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関東大震災

大震災後100年
単なる天災ではなく、歴史の流れを変える決定的な転換点となった災害


関東大震災は、1923年(大正12)9月1日午前11時58分、関東地方南部を襲った大震災です。

2023年9月1日で大震災から100年の節目をむかえました。一方で、この大震災について、私自身、理解に乏しいと思いました。

そこで、今回、関東大震災の被害の規模やその時代の背景、そして、この大震災による影響等について、調べてみることにしました。

〈目次〉
1.被害状況
2.歴史的背景
3.第二次山本内閣の救援復興活動
4.政治的反動と朝鮮人・中国人の虐殺
5.大正デモクラシーの屈折と敗北
6.まとめ

1.被害状況
・震源地は相模湾北部(東経139.3度、北緯35.2度)の地点で、地震の強さは最大震度7、規模はM7.9でした。ちょうど昼食時であったため、地震による家屋の倒壊によって、134か所から出火し、9月3日午後2時に鎮火しました。

・その間、大火災のために気温が上昇、東京では1日夜半には46℃に達し、初震以来5日午前6時までに人体に感じた余震は936回起こり、各地に津波が襲来しました。そのため日本の心臓部である京浜地帯は壊滅的な打撃を受けました。

・被害は東京府を中心に神奈川、千葉、埼玉、茨城、静岡、山梨の1府6県におよびました。東京市役所編『東京震災録 前輯』(1926)によれば、被災者は約340万人(1府6県の人口の29%、うち横浜市は人口の93%、東京市は人口の75%)、死者9万1344人、行方不明1万3275人、重傷1万6514人、軽傷3万5560人、全焼38万1090世帯、全壊8万3819世帯、半壊9万1232世帯、損害額は推定約55億円以上にも及びました。

・1922年度の一般会計予算が約14億7000万円であるのと比較すれば、その損害額がいかに莫大であったかがわかると思います。

2.歴史的背景
・第一次世界大戦後の日本は、国内においては、大正デモクラシー運動の高まりによる民衆運動の組織化と、それに反発する右翼の台頭、原敬首相暗殺と元老山県有朋(やまがたありとも)の死を契機とする天皇制支配体制の動揺、戦後恐慌による打撃などを通じて、国家としての危機が深刻化していました。

・また対外的には、ベルサイユ・ワシントン体制下における英米との対立の発露、朝鮮と中国の反日民族解放運動の激化、シベリア出兵の惨敗などによって国際的に孤立化しつつありました。

・こうした状況のもとに突発した関東大震災は、自然の大災害としてばかりでなく、経済、政治、社会の各方面に決定的な影響を与えました。

3.第二次山本内閣の救援復興活動
・大震災翌日の9月2日に成立した第二次山本権兵衛内閣は、超然内閣(議会の承認なしに組閣される)であり、後藤新平内相、井上準之助蔵相、犬養毅逓相らを擁する人材内閣として登場しました。同日、東京周辺に戒厳令を敷くとともに非常徴発令を発して、救援、復興活動に乗り出しました。

・まず経済面では、7日に暴利取締令と30日間の支払猶予令(モラトリアム)を施行して経済界の混乱をひとまず回避し、11日に米穀輸入税免除令、12日に生活必需品ならびに土木建築用器具機械材料輸入税減免令、22日に臨時物資供給令および同特別会計令などの勅令を公布しました。

・さらに政府は、27日には、震災地を支払地とする手形の再割引を日本銀行が引き受け、その際、日銀が受ける損害のうち1億円を上限に政府がこれを補償するという日銀震災手形割引損失補償令を公布して銀行の救済を行いました。

・しかし日銀の震災手形割引高は、翌1924年3月末までに4億3081万円、被割引銀行は105行に上り、これが通貨膨張の要因となるとともに、のちには震災手形の多くが回収不能となり、1927年(昭和2年)3月の金融恐慌爆発の直接の原因となったといわれています。

・また政府は、被災商工業者への融資などを行っていましたが、これらの資金は震災後公債と英米外債の募集によって調達され、財政圧迫の原因をつくりました。

・一方、復興については、遷都論の広がりによる市民の動揺を防ぐため、9月12日に帝都復興に関する詔書が出され、19日には帝都復興審議会官制、27日には帝都復興院官制がそれぞれ公布され、更に震災復興計画が立案して遂行されました。加えて、12月24日には特別都市計画法が公布され、東京と横浜の都市計画が規定されました。

4.政治的反動と朝鮮人・中国人の虐殺
・山本内閣は9月7日に治安維持令を公布して、人々の心の動揺を抑え、11月15日まで戒厳令を解除せず、東京、神奈川、埼玉、千葉の1府3県の人民の市民的・政治的自由を完全に抑え込みました。

・大震災発生直後の9月1日午後3時以降、東京や横浜などで「社会主義者及び鮮人の放火多し」「不逞鮮人暴動」などのデマが広がりました。デマの出所の一部は警察や軍隊であったといわらています。

・民衆はこれらの悪質なデマに惑わされ、恐怖におびえました。そのまめ、各地で自警団がつくられ、官憲といっしょになって多数の朝鮮人や中国人を虐殺しました。自警団のなかには、警察の指導のもとにつくられたものも多くありました。

