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4月16日(土) フィリピン滞在90日目

地震、ひどいみたいですね。一回帰ろうかな。実はぼく、熊本出身なんです。実家は新町という熊本城下なのですが、叔母はじめ従兄弟などは益城町に住んでいて、最初の地震の中心地ですね。連絡は取れていて全員無事とのことですが(昨夜の段階では)、彼らの家は壁と屋根が落ちたということなので半壊か、でも屋根落ちたならこれは全壊になるのか。いま親族が誰も住んでいない新町の実家はどうなっているのだろう。

3.11のときもそうだったけれども、ぼく地震のときにはたいがい遠くにいるのですよね。あのときも当事者性なんて言葉をよく耳にしたけれども、いつも当事者にはなれない。ただこの言葉は気持ちを“そわそわもやもや”させる割に、対象を明確化できないからほとんど意味を為していないようにも思えます。僕はいまフィリピンにいて、かつすでに熊本を離れた人間ですが、この地震の当事者です。

いずれにせよ、アジアはどう自然災害と共生していくかを考えていかざるを得ない土地なのだなと改めて思います。だからこそ、アジアの民俗芸能は土地との結びつきを大切にし、そこに必然性をもって生み出されてきたのでしょう。で、なんとも歯がゆいのがこういった災害に対する術を我々はすでに失ってしまったように思えることです。民俗芸能に代わる「祈り」の表象がいまネットに移行しつつあるとするなら、それを使ってみんな「心配」や「懸念」を個々に表明していて、それは連鎖的に他国にいる僕にも現状の把握とともに伝播してくるわけですが、けっきょく「希望」には帰結しないように感じます(もちろん、このブログも同じく)。人間本来の強さを見たいし、示したい。その行為は結局「祈り」でしかなく厳しい現実を前に無力だったとしても、それは本能なのかもしれません。当事者性という言葉に突きつけられる自身の所在なさ、その“そわそわもやもや”を実際に身体で示すことの難しくなった現代の弱さにも思えます。そういう意味で3.11のときのエガちゃんはさらに遠くの土地にいた僕にとっても「希望」でした。

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