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社会的「当直シフト」をどう分担するか

医師なら誰もがご存知の通り、当直シフトやオンコール当番を決めるのは揉めがちです。

病気や怪我は24時間365日関係なく生じますから、切れ目なく誰かが夜間あるいは休日の対応をしないといけません。

ほとんどの人にとって夜間や休日の勤務はしんどいので、できれば避けたいのが人情です。でも「毎日誰かが必ずやらなければいけない」。だから現場では各々「しんどいな」という気持ちを抑えながら分担してまわしています。しかし、だからこそ、メンバー間の不公平にも敏感で、ちょっとでも割り当ての多寡に差があるとトラブルの元になるわけですね。

この意味で、人の「夜間や休日の時間」というのはエッセンシャルかつ希少なリソースであるわけです。「医師たちの夜間や休日の時間」がもし枯渇したとしたら、病院で誰も診る人がいないという危機的状態が発生するわけですから。


医師だけでなくこうした「当直シフト」的なものが必要とされる職種は他にも多々あります。同じく医療系の看護師はもちろん、警察や消防、自衛隊もそうでしょう。あとは、鉄道やガス、電気の保守もありますね。IT関係でもインフラ系のエンジニアは夜間待機があると聞きます。

このように、24時間365日切れ目を作ってはいけない仕事はいっぱいあります。夜間だろうと休日だろうと止まってしまっては困るものというのが社会には無数にあり、それらに私たちの生活は支えられているわけです。


でも、もっと言うと、これは仕事にさえ限らないんですね。

代表的なのは育児です。赤ちゃんや子どもというのは夜中一人でほっぽり出してるわけにはいきません。保育園や幼稚園などに預けている時以外は、必ず保護者がついている必要があります。保育園や幼稚園は基本的に日中を担当する施設ですから、どうしても夜間は保護者がつくことになります。すなわち、育児というのは毎日当直です(休日は毎日日直とも言えます)。自宅での介護も同様でしょう。


さて、そうすると、社会的視点で見たときに、このような24時間365日維持が必要な仕事および育児介護を切れ目なく保つために、社会の中の人々の間で「当直シフト」を分担して埋めなくてはならないということになります。つまり、夜間や休日に拘束される人がある程度の人数必要になるということです。

しかし、先ほども述べたように、ほとんどの人は夜間や休日に拘束されることを嬉しくは思いません。やるとすればその分多額の報酬をくれと、対価を求める主張も出てきます(実際、医師の当直代やオンコール代は安すぎるという声は昔からずっとあります)。対価が十分でなければ「俺はやらねーぞ」と「当直シフト」を忌避する動きが自然と起こるわけです。


で、こうした「当直シフト」忌避現象の代表格が実は育児なんだと思うんですよね。

まず、育児には報酬が出ません。事実上の「当直」を日々担っているにもかかわらず無報酬です。なんなら支出も多大にかかることから、マイナス報酬であるとさえ言えるでしょう(あくまで金銭的にはですが)。

そして、「育児をしない」という選択は実に容易です。言ってしまえばハナから人々が結婚や出産をしなければいいのですから。
たとえば、これが介護だとそうもいきません。被介護者は既にこの世に生きて生活をされています。まだ生まれてない子どもを対象とする育児と違って、介護では「当直シフト」需要が既定、確定しているのです。

だから、「当直シフト」を忌避したいという意識が社会的に高まった時に、魔が差しやすいのは「育児を減らす」という方向性であるわけです。

つまり、こうした「当直シフト」需要そのものを減らしたいという社会的意識が、ほぼ唯一操作可能な「当直シフト」需要である育児に向いた。これが現在の圧倒的な少子化につながっている潜在的背景なのではないかと江草は見ているわけです。

(ちなみに世の中では「介護が必要な高齢者は安楽死させよ」という過激な意見は一部に見られるものの、その方向での「当直シフト」需要の削減はさすがに主流ではないので、少子化においてのみ、この社会的欲望が発出されてると言えます)


