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利己的な偽善子、利他的な遺伝子

※約9000字の長文です


利己利他ジレンマを中和する二つのロジック

人はいつの世も利己的に生きるべきか利他的に生きるべきかで悩み続けています。

利己的に生きて周りをないがしろにするのもおかしい気がするし、かといって利他的に生きて自分の好きにできないのも嫌な気がする。そんなジレンマの中で皆もがいています。

このジレンマに悩み続けた人類は利己と利他の対立を中和しようとして、2つの有名なロジックを打ち立てました。

一つは「市場原理」。もう一つは「情けは人の為ならず」です。

前者「市場原理」は、お金を稼いだり使ったりを利己的に振る舞うことで市場原理が働き、結果として経済全体が最適化されるのだという考え方です。つまり自己利益追求という利己的な行動が公共の利益になる利他活動でもあるとしています。

一方の後者「情けは人の為ならず」は、逆に他人に親切にすることが巡り巡って自分の利益として返ってくるぞという考え方です。つまり他人の利益の追求という利他的な行動が自分の利益になる利己活動でもあるとしているわけです。

考え方の順序は異なりますが、どちらも利己と利他の対立を緩和し、それらが一体なものであるとしている点では同じ試みと言えます。

市場原理が優勢な世の中

どちらの考え方も私たちの社会には息づいていますが、昨今の社会情勢としてどちらが優勢となっているかと言えば、やはり前者「市場原理」の方でしょう。

市場原理に任せるのが公共益になるというのはアダム・スミス以来の伝統的な経済思想です。この考え方が提示された当時は衝撃だったそうですが、今や当たり前のように受け入れられています。

すなわち、自分が利己的に振る舞うことが結果として利他的な意義を持つのだから積極的に利己的に行動しよう、というのが私たちの社会の常識となっているわけです。

この常識が表れている典型例が、たくさんお金を稼いで使うことで「自分が経済を回してるんだ」と自負する人たちです。「この店にお金を落としてあげよう」とか「経済効果が高い」などというコメントも同様です。人がいっぱい稼いでいっぱい使うことは、つまり市場経済が動いているということであるから、公共の利益になる素晴らしいことだという感覚です。

皆さんのご実感とも合うはずと思うのですが、これらのコメントは本当によく聞かれます。市場原理を理論的背景とした「利己的行動がひいては利他になるのだ」という思想が広く普及してることの証左と言えるでしょう。

「稼いでる人はエラい」という考え方に

これだけ市場原理が良いこととして広く社会で認められているために、必然的に生まれてきたのが「稼いでる人はエラい」という考え方です。

もっと詳しく言うと「たくさん稼いでいる人や多くのお金を持っている人はそれだけ大きく社会に貢献していると言えるのだからエラいのだ」というものになります。

これは、市場経済を回すにあたって大きく二つに分けられる活動「稼ぐ」と「使う」のうちの「稼ぐ」に注目しています。たくさん稼いでいることは、公共益につながる市場経済を回す一翼を担っているわけだから当然エラいというわけです。

こう解説的に聞くと違和感があるかもしれませんが、これは実に広く見られる感覚です。

たとえば、増税や社会保険料、所得制限の議論がなされている時、「私がいっぱい頑張って働いて稼いだお金を取られるなんてひどい」とか「たいして社会に貢献してない低所得者や無職を優遇するのは理不尽だ」というコメントは山のように寄せられます。

これらのコメントは言外に「たくさんお金を稼いでいることは社会貢献した証明であり、それを実現した人間はエラいのだ」という前提があります。これぞまさに「稼いでる人はエラい」という考え方です。

歴史を振り返っても、選挙権が一定額を稼いだ者にだけ与えられてた時代もありましたから「稼いでる人はエラい」という考え方はさほど珍しいものではないのです。

付加価値を生んでるからエラい

この考え方を後押ししているのが「付加価値」という概念です。

本当はもう少し複雑な概念なのですが、ここでは簡潔に言うと、売上から原価を引いた分の利益は、その企業あるいは個人が新たに付け加えた価値(付加価値)を表しているというものです。

