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<マーク・チャンギージー>を読んで〜反記憶主義の芽生え〜



チャンギージーは前著「ヒトの目、驚異の進化」によって僕らの目ヤニだらけの眼球をくり抜き、洗浄し、また僕らの眼窩に目玉をはめこんだ。すると僕らの視界は一変した!

すると今度は新しく文庫化された「<脳と文明>の暗号」によって、僕らの耳くそだらけの耳を引っこ抜き、洗浄する。そして僕らの身体の挙動は、音楽の生みの親であり、自然の景色は文字の故郷だと知ることになる。

これらの書物の内容を掻い摘むつもりはない、是非手に取って読んでもらいたい。大切なのは読み終わった後である、僕はこの本を読み終わった時、この本の内容がはじまるのは、これからなんだと実感していた。

これらチャンギージーの仕事を、まさにこれら文字によって伝達される時、僕らの目や脳には何が起こっているのか。

まずぼくが驚いたのは脳には補正機能が付いていて、現実を直接認知するようにはできていないということだ。錯視は時間補正機能の障害によって生まれるし、両目で捉えた映像が一つに見えるのもこの脳の補正機能による、つまりこれら脳による補正機能についての発見は、まるで現実を認知するためにはある種のフィクションが必要なのだと言ったラカンの言葉を裏付ける研究ではないか。

さらに、まだまだチャンギージーは止まらない、彼は止まることなくさまざまな問題提議を迸らせながら突っ走っていく、ガキのような執念で自らの問いを暴き立てていく。

世界中の文字には共通点があること、それらは自然界を捉える視覚の頻度と同じパターンを持つということ、つまり、文字の起源はいつも景色や自然の織りなす線描だということ。

世界の話し言葉にも同様の共通点があるということ、それらは自然界に起こる物質同士が、<ぶつかる><ひきづる><鳴る>という音素に分けることができるが、その三つに対応する形で舌や唇を使って人は<破裂音><摩擦音><共鳴音>を奏で言語を構成しているのだという。

さらには音楽はヒトの身体所作と直結しているという、歩行、所作それに対応する音楽の構成、音の高低は身体の移動方向を、音量は空間的近さや遠さを表しているのだという様々な証明。

この2冊だけでどれほどの問いが投げかけられ、しっかりと捕獲することができているのか。ゆったりと確実に一つ一つの問いを追い詰めていく様は優雅にすら思える。そして本から目をはなし、しばらく余韻に浸っていると、たくさんの想いや、問い、そして連想が僕を襲う。

自然そのものが文字を示すという話は、どこかで聞いたことがあるぞ、と思い、思案すると思い出した。「ぼくには数字が風景に見える」という本だ、ダニエルタメット著。

このサヴァン症候群でアスペルガー症候群である、著者ダニエル少年は数式やその数列を風景や色形の中から見出すことができるという、この症例はいくつか聞いたこと読んだことがあるが、これら数字や幾何学を風景や視覚からどのようにして拾い出してこれるのかという謎は、このチャンギージーの理論を持ってすればかなり理解が深まるのではないだろうか。

ぼく自身、若い時から悩み事があれば山に入っていって木に向き合い、そして木に思いを打ち明けて、その回答を風や木や風景から受けることによって人生を進めてきたので、これら自然からある種の言葉や言語や文字、記号、幾何学が湧き上がるようにして見えるという経験はなじみ深いものだった。

それは太古の昔から人間に備わる能力だったに違いない、人は言語を介して人と向き合う、人は言葉を通して他者と語り合う、なので人は人としか繋がっていないという風に考えてしまいがちだ、けども、本書を読んでこうもいうことができるのではないかと思う。

人は自然を模倣した言語を介して人と向き合うし、人は自然界の音を模倣して他者と語り合うと、そこには人だけではなく、一度自然への模倣というものを挟んでいるのではないか、
もちろん現代人類にとって、機械やビルやAIやスマホのホーム画面や、メール着信音、アイフォンの着信音、といったものたちはもはや自然そのものであり、環境そのものといっていいだろう。

そこには新たな文字の出現があり、新たな言語の出現がある、都市部のビルや道路の生み出す直線の構図は、僕らの文字文化、視覚文化に影響を与えるのはもちろんだ、こういった僕ら人類はガウディやシュヴァルやフンベルトヴァッサーの建築に不思議な気持ち悪さを感じるだろう。それら建築は曲線による、自然模倣の解釈の一つとして、文化と共進化してきた人類の本能に訴えかけるものがあるはずだ。

