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3月13日(日) フィリピン滞在57日目

Film makerであるJohn Torresの家へ遊びにいく。彼と出会った夜もExcitedだったから書かなきゃと思いつつ、書いてない。「こんな〈場〉のつくり方もあるのか、そもそも観客対話を重視したこの場設計は古代ギリシャ演劇を参照しているのか?」とも推察可能な映像上映会が初対面だった(または素材が間に合わず、上映が2時間押して、その間知らない観客同士がビールを飲み合い、喋り続けていただけとも言える)。そして深夜1時過ぎ「相当酔ってるから前向いて運転するね。呂律回ってなくてごめんね」と、酔っ払いが70年代の、まだその仕事が重厚であった時代のトヨタ車で家まで送り届けてくれたこと。うーむ。やっぱりいずれは書こう。

それはさておき、14時にJohnの家に。家は滞在先から20分ほど歩いた住宅街。とても立派なお家だ。やはりある程度の金銭的豊かさがなければ、この国で芸術活動を行うことはお世辞にも苦しい。

一階は広く明るい白を基調としたバルコニーになっていた。Johnはそこで、Chew Tze ChuanというシンガポールのFilm makerとビールを飲んでいた。互いの自己紹介から始まり、喋る喋るChuan。僕も合図地のようにたまに喋るけれども、かなりの勢いで、かつきちんと僕とやりとりをしながら「日本映画だと小津安二郎もいいけれども、僕には頭と心までしか響かないんだ。良い作品は頭と心と股間まで響く。そして見終わって、それらを反芻しながらオナニーするんだ」と語る彼。そんな彼は「ピンクとポルノの境界の映像作品」をつくっているらしい。「なんだそりゃ」と思ったが、見せてもらったら本当にそうだった。どうやってこれは公開するんだろう。アートであるが、ガンガンSexしているこの映像をアートの世界では公開できなくない? かといってピンクのような物語性もないし、ポルノかといえばSexそのものに重きはない。僕からすると「社会に抑圧された〈性〉を用いたコミュニケーションそのもの」を形にしているように見えた。度肝を抜かれると同時に、痛快だった。こんなのがこの世界にはまだある。まだ可能性はある。そう思えた。

たまにJohnも喋る。今度彼が撮る映画のネタとなる映像を見せてもらった。ふーむこれも興味深い。日本のビジュアル系バンド文化を逆輸入し、新たにこのフィリピンの地で、日本人としての面白さを内包したまま花開かせる。下手なアートプロジェクトよりよっぽど見事な国際交流として機能している。そう名付けられていないだけの話だ(この話はまた後日コラムあたりでしたい)。なにか新たなレイアーが拓かれていく。

そう息を飲む僕の傍で、Chuanは丁寧にも交換したばかりの僕のfacebookへ次々とその映像URLを添付してくれる。ふと彼のアイコンが目に入る。「この子どもはだれ?」と聞いたら「俺の子ども」飄々と答える。一瞬「俺の子どもってどういう意味だ?」と思った。「こいつ(というか、きっと年上)あんなガンガンSex映像撮っておきながら子どもいるんか! ということは結婚もしとるんか!」とまたも度肝を抜かれた。そして言葉を失った。どういう生活をこの家族はシンガポールで送っているのか。また別のレイヤーが拓けていく。

Chuanが自分の作品について語るとき、6歳くらいの子どもにみえた。とっておきの遊びを同年代の子どもに紹介するように。彼の作品は社会を「遊び場」と捉え直すような試みだと思った。それはあくまでも「遊び」でなければならない。このSex worldが現実となれば、世界は成り立たない。そういう意味でアートはやはり必要だと思えた。これは政治ではない。そしてただの遊びでもない。この社会を遊びに反映しているのだ。そこには選びようのない世界の提示がある。そこになにを見るのか。

そうした「ピンクとポルノの境界」の映像たち。僕の「頭と心と股間」にもっとも響く映像をごねて、パスワード付きでURLを教えてもらった。改めてじっくり響かせたいのだが、wifi環境を求めてカフェを渡り歩く日々、なかなかそれを見る場を見つけられずにいる。

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