平成が近代になった

平成が近代になった。
日本文学では、上代・中古(古代)・中世・近世・近代・現代という大まかな分け方がある。私は大学時代、近代文学を専攻していた。日本近代文学の定義ははっきりと決まっていないが、明治〜昭和初期まで、戦前までくらいを「近代」と位置付ける人もいる。私としては、敗戦後の無頼派や三島、第三の新人を「現代文学」と呼ぶにはギャップがありすぎる(時間的にというより、イデオロギッシュに)ため、平成時代からの文学を「現代文学」と感覚的に位置付けている。ここの感覚を人と示し合わせたことはないが、私が知っている研究者たちの口ぶりから見てもなんとなくの共通認識はあり、時代が一年一年進むにつれて現代文学は少しずつ近代文学にスライドしていっていると思う。(今現在太宰の戦後文学を「現代文学」と呼ぶ人は恐らくあまりいないのでは?)そして、日本文学に於ける時代定義は何故重要かと言うと、時代ごとにイデオロギーが大きく異なり、イデオロギーは文学と大きく関わるため、「この時代に書かれたこの作品」ということが文学研究においてはかなり重要だからである。
そして、近代以降の文学は元号が注意事項になっている。一世一元制度が取り入れられ、日本の近代がスタートしたと思うと、明治天皇の後を慕い殉死した乃木希典。それに影響を受けた漱石・鷗外の代表的作品などはこのことを示す代表的事件だ。東大教授の坂本太郎は「元号は独立国の象徴であり、機械的な西暦より遥かに深い意義を持っている」という旨の熱い訴えで戦後日本の一世一元制の続行に影響を与えている。何となく日本人の中には「元号が変わると時代が変わる」という刷り込みがある。上皇が今回の退位の儀の際に身を包まれていた束帯は、古代から脈々とこの文化を受け継いで来たことが象徴されていた。元来中国にて王権服従の大義を持ち始まった元号というシステムが、紀元前115年から現代に至るまで使われて来た必然性を考えたとき、これはそういう所にあるのだろうと思った。

現代文学が少しずつ近代文学にスライドしていっていると先述したが、平成もそうなっていく。令和になって2ヶ月が経とうとしている今、現代だった平成は近代にスライドしていっている。というより、もう近代になった。一つの区切りとしての「平成文化」というのは確かに存在していくのだろうと思う。今回の改元が我々にとって初めてだった点は「時代が変わる日が事前告知されている」という点だった。皆が2019年5月1日に向けて何となくワクワクし、平成を振り返り、天皇や元号について改めて考えさせられ、何か新しいことが起こるような期待感を持ってカウントダウンをし、騒いだ。騒いだ瞬間、昨日までの平成は近代になった。「明治、大正、昭和」に仲間入りをした。こんな新しい時代の新しい迎え方は無かったし、これまで日本に漂ったことのある終末観と似て非なる、日常の区切りだった。これからはこれが当たり前になっていくのかもしれないが、平成→令和は明らかにエポックだった。そしてこれにて、新たな現代文学が誕生するような予感がしている。文学だけではなく、他のアートやエンタメも。

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