMT派も「お金」という「共同幻想」を変更する時に、これまでの経済学上の概念や財政スキームに則った上で自分たちの主張の正当性(正統性)を示す必要が出てきます。

それゆえ、冒頭の議論のように「日銀が現行のスキーム上で国債をいくらでも買えるかどうか」などと、現行のルール上でMMTのビジョンを実現できるかどうかで揉めることになります。米山議員が盛んに「論理矛盾です」とか「実務に反しています」という文言で繰り返しMMTに反駁するのも、「現行の共同幻想」と相いれないものとしてMMTを扱わないと、MMTに「共同幻想」としての正統性の根拠を渡してしまうからと言えます。

言わばどちらが「聖書」により基づいているかの論争です。しかしながら「聖書」自体もある種の「共同幻想」であり、解釈するのもあくまで人間たち自身でありますから、神学論争的に決着がつかないことになりがちです。このことは三大宗教でもなんだかんだ宗派が多種多様に分かれてることを見れば明らかでしょう。

本質的なことを言えば、本稿で指摘しているように「お金」や「制度」は人間が勝手に作り出した人工物に過ぎず、理論上は米山議員が言うような「現実だ」とか「実務だ」とかを無視して変えてしまってもいいはずなのですが、いきなりそれをすると「現行の共同幻想」に基づいて回っていた社会が大混乱に陥る危険性があるために、それができないのですよね。それこそ「お金」に対する幻想が途切れてハイパーインフレになりうるわけです。

つまり、MMT派がMMTを実際に社会で安定的に運営しようとするならば、多くの人々に同様の「共同幻想」を抱かせる必要があります。

MMTという「更新された共同幻想」を多くの人と共有できていなければ、「財政赤字がかさんでるからお金の価値がなくなりインフレになるはず」と「従来の共同幻想」を抱いている人々が思います。ところで「お金に価値がある」とみなが思うからこそ「お金に価値が出る」のでしたね。それゆえ、多くの人がMMTを信じてない段階でMMTに基づいた運営をするとほんとにハイパーインフレになるでしょう。

しかし逆にMMTを多くの人が信じていればどうか。「財政赤字がかさんでも問題ない」「インフレもせいぜい2%程度のインフレターゲットまでに抑えられる」と多くの人が信じてるから、財政赤字が膨らんでも「お金の価値」に対してパニックになりません。それゆえ、本当に「お金の価値」が安定し、ハイパーインフレにならないということになります(マイルドなインフレを目指す思想なのでインフレにはなりうる)。

なんかキツネにつままれたような話ですけれど、もともとが人工の「共同幻想」なので人々がどう信じるかで決まるのです。だから「予言の自己成就」的なところがあるんですね。

したがって、身も蓋もないことを言うと、この論争で賛否が分かれるのは、つまるところ互いの信念であったり、「お金の価値を保ちたい(インフレは嫌)」と思っているか「下げたい(インフレさせたい)」と思っているかのポジショントーク的な違いでしかないとも言えます。

しかしながら、これは別に互いに愚かなことをしてるとか馬鹿げたことをしているわけではなく、これまで人類が精緻に組み上げてきた理論的構築物をあくまで崩さずにより良く強固なものに改築しよう(あるいは保護しよう)という営みですから、大変に高度で繊細で重要な知的作業でもあるわけです。

ただ、その姿をふとメタ視点で眺めると、本稿のように「お金」という「共同幻想」をめぐる神学論争と表現できてしまうというだけです。どちらがより正統な「経済学理論」という「聖書の解釈」を抱いている存在であるかバトルし続けているのです。(こういう身も蓋もないことを言うのは基本的に懐疑主義的スタンスを取る江草の悪い癖ですが)


そして、最後に強調しておきたいのはこの「共同幻想」をめぐる論争の意味です。

「共同幻想」は人間社会において非常に重要な役割を果たしているので、それが変われば実際に人間社会が変わる大きなきっかけにはなりえます。その点でこの論争は非常に重要な意味を持ちます。

しかし、一方であくまでこれが「幻想」レイヤーでの論争でしかないことにも注意が必要です。「幻想」は現実社会に直接的に何かをするわけではありません。直接的に影響をもたらすのは「幻想」に導かれた人間によってでしかありません。だからそれこそ人間をめぐる現実世界での状況が変わらなければ、やっぱり苦境は変わりません。

一部のMMT派は「お金さえ刷れば何となる」と言わんばかりの態度を示されていますが、それは「現実世界でどうするか」の視点を欠いてしまっています。「お金」という概念的リソースがいくら増えても、現実世界での資源や人材がいなければどうにもならないことはあるのです。極論、なぜかお金の価値を極限まで人々が信じ続けて希望通りインフレをコントロールできたとしても、食糧がなければ人は死ぬのです(幻想を信じ続けて集団自殺したカルトがあることを思えばそんな極限まで人々が「お金」を信じ抜くことも必ずしもありえないわけではないでしょう)。

ゆえに、「共同幻想」を巡る論争は確かに意義があるものですが、それだけで何もかもよくなるなんてことはなく、現実世界における問題も私たちはちゃんと見続ける必要があります。(現実世界はもうどうでもいいとまで達観してれば別ですが)

だから、あくまで経済学は現実を良くするための議論であることを忘れずに論争をがんばっていきたいですね。

江草の発信を応援してくださる方、よろしければサポートをお願いします。なんなら江草以外の人に対してでもいいです。今後の社会は直接的な見返り抜きに個々の活動を支援するパトロン型投資が重要になる時代になると思っています。皆で活動をサポートし合う文化を築いていきましょう。