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「複素業家」の観点から見る「ブルシット・ジョブ」

そうそう、昨日の「複素業家」の記事で言い忘れてたことが。

「役に立つ」とか「役に立たない」とかの実軸を虚軸方向に脱した「虚業」だけに、そこには仕事へのiがあるのですよ。

という、シャレたセリフをオチに持ってこようと実は思ってたのですが、完全に忘れてました。あいやー。


……てのは、半分冗談半分本気なのですが、ちゃんともうちっと真面目な内容で言い忘れてたことがありまして。

それは「虚業」と「ブルシット・ジョブ」の関係です。


故デイヴィッド・グレーバーが提唱した「ブルシット・ジョブ」は日本では「クソどうでもいい仕事」などと訳されます。本noteでもたびたびとりあげてるワードであることからお分かりの通り、江草は世の働き方の問題を語る上で非常に重要な概念のひとつと考えています。

この「ブルシット・ジョブ」の存在を考えると、複素業家の記事に対して、
「江草は役に立つとは言えない虚業もした方が良いと主張してるけれど、それならブルシット・ジョブも肯定するということかい?」
という疑問が生じるんではないかと思いまして。

ここはめっちゃ面白いところなので、ぜひとも補足説明しておきたいところです。


結論から先に言うと、答えは「NO」となります。
理由は「虚業」と「ブルシット・ジョブ」は似て非なるもので、この両者の違いこそが決定的に大事な部分だからです。

実のところ、「ブルシット・ジョブ」はけっこう世の中で誤解されていまして。単純に「何の意味もない無駄な仕事」とみなされがちなんです。たとえば、誰か他人の仕事の無駄さ加減を指摘して「このようなブルシット・ジョブはなくすべきだ」という文脈で使われちゃったりするんですね。

ところが、グレーバーが提示している正確な定義を踏まえると、このような解釈や用法は適切ではないのです。

グレーバーは「ブルシット・ジョブ」をこのように定義しています。

ブルシット・ジョブとは、被雇用者本人でさえ、その存在を正当化しがたいほど、完璧に無意味で、不必要で、有害でもある有償の雇用の形態である。とはいえ、その雇用条件の一環として、本人は、そうではないと取り繕わなければならないように感じている。

『ブルシット・ジョブ クソどうでもいい仕事の理論』

「完璧に無意味で、不必要で、有害でもある」の部分だけ見ると、確かにシンプルに「意味のない無駄な仕事」と解釈したくなります。世の中の「ブルシット・ジョブ」が語られる場面ではここがクローズアップされることが多い。

ところが、残りの部分に見逃せない重要な要素があるのです。
それは「本人でさえ、その存在を正当化しがたい」と「本人は、そうではないと取り繕わなければならないように感じている」の部分。
すなわち「本人の主観」です。「本人がどう思っているか」は「ブルシット・ジョブ」において欠かせない必要条件となっているのです。


まず、「本人がどう思っているか」が大事なのですから、他人がいきなり他人の仕事に対して「お前の仕事は無駄だからブルシット・ジョブだ」と決めつけることはできません。本人は無駄と思ってない可能性があるからです。

そして、これこそが江草が勧めている「虚業」との違いとして大事なポイントなのですが、「ブルシット・ジョブ」では「本人は、そうではないと取り繕わなければならないように感じている」とあります。
つまり、自分の仕事は「完璧に無意味で、不必要で、有害でもある仕事」ではないと取り繕わなければいけないという強迫観念に本人がさいなまれているのが「ブルシット・ジョブ」です。
これは江草の言う「虚業」との決定的な違いです。

自分の仕事が「完璧に無意味で、不必要で、有害でもある仕事」ではないと取り繕わなければいけないということは、どういう意味になるでしょう。
それは、自分の仕事が「役に立つ」「役に立たない」という「実軸」上において正の値を取ること、すなわち自分の仕事の有用性を示さねばならないと思っているということに他なりません。これは依然として有用性の「実軸」に沿うことにとらわれていることが明らかです。

ところが、江草が前回提示した「虚業」というのはこの「実軸に沿うこと」からの逸脱を果たした仕事を指しています。
「役に立つ」とか「役に立たない」とかよくわからないけど(最低限有害ではなさそうだし)やってみたいからやる。そんな仕事です。
ここでは、本人自身もその仕事に対して肯定的でありますし、他人に対して有用であると取り繕う必要性も感じていません。
これが「虚業」と「ブルシット・ジョブ」の大きな違いなのです。

したがって、江草が「虚業」を含んだ「複素業」を推していたとしても、それは「ブルシット・ジョブ」を肯定していることにはなりません。むしろ、「虚業」という有用性の軸から逸脱した仕事を明確に肯定することは、社会全体に蔓延する「有用性の呪い」に囚われてしまっている「ブルシット・ジョブ」に対するアンチテーゼと言えるでしょう。

「あなたは働いて社会に貢献していますか」「あなたの仕事は社会にどんな価値をもたらしますか」と延々と問い詰められるような空気の社会だからこそ、多くの人が「ブルシット・ジョブ」に陥るのです。
「一見無駄なこともやってみてもいいじゃん」と堂々と言える世の中ならば、「無駄な仕事」は残っても「ブルシット・ジョブ」は消え去るのです。

もっとも、だからといって本気で「無駄な仕事」ばかりになっては世の中が破綻するからこそ、「実業」の成分も残しておこうとする。それが「実業」と「虚業」を併用する「複素業」の発想なわけです。
別に「虚業」一辺倒でいいと言ってるわけでないけれど、今の世の中で支配的な「実業」一辺倒の空気もけっこうな問題だろうということで、両方の成分を兼ね備えた「複素業」がよかろうと。

さほどおかしな主張ではないでしょう?


しかし、これでもまだ「役に立つかどうかもわからない虚業とやらをやる理由が一体どこにあるのか」と疑問が残る方は多いでしょう。
私たちには「有用かどうか」で仕事を評価するクセが根深くこびりついていますから、にわかに受け入れられないのは仕方ありません。

だから、念押しでもう一度言いますよ。

「役に立つ」とか「役に立たない」とかの実軸を虚軸方向に脱した「虚業」だけに、そこには仕事へのiがあるのですよ。
「なんだかわからないけどワクワクするからその仕事をやりたい」という主観的なiこそが、「虚業」の駆動力です。


……お後がよろしいようで。

江草の発信を応援してくださる方、よろしければサポートをお願いします。なんなら江草以外の人に対してでもいいです。今後の社会は直接的な見返り抜きに個々の活動を支援するパトロン型投資が重要になる時代になると思っています。皆で活動をサポートし合う文化を築いていきましょう。