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ゴッド・ハンド

 アボカドが好きだ。栽培したいと思うくらいに。

 だからどうしてもあの大きな種を捨てることが惜しくて、いつも水耕栽培を試みては同居人に「虫がわく」と詰られ捨てられている。

 大好きだから当然よく食べるのだけれど、どうにも自分は目利きが狂っているらしく、自分で購入したアボカドでは当たりに巡り会えた試しがない。

 だいたいいつも自分の期待よりも少し硬めのものを選んでしまう。そうして「このアボカドまだ早いんじゃない?」なんて感想をもらう羽目になる。

 美しく柔らかい大当たりのアボカドに巡り合うことはなかなかどうして難しい。熟した見た目と触った感触を頼りに選んでいるが、どうにも自分にはよく分からない。いつもスーパーのアボカドコーナーで一人格闘をしている。

 以前、近所の安売りスーパーでアボカドが1個29円というひどい値段で売られていたことがあった。通常自分の認識ではおよそアボカドの平均価格は100円を切ると「おっ、セールしているな」というくらいであったから、スーパーでどれほど自分が驚いたかはお察しいただきたい。

 喜びのあまり、つい3つも買ってしまった。しかし単価が29円なら3つ買ったって大体いつものアボカド1個の値段である。

 思いがけずたくさんアボカドを手に入れることが出来た私は嬉しさのあまり色々なレシピを漁って至上のアボカドディナーへのじゅんびを着々と進めていた。コブサラダにして、1個はディップ用に、そうしてもう1個は漬けのマグロと和えて丼に盛ってーー

 しかしである。

 いざ料理開始のその時を迎えて、私は飛び上がるほど驚いた。

 アボカドは腐っていたのである。

 種に沿わせるように包丁を入れ、いざご開帳とばかりにパカリとアボカドを左右に開いた刹那——灰色をしたアボカドの肉が現れて、思わず私はそっと開いた扉を閉じてそれをまな板の上に戻した。

 アボカドは厚い皮に覆われているから、中の状態を把握することが難しい。色と触感で選びはするものの、今でもおよそだいたい期待は裏切られている。

 しかしその時も私はアボカドにおける鉄則「色と触感」でもって数多山のように積まれた中から最上の3つを選んだ・・・つもりだったのだ。決して適当に選んだつもりはなかったし、当然《イケる》とおもっていた。

 結論から言うと、私が選んだ最上の3つはいずれも皆、腐っていた。

 ちょっと腐った部分がある、程度であればまだどうにかやりようもある。しかし私が購入したアボカドはいずれももはやそうしたレベルにはなく、皮を剥いた果肉が既にゾンビのような状態であり、これを食べたら自分も同じ様になるんじゃねえかという、そんな危惧さえ与える様な代物だった。

 この悲しみを一体何と表現したものだろう。まさか選んだ3つが全部死んでいるなんて思いもしない。今にして思えば買った全てが腐っていたのだから、ちょっとスーパーに文句の一つでも言ってやって良かったのかもしれないが、何せ1個29円の大特価品である。致し方ない・・・という気持ちが何よりも勝った。

 しかし、である。

 一度傾いた気持ちが元に戻ることはなく、自分はもう耐え難いアボカドへの思いをどうにも抑えることが出来ずにいた。そればかりか、ないとわかればいよいよ食べたい。

 私はアボカドを諦めることが出来ず、再びスーパーへ走った。

 そこには再び山と積まれた1個29円のアボカドーーもう失敗は許されない。二度とだ。慎重に手を伸ばす。

 じっくりと色を見て吟味する。真っ黒では熟れすぎだろう。しかし緑が淡ければ今日の晩御飯には食べられない。

 触感ももちろん確かめる。掌の中に収めて揉んでみる。硬いのはダメだ。しかし柔らかすぎたらまた同じ轍を踏んでしまう。傷はない方が当然いいが、野菜なんてだいたい表面は凸凹していた方がいいんだろう・・・しかし触れば触るほどにわからない。

