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親切が大げさに評価されないのもいい

ラオスのカフェではサービスが素っ気ない。店に入っても笑顔で迎えてくれることもなければ、こちらに話しかける雰囲気もない。座りたい席に座ると、メニューをもってきてくれるが黙って戻っていく。注文しても「うん」という感じだし、お店を出るときに声をかけられることもない。

とはいえ、ラオスの人が親切ではないということではない。どんなで長い時間いようと嫌な顔は絶対にされないし、電源を貸してほしいと頼むとどこでも無条件で「OK」してもらえる。相対的に電気代が高いこの国では実に気前がいい。ゆっくりとゆったりと過ごせるので、ラオスのカフェは相当居心地がいい。

ただし、素っ気ない。レジカウンターにあるチップボックスにチップを入れても「ありがとう」もなければ何の反応もない。そういうことに、いちいち「ありがとう」と感謝の気持ちを返さない国のようである。この素っ気なさは嫌いではない。

この素っ気なさで思い出すのが、学生時代に行ったインドでも出来事だ。
混み合ったバスに乗っていたときのこと、大きな荷物を抱えたおばあさんが乗ってきた。すると近くにいた数人の男の人が、おばあさんの荷物を網棚に載せていた。おばあさんは一言もなく、手伝った男の人たちも何事もなかったように、知らん顔に戻る。

座っていた男の人は読み終わった新聞を隣の男性に無言で渡していた。受け取った男性も無言で新聞を読み始める。しばらく経ってから、最初に新聞を読んでいた男の人がひとりでバスを降りた。このふたりは知り合いでなかったのだ。

こんな光景を見て、インドではできる人ができることをするのは当たり前で、何ら親切の部類に入らないように思った。親切の価値があまり高くない。する方も何も期待していないし、される方も特段感謝の気持ちを伝えるほどのものではないと思っている節がある。

日本に戻ると、そのサービスの質の高さには改めて驚く。丼もののチェーン店やコンビニ、カフェなど最も庶民的なサービスのレベルが相当に高い。これは間違いなく日本の強さであろう。しかし、やりすぎではないかと思うこともある。

チェーン店のカフェに行くと、「お待たせいたしました」「いらっしゃいませ」「ご注文ありがとうございます」「またのお越しをお待ちいたしております」などなど、多くの言葉をかけてくれる。たかが数百円の飲み物を注文しただけなのにと恐縮してしまう。

そもそもサービスの提供者と受益者(お客)は経済交換という意味で対等なはずである。こちらは、のどが渇いた、座りたい、空調のあるところで時間を過ごしたいという欲求をかなえるためにお店を利用させてもらっているのであって、「ありがとう」はお互いさまである。お金を受け取る側が払う側より偉いというわけではない。

言い方が難しいのだが、親切や感謝が過剰に価値をもたない社会もいい。親切は相手から本当に求められた場合に発揮されるもので、それまでは静かに眠っていていい。小さな親切にいちいち感謝の言葉を返すのはお互いに疲れることはないだろうか。

もっと簡素なサービスでもいいのではないかと思う。気の利いた心遣いは嬉しい、気持ちがよくなるサービスももちろん何度も経験している。その上で、いまの標準的なサービスには過剰な部分があるのではないか。親切や感謝の価値がなくなってしまう社会は空虚だが、それらが過剰に価値を持つ社会もどうなんだろう。

恐らくチェーン店などでは、話し方もマニュアル化されているのだろう。それは相当精緻に出来上がっていると思うが、多くのお客さんを相手に、あのサービスをこなすのに疲弊してしまうのではないか。各社とも同様の展開をしている現状を考えると、過剰なサービスによる消耗戦に見えなくもない。

経済は基本的に、人と人が等価交換する場であり、そこから人と人の関係性が生まれる場である。いまのサービスも、その原点から断捨離してもいいのではないか。

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