・内務省警保局の調べによって犯人が判明している被害死者数は、朝鮮人231名、中国人3名、日本人59名であり、朝鮮罹災同胞慰問班の10月末までの調査では2613名と報告されました。

・しかし実際には約6000名の朝鮮人が虐殺されたと推定されていています。また中国公使館の調査によれば、中国人の行方不明者は約160~170名といわれています。さらに陸軍と警察は、混乱に乗じて社会主義者や先進的労働者の撲滅を企て、3日夜から4日未明(一説には4日夜から5日未明)にかけて平沢計七・川合義虎ら10名の労働者が軍隊に虐殺された亀戸事件、16日には無政府主義者の大杉栄・伊藤野枝夫妻らが甘粕正彦憲兵大尉らに殺害された甘粕事件が引き起こされました。

・しかしこのような白色テロ(為政者や権力者、反革命側によって政治的敵対勢力に対して行われる弾圧や暴力的な直接行動のこと)に対する責任追及と批判の声は全体として弱く、学者・評論家では吉野作造、三宅雪嶺ら、政治家では田淵豊吉、永井柳太郎ら少数にとどまり、労働団体では日本労働総同盟、新聞・雑誌では『東京朝日新聞』『時事新報』『中央公論』『太陽』『改造』などにすぎませんでした。

・しかもその間、軍部と警察は、治安維持と被災者救援活動を通じて民衆の間に威信を回復し、加えて内村鑑三や美濃部達吉らさえ、軍隊や戒厳令の施行に謝意を表するという状況が支配的になりました。

5.大正デモクラシーの屈折と敗北
・11月10日には「国民精神作興ニ関スル詔書」が発布され、天皇は「浮華放縦ノ習」と「軽佻詭激ノ風」を戒め、「質実剛健」の国民精神を作興せよと国民に呼びかけ、思想善導政策の先鞭をつけました。

・さらに12月27日の虎の門事件は、民衆の間に「主義者」に対する恐怖心と嫌悪感を植え付け、しかもこの年には、中国の旅順大連回収運動の高揚と、アメリカの排日移民法制定の動きに触発され、世論が排外主義の方向へ向かい始めました。

・こうして1918年(大正7年)の米騒動以来高揚を続けてきた大正デモクラシー運動は、関東大震災を契機に屈折と敗北の過程に入っていきました。

・その後1924年1~5月の第二次憲政擁護運動を経て、6月に第一次加藤高明内閣が成立し、翌1925年3月の議会で普通選挙法と治安維持法が抱き合わせで可決され、ここに政党政治が確立しました。

・しかし政治の民主化を求めてやまなかった大正デモクラシー運動は、普通選挙法の制定によって目標の一部を達成しましたが、治安維持法の成立によって政治的自由の実現を阻止されて敗北となりました。やがて政党政治も満州事変と五・一五事件によって没落させられるに至りました。

・このような後の流れをみると、関東大震災は単なる天災ではなく、歴史の流れを変える決定的な転換点となった災害であったといえるでしょう。

6.まとめ
①関東大震災は被害規模は想像を絶する壊滅的なものでした。損害額は推定約55億円以上(当時の年度の一般会計予算の4倍前後)にも及びました。

②第一次世界大戦後、国内は大正デモクラシーの民衆運動とそれに反対する右翼の争い、原敬総理暗殺などクーデターによる天皇制支配体制の動揺、戦後恐慌による打撃などを通じて、国家としての危機が深刻化していました。
また、体外的にはベルサイユ・ワシントン体制下における英米と対立の発露、朝鮮と中国の反日民族解放運動の激化、シベリア出兵の惨敗などによって国際的に孤立化しつつありました。

③こうした状況のもとに突発した関東大震災は、自然の大災害としてばかりでなく、経済、政治、社会の各方面に決定的な影響を与えました。

④大震災発生後、直ちに救援や復興のため、戒厳令や非常挑発令が発動されるとともに、経済面では暴利取締令や支払猶予令等、多くの緊急措置が施行されました。しかし日銀を中心とした金融政策は、1927年(昭和2)3月の金融恐慌爆発の直接の原因となったといわれています。

⑤大震災発生後、悪質なデマを発端として、民衆の自警団によって、在日の多数に渡る中国人や朝鮮人のが虐殺されました。同時に、社会主義者や先進的労働者が撲滅されました。

⑥こうしたなかで財界人の間では、大震災は、近年ぜいたくと放縦(思うままに振る舞うこと)に慣れ、危険思想に染まりつつある国民に対する天罰であるという「天譴論(てんけんろん)」が唱えられていました。

⑦1918年(大正7年)の米騒動以来高揚を続けてきた大正デモクラシー運動は、関東大震災を契機に屈折と敗北の過程に入っていきました。

⑧政治の民主化を求めてやまなかった大正デモクラシー運動は、普通選挙法の制定によって目標の一部を達成しましたが、治安維持法の成立によって政治的自由の実現を阻止されて敗北となりました。やがて政党政治も満州事変と五・一五事件によって没落させられるに至りました。



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