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非民選エリートの政治責任

はむっち先生が尾身茂氏の回顧録に激おこになってらっしゃいました。

尾身氏は言わずと知れたコロナ対策の専門家会議で会長を務められた方。その尾身氏がパンデミック下での専門家としての活動を回顧録としてまとめられた書籍が出てたんだそう。

そんな尾身氏の回顧録に、外科医noterのはむっち先生が激昂されてるのが先ほどの記事になります。(なお、はむっち先生は医学のみならず経済や人文系の知見にも明るく、博覧強記で英語もバリバリという、明らかにタダ者ではなさすぎる方です)

江草は、恥ずかしながら不勉強でコロナ対策全般の是非を判断するに足る見識に乏しいのと、尾身氏の回顧録も読んでないので、コロナ対策や書籍の評価、ましてや尾身氏の人物評をここでするつもりはありません。

ただ、今回の記事ではむっち先生が尾身氏を批判する文脈の中で、とても普遍的で重要なイシューが含まれてるなと感じたので、勝手ながらその点について書いてみようと思いました。

つまり、いくらか、はむっち先生の記事や尾身氏周りの話を踏まえながら論を進めるものの、ここから書くのはあくまでコロナ対策の是非や書籍の批評のような具体的で限定的なトピックに対する論考ではなく、コロナ問題からさえ離れた、より抽象的な一般論ということになります。そこのところご留意ください。




はむっち先生の記事にこめられた重要なイシュー

では、今回のはむっち先生の記事で指摘されていた重要なイシューとは何か。

それは「非民選エリートの政治責任」です。

尾身氏は選挙によって選ばれたわけではないですが、専門家として政府に意見が出せる立場でありました。それは高度な知識を有し過去に立派な業績を残している専門家、すなわちエリートだからこそです。つまり、非民選のエリートが政治に対して大きな発言権を有していたわけです。

ただ一方で、はむっち先生によると回顧録の中で尾身氏は徹底して自身の政治責任を否定しているようなんですね。「あくまで自分たちは専門家として提言をしただけで最終的に政治的責任を負う判断を行うのは政治家たちであるのだ」というスタンスで通していると。

ここが、はむっち先生が特に怒ってらっしゃったところです。大きな発言権を有して実際に行使もしておきながら自分たちはあくまで提言をしていただけだ、という態度は極めて無責任ではないかと。

はむっち先生はコロナ対策の内容そのものにも批判を向けられていましたが、それ以上にこの尾身氏の態度を強く繰り返し批判されていました。

これこそが、今回注目したい「非民選エリートの政治責任」というイシューなんですね。

というのも、非民選エリートと民主主義(あるいはポピュリズム)との対立構図が今や世界中で大きな社会問題になっているからです。


政治家に判断を委ねてると言ってるから民主的?

一見すると、選挙によって選ばれた政治家たちに最終判断を委ねてると言うなら、むしろ民主主義を尊重している態度のようにも見えるかもしれません。

ただ、それは実態がどうかによって判断が分かれます。

政治家に最終判断を委ねますと言いながら、実際は政治家の判断に強く圧力をかけ事実上の陰の権力者となっているならば、言行不一致の欺瞞があると言わざるを得ないでしょう。

民選政治家を傀儡として操ってる非民選エリートが「最終責任は政治家にあります」と述べていたら、それは責任逃れの無責任な態度と批判されるのもむべなるかなです。

つまり、はむっち先生は、尾身氏らの専門家会議は当時十分に大きな政治的発言権を持っていたし、かつ、自分たち自身もあたかも権力を有している者のような言動をしており、にもかかわらず「自分たちに責任はない」かのような態度をしていることに怒ってらっしゃるわけです。(という江草の解釈です)

もちろん、非民選エリートが政治力を有しておらず、本当に参考意見程度の立場でしかないなら、「責任は政治家にあります」と言うのも妥当なところです。

だから、この責任問題を考える上では、非民選エリートが結局のところどれぐらいの政治力を持っているかがキモになってくるわけです。


非民選エリートは大きな政治力を持っている

では、果たして非民選エリートが政治に対して大きな力を有するようになっているのかどうか。

これが「有するようになってきている」という指摘が次々となされており、批判の声が高まってるというのが現状なわけです。


たとえばマイケル・サンデルの『実力も運のうち』。

いっぽう、テクノクラート的な統治手法においては、多くの公共問題が、一般市民には理解できない技術的な専門知識の問題として扱われた。これが民主的議論の幅を狭め、公的言説の言葉を空洞化させ、無力感を増大させた。

