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5月16日(月曜)インドネシア滞在10日目

ジャカルタに行っていました。visaの再延長のため。色々と考えさせられる10日間でした。それはアジアにおける日本とジャカルタに住まう彼らとの歴史的背景、さらにその「揺り戻し」について。やはり思想は繰り返す、形を変えながら。人間はそう簡単に進歩できないということを学びました。

ちょっと散文的にメモしておこうと思います。読んでもつまらないです。もちろん、あなた次第です。

インドネシアでの日々、みんなとても良くしてくれた。「おもてなし」とはこのことを言うのかと思った。渋ハウスみたいなお家で(行ったことないけれど、たぶん)24時間だれかが出入りしていた。みなが男女入り乱れて雑魚寝していた。とても広い家だった。みんなでご飯食べた。黙っていてもご飯が出てきた。みんな英語は堪能ではなかった。でも話そうとしてくれることが嬉しかった。様々な人が出入りしていた。鍵はおおむね開きっぱなしだった。たぶん100人以上紹介された。名前を覚えているのは2人しかいない。そこは演劇のカンパニーの稽古場、でも普段は大きな声を出さないのが心地よかった。みんな昼過ぎまで寝ていた。蚊がとんでもなく多かった。マニラより経済的に豊かに思えた。幸せを感じられた。

Yolaと会えてよかった。彼女はもうすこしお金に執着したほうが良いと思ったけれども、彼女のジャカルタでのコネクションはすごかった。紹介してくるのは、もはやヤクザみたいな人たちというのか、浮世離れした人たちばかりだった。結果、ほとんど財布を開いていない。「これがしたい」と告げれば、次の日には手配してくれていた。いつのまにかタコリサーチの旅を組んでくれていた。でもタコは見つけられなかった。マニラで出会ったときの「新宿のママ」的彼女は、息子の前ではしっかり「母親」だった。彼女にも「生活」があった。

フィリピンと違い、アートに関わる彼らはエリートではなかった。それはYolaも。でもきっと彼女はインドネシアのダンス界を支えていく人になっていくと、人々と接する彼女をみて、間違いないと思った。というか「ダンス」という世界を彼女は客観的に捉えていた。どこかの「世界」で著名になれる人物でもない。でも今後のインドネシアにとって貴重な役割を担うことになるだろう。彼女の「誰かと居られる力」は突出している。決して「甘える」だけでなく。彼女の踊る姿は最後まで見ていない。

結局、かなりいろんな話を彼女とした。「英語でこんなにコミュニケーションって取れるのね」と驚く。他人に基本興味を抱かない自分にとって、英語でしゃべるということは相手を信頼できているかどうかに関わっているのだと実感できた。それだけの問題。ひとつに彼女と戦争の話をした。「日本に統治されていた時代は最低だ。オランダ統治時代以上にね」と。躊躇なく言われて不思議すっきりとした。そんな僕がいた。彼女にはそう見られているという意味で。

フィリピンに戻ってくると涼しかった。そして雨が多くなっていた。なんの理由もなく僕は焦っていた。たぶんジャカルタから帰ってきたのと、日本からふたりの作家がやってきていたから。街をあゆむ歩調が早くなっていることには気づいていた。でもその直し方がわからなかった。ゆっくり歩けばいいものではない。

3日かかった。身体の物質的重さを失う。カバンが重たい。肩掛け式のカバンによって右へ傾く自分が感じられる。「歩く」ときの、歩く以外の行為が戻ってくる。

歩くときはただ「歩いて」いるだけではない。これでどこにも行ける。

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