つまり、稼いだ分(利益が上がった分)は、その商品あるいはサービスにそれだけの付加価値があったからこそだよねという発想です。

最重要の経済指標とされているGDPもこの付加価値の総和として表されるものであり、付加価値という概念が経済の中でいかに重要な地位を占めているかが分かります。

経済を回すのが善という発想は、すなわちGDPが大きい方が善となります。GDPが大きい方が善ならば、そのGDP拡大に貢献したと言える「付加価値が大きい人物」つまり「稼ぎが多い人」は社会貢献という利他的な立派な行為を多くやった善なる人物と言え、讃えられるべきということになります。

よって「稼いでる人は社会に価値を付け加えたのだからエラい」と。こうなるわけです。

稼ぎが人の価値であるという神話

一見すると正しそうにも思える理路なのですが、この「稼いでる人は付加価値を生んでるからエラい」という考え方は多くの問題をはらんでいます。

トートロジーとなっている

まず一つにはこの命題がトートロジーであることです。そもそも付加価値の計算方法は利益が上がっているかどうかに注目するものです。すなわち付加価値自体が稼いでる額として定義されています。

ならば、「稼いでる人は付加価値を生んでるからエラい」という命題は実のところ「稼いでる人は稼いでるからエラい」と言ってるだけとなります。これは根拠を述べてるようで新たな根拠は何も付与してないわけです。

「付加価値」というそれっぽい概念で一部を置換すると、何か根拠が付与されたかのように錯覚してしまいがちなので注意が必要です。

稼いでる額が正確に社会貢献価値を表しているかどうかは疑わしい

そして、もう一つには、稼いでる額が正確に社会貢献価値を表しているかどうかは疑わしいという問題があります。

経済学で有名なパラドックスとして「水とダイヤモンド」の話があります。私たちの生存に不可欠な水よりも、私たちの生存には不要なダイヤモンドの方が市場では遥かに高い価格で取引されています。それはなぜかという問題です。

『マンキュー 入門経済学』の解説を見てみましょう。

水はとても安いのに、なぜダイヤモンドはとても高いのだろうか。水は生存に必要なものであるのに、ダイヤモンドはそうではない。それでも、なぜか、人々はコップ1杯の水よりもダイヤモンドにはるかに高い金額を支払おうとするのである。その理由は、人々が喜んで支払おうとする金額は、追加的な財1単位が提供する限界的な便益に依存するからである。その限界的な便益は、人々がすでにどれだけその財を持っているかにも依存する。水は必需品だが、水はふんだんにあるので、追加的な1杯分の限界的な便益は小さい。対照的に、ダイヤモンドは必需品ではないが、とても希少な財なので、ダイヤモンドの追加1個の限界的な便益はかなり高いと、人々は考えるのである。

『マンキュー 入門経済学』第3版

色々書かれていますが、つまり、それが必要か不要かという次元よりも、それが希少かどうかという次元の方が価格には大きな影響を与えるということを説明されています。希少性が価格を左右していると。

もちろん、これは必要か不要かどうかという次元が無意味であるということではありません。実際、必需品である水が枯渇して希少になればダイヤモンドなんか差し置いて誰もが水を大金を積んででも求めるようになるでしょう。だから、必要か不要かという次元もやっぱり影響はしています。

しかし、水が枯渇して価格が上がる時、これはあくまで水自体の効果が変わったわけではなく、市場の状態が変わっただけです。水自体が果たしている役割には変わりがないのに価格が変わるのです。

すなわち、このことは私たちの市場経済において社会貢献の内容が変わらないのに稼ぎが変わることはあり得るということを示しています。しかも、水のように私たちに欠かせない貢献(生命維持)をする財であってもタダのように扱われうるという点で「稼いでる額=社会貢献」という単純な考え方には危うさがあるわけです。


他にも『給料はあなたの価値なのか』というそのものズバリのテーマを扱った書籍で、「稼ぎがその人の貢献価値を反映している」という常識がいかに事実に反する「神話」に過ぎないかが述べられています。

内容を紹介すると長くなるのでここでは詳述しませんが(興味ある方は書籍を読まれるか下記江草の書評をご参照ください)、賃金はあくまで「権力」「慣性」「模倣」「公平性」という政治的社会的メカニズムによって決まっており、貢献度や生産性あるいは仕事の重要性に対して払われているものではないということを指摘している書籍です。

