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「文化メガネ」を外す

はじめに

こんにちは。
大学3年生の福です。
今日は旅に出る前に起こった、少しおかしくて少し真面目なお話を。

旅の朝、コンタクトを着(つ)ける

旅に出る日の朝、ぼくは何気なくコンタクトをつけた。
先週から使い続けた2weekのコンタクトを。

着けてしばらくして、
ふと、新しいコンタクトに変えようと思った。
旅は長い、どうせなら新しいものにしようと。

新しいコンタクトを取り出す。
右目、古いのを外して、新しいのをつけた。
左目、新しいのをつけた。

遠くまで綺麗に見えているか、確認する。
あれ、視界がぼやける。なんでだろう。
左目だ、左がぼやけている。
もしかすると左のコンタクト、入れ損ねたのかな。
つけたつもりで、どこかに落としてしまったのかも。

あたりを探すが、コンタクトは落ちていない。
まぁ、よくあることだ。

悔しいながらも新しいコンタクトをもひとつ取り出した。
今度こそ、落とさないように、慎重に着ける。

着いた。

あれ、でも、、、
視界は霧の中のように、ぼやけていて、、、


おかしな勘違い

あれ、まさか、いやちょっとまてよ。
はじめから自分の行動を振り返る。

右目、古いのを外して、新しいのをつけた。
左目、新しいのをつけた。

あ。
そう、ぼくは左目の古いコンタクトを 外しそびれていたのだ。
コンタクトは落としてなんかない。全てついてたのだ。
古いのと、新しいのと、もひとつ新しいのが。

想像してほしい
コンタクトレンズを三重にもしてつけると
視界は「ぼにゃり」となって。

それを僕は「コンタクトがついていない裸眼の状態」と勘違いをしていたのだ。

左目からコンタクトを3枚外したとき、
自分の目に異物がこれだけも入るのかと驚いたとともに
ぼくは世界を正しく見れちゃいないことに 気づいてしまった。


文化メガネ、というお話

昨年履修していた、
文化人類学入門にてこのような話を教授がしていた。

我々は、それぞれの文化の中で意味づけられた世界に生きている。
我々は、意味の体系を通して物事を認識する。
自社会が形成した視点、媒体を通してしか世界を認識していない、ということだ。
これが文化人類学者ボアズの説いた「文化メガネ」である。

早稲田大学の文化構想学部のホームページを見ると
ボアズの説明が端的になされている。

文化人類学者のフランツ・ボアズは、誰も現実をありのままに捉えることはできないし、また他人と同じように認識することもない、という事実を「文化メガネ」という比喩を用いて説明しました。
つまり、私たちは誰もが自分の生まれ育った文化によって作られた「メガネ」をかけ、それを通して物を見ている。なお悪いことには、そのようなメガネをかけていることにもたいてい気づかない。(略)

早稲田大学文化構想学部HP「Beyound the 'Cultural Glassees'」
早稲田大学文学学術院教授 安藤文人先生の文章を拝借
https://www.waseda.jp/flas/cms/news/2016/07/06/2270/

私たちは自社会の価値観を無意識下で至極当然の思考として受け入れている。
その一種の自明性のカゴの中で生きている。
だがひとたびカゴを飛び出せば、その先には異なる価値観が働いている。
あるいは、我々のカゴの中に、異なる価値観をもつ外部者がやってくるということもある。

文にしてしまえば「当たり前のことじゃないか」と思えるかもしれない。
けれど、この「当たり前じゃないか」という自明性もまた危険である。
自社会の価値基準を身体化させている人間(つまり全ての人間)は
自分が偏見を持っていることに気づかない。
それはまるで僕がコンタクトを着けていることに気づかなかったように。

自明性の罠から抜け出すには、自分が「文化メガネ」をかけていることを認識することである。

白米の上に梅干しが乗っているのを見て「日の丸」を想起する。
赤地に黄色でMと書いてあれば、それがハンバーガー屋の看板だとわかる。

だがもしかしたら、他の社会ではそれは違った物事を指す記号かもしれない。

決して外すことができない「文化メガネ」を、自分はかけているのだと思うこと。
そちらの「文化メガネ」でみたら、この世界がどう映って見えるのか、想像をめぐらすこと。

これがエスノセントリズム(自文化中心主義)を抜け出す、足がかりとなりうる。

「当たり前」のその先に

物理的に 世界を正しく認識していないことに気づいた経験から
僕は「文化メガネ」の話を思い出した。

自分で認識しづらいという点では「文化メガネ」より
「文化コンタクトレンズ」のほうがよりふさわしい比喩かもしれないね。

文化人類学/民俗学の観点で調査の旅に出る直前に起こったことだったので
自分へのいい戒めとなった。
調査に行く村は「自社会」のようでいて「他社会」である。
だから自分の「文化メガネ」で物事を解釈してはならない。
その社会の「文化メガネ」を想起する。

そして何より、
自分がコンタクトをつけていることに気づけなかったように
「文化メガネ」に気づくのは困難で、
だからこそ、気づけていない自分を相対化して、
他社会を理解するようにして、自己の「文化メガネ」を理解していく。

こういう姿勢を忘れないでいようと思う。


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