まあ、分かるんですよ。

夜に美味しいものを食べに行ったり、お酒を飲みに行ったり、友人や恋人と夜通し遊んだり。あるいは、ぐっすり寝たり、勉強したり、ゲーム三昧したり。

誰だって「当直シフト」を免れてやりたいことは山ほどありますよね。

もしくは、どうせ夜中に苦労するのであれば、報酬(残業代)やキャリアアップにつながる仕事の方が良い、というのもある種合理的な思考と言えます。

しかしだからと言って、誰もが「当直シフト」を忌避したいがあまりに、あろうことか必要な分の「当直シフト」まで社会的に削ってしまった、すなわち「育児を後回しにし続けた」というのは、私たちはやりすぎてしまったと言えるんじゃないでしょうか。

個々の動きとしてはいかに合理的であっても、全体としてはまずいことになる。いわゆる「合成の誤謬」がここに発生しているのです。


繰り返しますが、気持ちは分かります。

だけれども、目の前の欲に負けてポテチを食べすぎたら後々に大変なことになって後悔するのと同じで、「当直シフト」を避けたいという欲に負けて「当直シフト」の需要そのものを「誰かがやってくれるはず」と皆がこぞってどこかに置き捨ててしまったのは後々に大変なことになる危険な動きだったのではないでしょうか。

江草自身も社会の一員として無実の身ではない自覚があるからこそ、今さらながらにこの問題のヤバさに震えています。


で、最初にも述べたように、だからこそ「当直シフト」を埋めるための「人々の夜間や休日の時間」というのは希少なリソースなわけです。個人にとってはもちろん、社会全体にとってもです。

ゆえに、「人々の夜間や休日の時間」を浪費させるような活動は社会悪になるわけです。本人たち自ら余暇として夜のアクティブティを楽しんでるのはまだしも、人々に不必要に夜間に仕事をさせることは反社会的な活動と言えます。

すなわち、医療・警察・消防等々の明らかに24時間365日欠かせない業種でもないのにかかわらず、夜間や休日にまで人を働かせることで利潤を得る活動は「人々の夜間や休日の時間」という社会の希少なリソースを「共有地の悲劇」よろしく勝手に食い尽くす行為ということで、実に反社会的なのです。

もちろん、たとえば会社が納期をギリギリに攻めた結果として「皆で徹夜で働かないと間に合わない」ということは現実にあると思います。でも、それはその仕事が元から原理的に24時間必要な業務であったということを意味しません。夜間にも労働者たちが働かないといけないような仕事計画をしたその企業の勝手な論理に過ぎず、社会リソースを自社利益のために貪ってることの免責にはならないのです。


意識的にか無意識的にかは分かりませんが、こうした「共有地の悲劇」の社会的反動として起きているキャンペーンが皆様もご存知の「働き方改革」なんですね。

社会の希少リソースである「人々の夜間や休日の時間」を守ろう、人を残業させて利潤を得ようなどという不届きな反社会的行為を抑制しようというのが、「働き方改革」に秘められた目的です。

だから要するに、過剰な残業、すなわち過労をさせる組織は反社会的勢力です。これテストに出ますからね。


もっとも、「働き方改革」が登場したからと言って、社会的「当直シフト」をどうやって人々の間で割り振るかという問題が根本的に解決したわけではありません。

やっぱり、誰だってできれば「当直シフト」は避けたい。だからこっそり、自分だけは少なめにしよう、楽をしようという動きをしがちです。しかしそうすると、その不公平感から結局は誰もが「当直シフト」を放棄することになり、社会に必要な「当直シフト」が機能しない危機的状況に陥るという悪循環です。

そういうわけで、社会的な「当直シフト」の分担は実に厄介ですが、それでもやらざるを得ない。

これが今後の私たちの社会における大きな課題となるだろうと江草は感じています。

江草の発信を応援してくださる方、よろしければサポートをお願いします。なんなら江草以外の人に対してでもいいです。今後の社会は直接的な見返り抜きに個々の活動を支援するパトロン型投資が重要になる時代になると思っています。皆で活動をサポートし合う文化を築いていきましょう。