そもそも誰の貢献でその利益が上がったのかどうか区別することは不可能であるという重要な指摘もなされています。

この書籍も「稼いでる額が社会貢献価値を表している」と考えることに疑義が提示されている一例と言えます。

お金は現代の贖宥状

このように、その人の稼ぎや資産がその人の社会貢献度を表しているという考え方は、疑義が多々ある「神話」に過ぎません。もちろん、全くの荒唐無稽とは言わないまでも、それに基づいて社会を見たり、個人の行動を決めてしまうのは素朴すぎる危険な感覚であると言えます。

しかし、「稼いでる人がエラい」という感覚は先ほども述べたように私たちの社会の中で広く深く根を張っています。いわば、お金を積むことを善行とみなす「神話」を宗教的に信仰しているようなものです。

かつての十字軍時代のヨーロッパでは神から救いを受けるために市井の人々がこぞって従軍に馳せ参じたそうです。現実に聖なる活動に参画することが救済と祝福の必要条件であったと信じられていたからです。

それが次第に、従軍しなくても十字軍へ資金供出するだけでもOKとなったんだそうなんですね。つまり聖戦にお金を出せばそれも善行だから救われるよ、というわけです。

さらに時代が進むと、十字軍という現実のプロジェクトと関係なく、教会から贖宥状を買うだけでも赦されるようになりました。稼いだお金をただ贖宥状に費やせば救われるというわけです。払ったお金は多分何か善いことに使われるはずだからと。

さらにさらに、その後、贖宥状に疑問を呈した宗教改革が起こり、カルヴァン派に象徴されるプロテスタンティズムが登場。仕事は神から与えられた天職(Calling)だから仕事に邁進すれば救われる(という予定の証明になる)という勤労信仰が普及することになります。これで十字軍や教会のような聖なるもの(分かりやすい善行)に直接関わることが不要になり、お金を支払う義務も問われなくなったと言えます。使ったり払ったりするよりも、働いてるか稼いでいるか、すなわち社会に価値を生産してるかの方に注目しているわけです。

ここまででも随分と簡素化、抽象化してきている印象ですが、さらに時代が飛んで、私たちは今や新たなステップに到達したと言えます。それは「お金を稼いだ者が祝福される」というものです。

もはや現実に直接的な善行をしてるかどうかや具体的な仕事内容も問われず、そしてお金を供出する必要もなく、贖宥状のような善的シンボルを買うことも不要。「ただ稼いでいればエラい」となってしまったのです。

さらに言えば、今就いてる仕事を天職と考えるというよりも、よりよい待遇の仕事を目指して転職をするのが現代の私たちです。

稼いでさえいれば仕事の細かい内容は何も語らずとも「詳細は知らないけど稼いでいるということは彼は何か社会に付加価値を生んだのだろうから」と周りも好意的に解釈してくれます。(そして、稼いだお金を好きに使うのは市場原理的に経済を回す行為だから、それも全面的に肯定されます)

言ってみれば、お金そのものが贖宥状のような聖なる救済や祝福の象徴として認められるようになったのが今という時代なのです。

お金という「利己的な偽善子」

これだけお金が善いものとしてみなされるようになると、当然誰もがそれを欲することになります。

多くを稼ぐことは社会的名誉になるだけでなく、自分は社会に価値ある貢献をしていると自尊心も高められますし、そしてもちろん実際に稼いだお金を使って好きな商品やサービスを買うことができるという実益もあります。利己心も利他心も満たされる、つまり人類が長年悩まされてきたジレンマが解消されるとあっては、それが大人気になるのは必然であると言えましょう。

だから、年収がいくらか、所有資産がいくらか、今後昇給が見込めるキャリアパスはどうか、仕事の生産性を高めるにはどうしたらいいか、利回りがいい投資商品は何か、老後の備えに必要な資産はどれほどか、などなど、いかにお金を増やすかに人々が頭も身体も時間も注ぎ込むようになっています。つまり、最近の人類はこぞってお金を増やすことに全力を尽くしているわけです。