ぼくにとって考えていた脳の機能についても、この本を通して、納得できるところが多々あった。ひとつにぼくは、ある種の反記憶主義者であるということ、ぼくは、アリストテレスの考えた脳観に賛同する。アリストテレスは脳の持つ機能は「ラジエターのようなもの」と考えていた、それは思考する場所ではなく、熱を冷ますための器官だと考えていたのだ。

ぼくらは教育また社会を生きるにあたっても無数の暗記試験に晒されて生きてきた。ことあるごとに書面に書かれた情報を、頭にコピペさせられる中で、ぼくは幼稚園の頃からうんざりしていた、なぜ書かれているものを覚えないといけないのかが分からない。テストという、先生が答え合わせをする、なぜ先生は答えを知ってるのに僕らに聞くのか?イジワルに思えた。

それは相変わらずいまだに思うことだ、ぼくらは明らかに脳のスペックを捉え間違っている、記憶や暗記がなんだというのだろう、だがぼくは、記憶そのものを毛嫌いするわけではない、むしろ愛している。

図書館の休館日も覚えられず、毎日通っては閉まっていたら別のところに行く。そこで人は覚えたらいいのにと言う、けどもぼくはいつも平常心であり、図書館の休館日、開かずの扉を見ても眉ひとつ動かさず移動する、そのようにして不測の事態の訓練をしているんだ。

話がそれた、記憶とはぼくにとって覚えるものではない、覚えないと覚えられない物事にどれほどの価値があるのだろう、ぼくは本を読む、心に刺さった言葉は忘れさせようにも忘れられないものだ、本の背表紙を眺めるだけで湧き上がってくる言葉たち、だからぼくにとって自分の本棚は膨大な記憶ボックスのようなものだ。

ぼくは記憶は脳に蓄えられるものだと考えていない、記憶とは僕らの外側に蓄えられるものだと考えている、風景や本棚、石ころや、間取り。それを見た瞬間記憶が湧き上がる。それこそが脳の能力なのではないか、その能力を突き詰めた人間の1人がプルーストだと思う、彼にとって紅茶の隣に転がるお菓子、マドレーヌの放つ香りが3000ページ以上の壮大な過去物語の記憶の扉だったのだ。

日本人で記憶力で思い出させるのは、南方熊楠だ、彼は幼少期に膨大な百科事典である和漢三才図絵を友人宅で読み漁り、暗記しては帰って書き写したという。また語学においても18ヶ国語を扱えたという博覧強記の知の巨人だ。ぼくは熊楠が好きすぎて自転車で足跡を辿る野宿旅までしたことがあるのだが、ぼくは熊楠を記憶ボックスだとは全く考えていない。

またひとつ後の世代で言えば折口信夫、この人は若い時から万葉集の全てをそらで詠むことができたらしい。

この日本の知の巨人2人は、ぼくはどちらかといえば、ダニエルタメットくんに似た、アスペルガー、サヴァン症候群に似たものがあったのではないかと思っている。熊楠はその膨大な記憶を自然や人物から引き出しているかのように思えるところが多々あるし、(それこそ白紙の紙の中に和漢三才図絵が見えたのかもしれない)

折口信夫においては、どちらかというと巫女のように、死者たちを自らに憑依させるようなところがある。怪しげな言い方をすれば万葉集を詠んだ作者、その死者を自らに憑かせて自分の口を貸すことで諳んじる、ようだったという。そんな風に時間を跨いで、記憶を引き出してくるような人だったようだ。(中沢新一は折口を<古代から来た未来人>と呼んだ)

また、上記のような様々な登場人物たちとエピソードは、これまさにぼくの記憶から湧き出てきたものだ、図書館の閉館日も覚えられないぼくがだ、これらのエピソードは覚えようとして覚えたわけでは決してない、心に刺さっていただけだ。湯浅政明アニメの「カイバ」には、それこそ心に残るセルフがあった。

「記憶が壊れても心の回路には残ってるんだ」

このセリフはそれこそぼくの心の回路に刻まれたものだ。そうだ、記憶などほっておけばいい、ぼくらには自然や風景から文字や記憶や言葉や音楽を引き出してこれる力がある。文字は作者が死んでも残るものだ、いまだに万葉集を読むことだってできる、そこでは死者の言葉が永遠に残り、その死者の言葉が心の琴線に触れたのなら、その死者をここにもう一度呼び起こし、同じように語らせることだってできるのかもしれない。

最後に、偉大な詩人のウィリアムブレイクの言葉を記そう。この言葉によって、ぼくは反記憶主義の種を蒔こうと思う。

「創造とは記憶の対極にあるもののことを指す」


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