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江戸時代の金融システムについて


今回は、江戸時代の金融システムについて、解説いたします。


江戸時代の日本は、金貨銀貨銭貨の三種類の貨幣を用いる三貨制度でした。

金貨は主に江戸で使われ、大坂など西日本では銀貨を使っていました。また、庶民の間では銭貨が流通しており、金貨や銀貨を手にすることはめったになかったと言われています。 



〈目次〉
1.江戸時代のお金は変動相場制
2.お米は第四の通貨 
3.証券化の始まり
4.米切手(先物取引の先駆け)
5.米取引の仕組みは現代に引き継がれている



1.江戸時代のお金は変動相場制

当時、三貨間の交換レートは幕府によって公定相場(18世紀の公定相場:金1両=銀60匁(もんめ)=銭4,000文(もん))で定められていましたが、実際には時価で交換されていました。

つまり、需要と供給の関係でお金の価値が変わる変動相場制だったのです。

そのため、大坂には銀を金に交換する、現在の銀行のような役割を果たす両替商が多く存在していました。

変動相場制なので、例えば江戸に行く人が増えると、江戸で使うために金貨を必要とする人が増えて、金の値段が高くなります。

逆に、江戸の人口が増えて消費が増えると大坂からモノを多く仕入れる必要があり、江戸は大坂に対して、「銀高金安」を生じたりしました。

現在の外国為替市場と同じようなことが江戸時代の日本国内でも起こっていたと言えます。 


2.お米は第四の通貨
そしてもう一つ、通貨と同じように使われていたのが米でした。

諸藩の領主は税金として年貢米を徴収していました。その米は自分達の食糧とするほか、武士への給料も米で支払われました。

それ以外は蔵などに保管して、貨幣が必要になると市場で売ってお金に換えました。

米で税金や給料を支払っていたのですから、米も通貨としての役割を持っていたと言えるでしょう。

年貢米


3.証券化の始まり
諸藩が販売する米は大坂に集中して集められ、それらを取引する場所として「堂島米市場」と呼ばれる米の取引所が誕生しました。

堂島米市場では、各藩が発行した米の交換チケットである米切手を売買する「正米取引」と、米商人たちの間で米の売買価格を収穫前にあらかじめ決める取引「帳合米取引」が行われていました。

「正米取引」とは、今ある米を今決めた値段で取引する、いわゆる現物取引です。

米の仲買人が諸藩から米を購入すると、現物の米の代わりに米切手を受け取りました。米切手は、1枚あたり米10石(重さにして約1.5t=約25俵の米俵)との交換を約束したものでした。

米切手を利用することで、取引の都度、大量の米をやり取りする必要もなく、また、米を保管するための倉庫も必要ありませんでした。

米切手を蔵屋敷(諸藩が年貢米などを市場のある都市に保管しておくための倉庫兼屋敷)に持ち込むことで現物の米に交換することも出来ました。

すなわち大坂米市場では米を現代の証券のようにして取引をしていたと言えます。

4.米切手(先物取引の先駆け)
「帳合米取引」は、将来とれる米の値段をあらかじめ決めて取引をすることです。現在の先物取引にあたります。

米の価格というのは天候や災害などの要因で常に変動します。米商人たちはその価格を安定させたいと考えました。

そこで、収穫前からあらかじめ米の売買価格を決めておく帳合米取引が生まれました。

事前に米の価格を決めておけば、米商人たちは天候要因などによる損失を低減できますし、町の米屋や庶民が米を手に入れる際にも価格の変動を抑える事ができたのです。

さらに、米の値上がりを予想して事前に買い付けておいたり、値下がりを見越して売り付けておいたりなど、帳合米取引を利用して利益を狙う者も現れました。

このように、米は江戸時代の市場経済で貨幣と同様、重要な役割を果たしており、「先物取引」の先駆けと言えるのではないでしょう。 

米切手


5.米取引の仕組みは現代に引き継がれている
帳合米取引は日本のデリバティブ取引の起源と言われています。

江戸時代に大坂で誕生した米市場は、後に「堂島米会所」として江戸幕府に公式に認可され、東京証券取引所の前身である東京株式取引所や大阪証券取引所の前身である大阪株式取引所の設立に大きな影響を与えました。 

現在も日経平均株価などの指数を対象とした日経225先物やTOPIX先物といった商品が大阪証券取引所に上場しています。


引用元 : 「man@bow」webページ

以上

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