マイケル・サンデル『実力も運のうち』

ここで、急に出て来た単語の「テクノクラート」とは、(自力での解説は手抜きさせていただいて)Wikipediaから引用すると、

テクノクラートまたは技術官僚(ぎじゅつかんりょう)とは、科学技術や経済運営、社会政策などの高度な技術的専門知識によって、政策立案に参画し、その実施に関与する官僚、管理者のこと。技術官僚によって、経済・行政が支配される社会体制や思想は、技術家主義(ぎじゅつかしゅぎ)、またはテクノクラシーと呼ぶ。

テクノクラート -Wikipedia

というもので、医療系の専門も含んだ概念です。

パンデミック時の尾身氏の立場は狭義の官僚ではないものの、公的に政治への提言を認められていたことからして、まさにテクノクラート的な政治参画に近いものがあると言えるでしょう。

官僚や専門家会議は政治家と違って選挙で選ばれてない非民選のエリートたちです。そうした非民選的エリートがその高度な専門知識を駆使して政治を動かしているテクノクラシーは、一般市民を蚊帳の外に置くものであるとして、民主主義を阻害しているとサンデルは指摘しているわけです。

つまり、実際に非民選エリートが政治的な実効支配力を有しており、それが民主主義の脅威となっているとして批判されてるんですね。


あるいは、マイケル・リンド『新しい階級闘争』は、もっと露骨に非民選エリートによる支配が民主主義を脅かしているという内容の書籍です。

本書の主張を要約すると、今日のヨーロッパと北米の民主主義諸国には、一方に大都市で働く高学歴の管理者(経営者)や専門技術者からなる上流階級が存在し、もう一方には、昔からその国で働いてきた人びとと新しくやってきた移民とに分裂した大多数の労働者階級が存在し、両者のあいだで階級の二極化が進んでいる、ということである。かつて労働者階級の市民の利益を守り代弁していた旧来の機関(労働組合、宗教団体、地域政党など)は弱体化するか壊滅したため、政治・経済・文化という三つの領域において、管理者(経営者)エリートと彼らが支配する非民主的機関(官僚、司法、企業、メディア、大学、非営利組織など)への権力の集中が進んだ。

マイケル・リンド『新しい階級闘争』

このようにリンドもサンデルと同じく非民選のエリートが権力を有するようになってることを指摘しています。

たとえば、リンドは非民選エリート支配の象徴として司法判断の重用を挙げています。

一方、アメリカでもヨーロッパでも、有権者の影響から遮断された司法機関が、従来立法府が持っていた権限の多くをむしり取っている。 1 9 4 5年以降の公民権革命に介入したことでその威信を高めた米連邦最高裁判所は、自らを選挙を経ない超法規的議会( superlegislature)として位置づけ、人工妊娠中絶や異人種間結婚の禁止から選挙資金規制にいたるまで、次々と出てくる政策事案を憲法上の不可侵権の領域に属するものとし、民主的な選挙で選ばれた議会や市民の発議によるのではなく、選挙で選ばれていない終身職の連邦判事が決定しなければならないという判断を示した 。

マイケル・リンド『新しい階級闘争』

民選の政治家の判断ではなく、非民選の裁判官の判断が政治的に重視される体制(ジュリストクラシーとも呼ばれるそう)にリンドは民主主義の弱体化を見ているわけですね。

一応、三権分立の一角を担う司法に対しても国民からの統制の方法として、最高裁判所の判事を辞めさせられることができる国民審査という仕組みは設けられているものの、これが実際にはほぼ有効性をもって機能していないことは皆さんもご存知の通りでしょう(今まで誰も辞めさせられたことはないし、ほとんど注目もされてない)。

したがって、裁判官も事実上、大衆からの束縛を逃れた非民選エリートであるわけです。

そして、そうした非民選エリートが権力を握っていることをリンドも民主主義の脅威として批判しています。


非民選エリートの政治責任逃れ

このように二人のマイケルの書籍を見てもお分かりの通り、昨今、非民選エリートが政治的に大きな力を持っていることに対する批判や警戒心が高まっているところなんですね。

こうした問題が指摘されてるところで、非民選エリートが「最終判断の責任はあくまで政治家なので」という態度を取ってしまうのは、やはり(特に疎外感を抱いている大衆にとっては)責任逃れにしか映りづらく、軽率かつ危ういものであるでしょう。