この光景を冷静になって見てみると、もはや人がお金を動かしているのか、お金が人を動かしているのか主従関係がわからなくなってきています。

ここで思い起こされるのはユヴァル・ノア・ハラリ『サピエンス全史』で広く知られるようになった「小麦は人類を家畜化した」という言説です。一般には人類が小麦を育てている主人のようにみなされていますが、むしろ逆に小麦が人類に自分達の生存と繁栄を世話させているともみることができるという指摘です。私たちの社会が小麦に依存しているからこそ、小麦を育て増やすことをやめられなくなっている。そんな恐るべき主従の逆転が起きているわけです。

あるいはリチャード・ドーキンス『利己的な遺伝子』での「人間は遺伝子の乗り物」という言説も当てはまるでしょう。「遺伝子は人間の設計図である
」という考え方ではなく、遺伝子自身が自己を複製し増殖するために「人間という乗り物」を操っている運転手であるという考え方です。これも人間が従属する立場に置かれてるという意味で主従逆転が起きています。

して、もはやお金についても同様に見ることができるのではないでしょうか。お金を増やすことに人々が躍起になり、そして思ったように稼げないことで思い悩んでいながら、それでもなおお金を求めることがやめられない現状は、お金が自己増殖するために人を使ってる状況に他ならないと。

仕事、信用創造、国債発行などなど、人がお金を回したり増やしたりする様々な活動も、人がお金を操ってるのではなく、もはやお金が人を操ってそうさせているのではないでしょうか。

しかし、その背景となっている「稼いでいる者がエラい」という感覚はあくまで神話なのでした。

だから「利己的にお金を稼ぐことがすなわち善行である」という不正確な「神話」を人々に信じさせて、事実上の「偽善」を積ませることでお金が増え続けてる様を見れば、こう言うことができるでしょう。

お金という「利己的な偽善子」が世の中を席巻していると。

少子化に見る「利他的な遺伝子」の没落

こうした「利己的な偽善子お金」の席巻の裏で、ドーキンスの指摘で本家本元であったはずの「利己的な遺伝子」が皮肉なことに劣勢を強いられています。

それを象徴する現象が少子化です。

「利己的な遺伝子」が人を操って自分のコピーを増殖させるというストーリーは、すなわち人々が子どもを産み育てることを前提としています。ところが、今や世界的に空前の少子化が進んでいます。それもお金を蓄えている裕福な先進国であればあるほどそうです。

つまり、「お金」が席巻する一方で同時に「遺伝子」の没落が進んでるわけです。これを「利己的な偽善子」が「利己的な遺伝子」を追い落としたと見ることもできるでしょう。

もっとも、こと、これだけ少子化が進んだ世の中を省みてみれば「利己的な遺伝子」というのが本当に利己的かは疑問があります。

現代社会に普及している個人主義の観点からすれば、どれだけ可愛い我が子でもあくまで自分とは別個の独立した個人です。すなわち、子どもを世話し教え育てることは「己」とは別の他者に貢献する行為に他なりません。

これは果たして「利己的」と言うべきなのでしょうか。

実際、育児を現在進行形で担ってる身からしても、自分のことを我慢して子どもに尽くしているというところは少なからずあるというのが実感です。

だから、家族を一体となった我が身のように考える価値観の時代ならまだしも、個人主義が一般化した現代社会においては、「遺伝子の増殖」すなわち子どもを産み育てることはもはや利己的というよりは利他的な行為の範疇に入って来ていると言うべきではないかと感じます。

さらに言えば、自分の子どもを労働力や老後の介護担当者としてみなしていた、それこそ子どもに対する利己的な目的を隠していなかった時代から、今や、子育て罰とも呼ばれるぐらい出産育児で経済的ハンデを負うことになり、子どもに介護を期待することは道徳的に許されない空気となっている時代になっています。この条件下での子育てをたちまち利己的と言うのは難しいでしょう。

もちろん、人には他者に尽くしたいという貢献欲が存在します。育児で貢献欲が満たされるのだから、それはやはり利己的な行為の範疇であるということもできるでしょう。これは確かにその通りであると思います。