 アボカドの山に手を突っ込んで次から次に色や感触を確かめてはみるものの、どれも皆先程の3個と変わりないように思えてならない。どれも皆大差なく思えるのだ。

 いっそ視界からの情報を全て絶って、己の手の感覚だけを研ぎ澄ませた方がいいんじゃないか。

 そうだ、大切なものは目には見えない。心の眼で感じるのだーーそう思って目を閉じてアボカドを片っ端から揉んでみたりもしたが、結局皆どれも腐った3個と大差ない。どれもイケる気がするし、どれもダメな気がする。

 結局何を感じ取ることも出来ないまま、私は大いなる選択を迫られた。

 ここで再び29円のアボカドを買うという大博打に出るか、或いは他所のスーパーで別のアボカドを買うかーー

 もしも前者の賭けに勝ったらさぞ気分はいいだろう。自分は賭けに勝ったのだ。大爆死した3個のアボカドのことも帳消しに出来るかもしれない。しかし所詮は29円という破格の価格で売られている品だから、最悪このアボカド全てが死屍累々と積まれた屍の山という可能性も捨てきれない。3つもハズれを引けばそういう最悪の想定だって容易に出来る。

 それなら後者は賢明な判断と言えた。通常の価格で売られていればさすがにこれ以上のハズレを引く危険性は低いと見るべきだ。おそらく間違いなく今晩の夕食にアボカド料理を並べることができる。しかし既にアボカドで100円以上の損失を被っている現状を鑑みれば、ここで更に追加の100円を出資するということについては当然躊躇しかない。

 私はアボカドが好きだ。そうしてこの日は特にアボカドが食べたかった。

 だから、選んだ結論はより確実にアボカドを食べられるという選択肢である。

 結局私はもう一つの別の店でもアボカドの目利きに悩み、1個100円のアボカドがゴロゴロ売られていたにも関わらず、もう二度と失敗出来ないという強迫観念から、1個150円もするという大玉のスペシャル品を買う羽目になった。

 アボカドの本場・メキシコ直輸入という素晴らしい大玉品なら、よもや開けてみたら死んでいたーーなどということはアステカの神に誓ったって絶対にないはずである。万に一つも裏切られて四度目の悲劇が起きたなら、その時こそ神を呪って殴り込みに来ればいい。何せ今度のそれは1個150円もする。最初の店で売られていた特価品の実に5倍という価格だ。都合250円もアボカドに出費するこの悲劇をわかっていたなら、初めからこのスペシャル大玉のアボカドを1つ買っておけば良かったのだ。

 握り締めたスペシャル大玉のアボカドのなんと素晴らしかったこと。大きさは語るに及ばず、凛々しくも艶やかな深みのある緑色がつるりと均一に輝き、丸みを帯びた美しく整ったフォルムはどの角度から見ても立派である。それでいて決して硬すぎず柔らかすぎない感触に、1個29円の雑魚たちを触りまくっていた私の右手は確かにほんの少しだけ不思議な震えを禁じ得なかった。

 なんてことはないーー自分の心眼やゴッドハンドなど端から信用せず、神が与え下された至高の一つを粛々と受け入れた方がよっぽどコストも安く済んだのに。決してメキシコのアボカド農家の回し者ではないが、それほど確かにーーそれは素晴らしいアボカドであった。

 安かろう、悪かろうという言葉がある。このときの教訓がまさにそれかもしれない。

 しかしそれでも自分のような庶民は値段に惹かれ、つられてしまう。現に1個150円オーバーの素晴らしい大玉品を買ったのはあの日あの時1度きりだ。

 ただ、それにしたって結局アボカドに250円も出費するなら、鶏むね肉でも買って唐揚げでも作った方がよっぽど良かったかもしれない。

 見分けるからくりを知っていたって、当たりを引き当てることは難しい。

 これが、見分けるからくりさえ分からないというのだから、人生に当たりやハズレなんてーーそんなの、ないも同然なんである。

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