実際に力を持ち、力を意識的に行使しているのであれば、そこに責任が発生するのは当然であるからです。そして、まさに非民選エリートとしての尾身氏にこうした無責任さがあるとして、はむっち先生は憤ってらっしゃるのだと解釈できるのです(違ってたらすみません)。

江草がはむっち先生の記事に「非民選エリートの政治責任」という現代社会の普遍的なイシューが見て取れると言ったのは、こうしたわけになります。

(なお、二人のマイケルはともに民選の政治家たちさえもほとんどが高学歴エリートでしかなく大衆の代表性が弱くなってきている問題についても指摘しています。だからこれは結局は非民選に限らない問題とも言えます)


民主主義世界の中心で政治的中立を叫ぶな

ここからは江草の考えですが、そもそも民主主義社会においては誰もが政治的責任を負っているはずです。

ただ、とくに医学を含む科学系の専門家は「自分は科学的事実を述べているだけで政治的には中立である」という態度をとる方が少なくありません。

しかし、こと民主主義社会において、そのように「自分は中立の無色透明な存在である」かのように語るのは、一見すると謙虚な態度のように見えて、その実、民主主義社会の一員としての政治的責任を放棄していると言わざるを得ません。それは「自分は政治的には何も言わないししません」「民主主義に参画しません」と言っているのと同義だからです。

そして、しかもその上で実際には十分に強い政治的な力を行使しているのだとすれば、確かにそれは反民主主義的と言うべき態度でありましょう。

もちろん、反民主主義的な思想を持つことも個人の自由とも考えられますから、それはそれだけで糾弾されるべきところではないかもしれません。

ただ、反民主主義的思想を持ちながら、そこで形だけ「民選の政治家の判断を尊重していますよ」とあたかも民主主義を大事にしているかのようなていをとるのは、欺瞞的で小狡い態度であると言えるでしょう。

一見謙虚なようで、事実上の力を有する者が言うならば、それはむしろ不誠実で傲慢な態度であるのです。

この動きを、責任逃れのために専門家自身が意識的にしているのだとすればもはや止めることは難しいかもしれませんが、もしも本人がこの構図に気づいておらず無意識的になされてるのだとしたら、速やかに自省されることを勧めたいです。知らず知らずにけっこう危険なことをやっちゃってますよと。


とはいえ専門知軽視のポピュリズムも問題

もっとも、注意していただきたいのは、だからといって専門家や専門知が不要とか、何でもかんでも大衆の判断を重視しろというわけではないことです。

高度な知識に裏打ちされた専門家の意見はやっぱり重要ですし、そして重要だからこそ、このイシューが非常に解決が難しいものとなってると言えます。


たとえば、先ほどのマイケル・リンドも非民選エリートの実効支配に反発して生じている大衆迎合のポピュリズム的な動きを批判的にとらえています。

ポピュリズム政党に政治を任せたらうまくいくというわけではなく、それはまた別の意味での悲劇を生むだけであると。

  ポピュリズムは、病んだ政体(body politic)の症状であって、治療法ではない。形式的には民主的な寡頭制では、ほとんどの場合、縁故主義エリートが親族や身内の利益のために諸事を運営する。まれにデマゴーグが当選しても、体制を改革する可能性は低く、それどころかエスタブリッシュメント側に寝返ったり、腐敗の温床となる私的な政治マシンをつくり上げ、政府の力を利用して自分の支持者に便宜が図られるように仕向けたりもするだろう。
 民主主義を支持する人びとは、このような政治秩序を見て、ただ呆然とするしかない。民主主義は精神の抜け殻となって形骸を留めるだけとなる。インサイダーとアウトサイダーのいずれが勝者になろうとも、大多数は敗者となる。社会が、利己的な寡頭支配者と天才的なポピュリストとが交互に入れ替わる悪循環に陥ると、経済成長や法の支配のいっさいが犠牲になるおそれが強まる。