ところが、こうした人々の貢献欲を乗っ取ったのが他ならぬ「利己的な偽善子お金」であったわけです。「お金を稼いでいることはあなたが社会に付加価値をもたらし貢献した証明である」と広く人々に信じさせてしまった。ならば、自分で自分の子どもを産み育てようとするような「利己的な活動」ではなく、しっかり働いてお金を稼いで社会に貢献する「利他的な活動」をしようというインセンティブが生まれます。

つまり、「利己的な偽善子」の神話が、人々が貢献欲を発揮する場を「子育て」から「金稼ぎ(ビジネス)」の方に誘導してしまったのです。それで実際に貢献欲が満たされるし、稼いだお金で好きな物やサービスも楽しめる、一石二鳥であると。それに引きかえ、子育ては遺伝子に操られた「利己的な行為」であり、しかも子育て罰があって金銭的にも不自由になる。

こうなれば、どちらが優勢となるかは明らかです。そして、それ故の現実の少子化であるわけです。

実際には疑義がある「利己的な偽善子」の社会貢献が重きを置かれ、実際には個人としての身入りが乏しくなっている「利他的な遺伝子」の貢献が蔑ろにされている。そんな皮肉な「利他的な遺伝子」の没落が、少子化に現れているわけです。

「情けは人の為ならず」の復権

このように、世の中で隆盛を誇っている「利己的な偽善子お金」ですが、ついに潮目が変わって来ている雰囲気があります。

そのことは先の『給料はあなたの価値なのか』など、現状の拝金主義的な経済文化を否定する書籍が出て来ていることにも現れています。「お金を稼いでいるかどうかがその人の価値だ」という空気に疑問の声があがりつつあるわけです。

そもそも、お金はあくまで抽象的に「社会に貢献しているはずだ」と人々に思わせているだけなので、それだけでは現実に社会に貢献できているという実感が乏しいという最大の弱点があります。それゆえに、お金主導の労働文化では、あまりに社会的意義がなさそうな仕事に悩む「ブルシット・ジョブ」問題や、労働者のバーンアウトの多発が見られるようになり、その矛盾を隠しきれなくなって来ました。

最近では特に若年層で「お金よりも社会に貢献する仕事がしたい」というニーズが高まってると聞きます。これもこれまでの「利己的な偽善子お金」支配に対する反発と見ることができるでしょう。お金のような抽象的な貢献ではなく、実感を伴った社会貢献がしたいと、皆そう思い直し始めているわけです。

企業レベルでも、インパクト投資やESG投資など、社会貢献の重要性が言われるようになってきています。リーマンショックや環境破壊を教訓に、企業が金銭的利益だけを追い求めることを反省する動きが広がっています。金の権化の悪役として描かれがちな資本主義でさえも、「金を稼いでいれば社会貢献しているはずだ」という素朴な神話から脱皮を図ろうとしているのです。

このように「自己利益の追求という利己的行為が公共の益になる(利他でもある)」とする市場原理肯定の基盤が疑われるようになると、自然と復権するのがもう一つの利己利他ジレンマ中和のロジックである「情けは人の為ならず」です。

たとえば、アレックス・エドマンズ『GROW THE PIE』では、企業は利益だけを追い求めるのではなく社会的価値がある活動をするべきで、その方が結果的には企業価値を高めることにつながる(利益が高まる)と多数のエビデンスに基づいて主張しています。

これはすなわち「利他的な行為はその実、自分の利益にもなるのだ」と言っているわけで、まさしく「情けは人の為ならず」ロジックとなっています。


このように見てみると、隆盛を誇った「利己的な偽善子お金」支配の時代もそろそろトレンドが変換しつつあると言えるのではないでしょうか。

つまり、「利己的行為が利他的行為に先立つ市場原理主義」から「利他的行為が利己的行為に先立つ情けは人の為ならず」に社会が大転換をするタイミングに私たちは居合わせているということです。

もちろん、慣性の法則のせいで重くて大きな船が転舵するのには時間がかかるようなもので、巨大な人類社会が明らかな方向転換を果たすのも時間がかかるでしょう。

それでも多分、社会は徐々に方向を変えつつあるのです。そのわずかな軋み、音、風を見逃さないでいたいものです。

人類は、何者にも支配されない自由を愛し、他者に真に貢献したいと欲する、とてつもなく利己的でとてつもなく利他的な存在なのですから、きっと今のままではいられないのです。

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