マイケル・リンド『新しい階級闘争』



実際、水島治郎『ポピュリズムとは何か』でも、大衆が政治的に疎外感を覚えた時に、ポピュリズム人気が高まるという傾向の指摘がなされています。

エリートに対する人々の違和感の広がり、すなわちエリートと大衆の「断絶」こそが、ポピュリズム政党の出現とその躍進を可能とする。ポピュリズム政党は、既成政治を既得権にまみれた一部の人々の占有物として描き、これに「特権」と無縁の市民を対置し、その声を代表する存在として自らを提示するからである。

水島治郎『ポピュリズムとは何か』


つまり、エリートによる非民主的支配体制が強くなればなるほど、リンドが言う通り、民主主義が抵抗する「症状」としてのポピュリズムが出てくるわけですね。この書籍で紹介されてる「ポピュリズムは、デモクラシーの後を影のようについてくる」という言葉は、けだし名言だなと感じてます。


しかし、あくまでポピュリズムは「症状」であって、必ずしも現状の社会の矛盾に対する有効な「治療法」とは言えません。

そんな「ポピュリズム症状」を受けて、専門知擁護側から反知性主義的なポピュリズム運動に対する懸念がいくつも表明されています。


たとえば、トム・ニコルズの『専門知は、もういらないのか』はまさにそうした反知性主義へ警鐘を鳴らす書籍ですし、



また、ちょうどこないだ、『検証 ナチスは「良いこと」もしたのか?』の著者らが、専門知と民主主義の相性の悪さについて鼎談している記事も出ていました。

鼎談の中で、民主主義と相性が悪いというジレンマを認めつつも、専門知を軽視する社会の風潮に対して明確に懸念を示されています。この点で、専門知側の立場と言っていいでしょう。


擁護されてる方々が仰る通り、専門知や専門家が重要であるからこそ、政治的にも重用されてるというところがあるんですね。それで、非民選エリートとしての専門家たちは自然と政治的に強い立場となってくる。

しかし、それゆえに自分達の意見が聞かれてないと疎外感を抱いた大衆がポピュリズムに走り、そこに専門知への脅威を感じた専門家側の人たちがより防衛的になり大衆の意見を聞かず自分達専門家だけで決めてしまいたくなる。

でもそれはますます政治的権力を専門家が囲い込むことになり、反民主主義的であるとしてポピュリズムがより支持を増すことにつながる。

こうした悪循環があるわけです。

あいにく、この悪循環に対する良い解決策は現状知られていません。というより、解決策が分からなくってみんなが悩んでるからこそ江草も「イシュー」と言ってるわけです。

非常に厄介な問題なんです。


専門家は民主主義社会への責任がある

ただ、少なくとも、こうした「非民選エリートと民主主義の対立」の問題構造を知らずに、無邪気に「最終責任は政治家にある」とか「自分達は政治的に中立だ」などという態度を当の専門家たちが取ってしまうのは、余計に火に油を注ぐようなものであり得策ではない、というのが江草の意見です。それこそが反感を買ってる態度であることを知るべきです。

非民選エリートとしての専門家は民選でないから政治責任がないなんてことはなく、むしろ逆に、好むと好まざるとにかかわらず民主主義システムの枠外から手を突っ込む非民選の立場だからこそ大きな責任があると言うべきでしょう。


もっと言うと、非民選エリートがその発言力を行使する時、往々にして一番影響を受けるのは、それこそ現場で労働したり市井で生活したりする大衆である点も忘れてはいけません。

政治的に力があるだけでなく、経済的にも社会的地位にも恵まれてるエリートは、自身が専門家やエリートとして振る舞えるのも元はと言えば代わりに現場労働や家事労働をやってくれる、そうした多くの人々の支えがあってこそです。支えてくれてる人たち、そして社会に対して大きな責任があるのは言うまでもないでしょう。

専門家のその立ち振る舞いは常に人々から厳しく見られていると、今一度確認されたいところです。


以上、一応は医師なので専門知エリート側の地位に立ってしまっていると言わざるを得ない江草ですが、この問題に胸を痛めている一人として、あえて民主主義側寄りの視点での問題整理をさせていただきました。

専門家の民主主義社会への政治責任の一環として、日々こうした問題については考えていきたいですね。

江草の発信を応援してくださる方、よろしければサポートをお願いします。なんなら江草以外の人に対してでもいいです。今後の社会は直接的な見返り抜きに個々の活動を支援するパトロン型投資が重要になる時代になると思っています。皆で活動をサポートし合う文化を築いていきましょう。