料理の暗黙知をどう身につけるか

レシピは目安にすぎない

料理を始めて4ヶ月、レシピを見ながらどうにか作ることはできるようになった。しかし家庭の食事を切り盛りする技術という点では、まだまだだ。

最近ようやく気づいたのは、レシピは目安でしかないということである。「じゃがいも中2個」「人参1本」などと書かれていても、そもそもじゃがいもや人参の大きさは一つずつ違う。それに対し「醤油大さじ1」と書いてあっても、味の誤差は相当幅広くなる。目安に過ぎないというのは、「醤油大さじ1、みりん大さじ1」と書いてあれば、醤油とみりんを同じくらい入れるということであり、それ以上でもそれ以下でもない。その上、味覚は好みなので、レシピより醤油を多く入れる方が好みに合うこともあり、どのくらいの味にするかは、まさに「塩梅」の世界である。

レシピが目安である以上、レシピ通りにつくるという段階は、野球に例えると素振りをしているようなもので、基本動作の練習である。素振りでは同じスイングを繰り返すとしても、試合になれば投手の投げる球筋に応じて自分のスウィングを変えないと、ボールを芯でとらえることはできない。料理も同じで、素材の量や他の料理との兼ね合いで、それぞれ味付けを調整する。

これがつい最近までできなかった。「じゃがいも2つ、人参1つ、玉ねぎ1つ」と書いてあると、その通りの量の食材を用意しないと不安でしょうがない。まだまだ実践のボールを打つことはできない段階だったのだ。

食材の量に応じて調味料を変える。これも塩梅だが、そもそもレシピにある材料でないと料理ができないとも限らない。肉じゃがの食材には、牛肉、じゃがいも、しらたき、人参、玉ねぎ、絹さやが定番だが、牛肉がなければ豚肉で代用しても構わない。人参がなくても、代わりに大根を入れてもいいのではないか。じゃがいもの入っていない「肉じゃが」でもいいかもしれない。それはもう「肉じゃが」と呼べないかもしれないが、そもそも名前のついているものだけが料理ではない。料理の名前も「目安」に過ぎず、ある材料の組み合わせでつくるのが、本来の料理であり、家で料理をつくっている人はそういう料理が自然とできるのだろう。

レシピは形式知を表すものである

こんなことを考えていたら、経営学で使われる「形式知と暗黙知」の話を思い出した。形式知とは、言語化しやすく人に伝えやすいスキルや知識である。暗黙知とは、言語化しづらく、文字などを介しては伝えにくい知識である。名刺を渡す際には、相手が読みやすい向きで渡すというのは形式知の典型例であろう。それに対し、商談でどのようなタイミングで価格交渉を始めるかは言語化しづらいが、熟練の営業パーソンが無意識にしている暗黙知である。暗黙知の特徴は、状況に応じて変化し、習得している人も言語化できないことである。

レシピは料理における形式知を表現してくれる。目安というのは基本だが、基本通りでうまくいかない場合についてすべてを記述できない。これがレシピの限界である。実際の料理は暗黙知にあふれている。

テレビなどで地方のおばあちゃんが、地元の食材を使って鍋で調理をする場面を見かけるが、醤油やみりんを「どばどば」と鍋に無造作に入れるシーンを見ると、まさに暗黙知を感じる。鍋にある食材の量を見ると、自ずと入れるべき調味料の量がわかり、それを手の感覚と視覚を頼りに調整している。初心者から見るとこれは神業で、こういう暗黙知はどうすれば獲得できるのだろうか。

料理の暗黙知をいかに習得するか

経営において暗黙知の共有には、一緒に作業をすることがあげられる。新人の営業パーソンがベテランの商談に同行し、顧客への提案内容とそのタイミングの妙を学ぶ。100分の1ミリ単位で削る機械工スキルも熟練者の仕事を見ながら、少しずつその感覚を学ぶ。

料理の場合、親から子へとその技術は伝承される。特に昔は母親が娘に料理を手伝わせることで、多くの女性は料理の技術を自然と覚えたに違いない。熟練者の技を見る、そして経験を重ねる。暗黙知を習得する王道である。しかし方法はこれしかないのであろうか。もっと手早く料理の塩梅を手に入れたい。

糸口は、過去のあらゆる経験を総動員させることではないか。料理をしてこなくても、思い出せば、誰かが料理をしている場面を見た記憶が思い出せる。カウンターのお寿司屋さんで見た、包丁の置き方一つとっても記憶が知識に変わる。料理の回数は少なくても、食べた回数は人生に比例する。これまで食べてきたものを思い出せば、一口サイズの野菜の大きさなども見当がつくというものだ。

僕の場合、社会人になって大半を外食に頼ってきた。だから料理ができないのだが、この外食の経験も料理に生きるように思える。どこかで食べた食材の組み合わせや、意外な調味料の組み合わせ、それにプロの盛り付けの例など、これまで数えきれないほど見てきたことになる。

料理に求められる発想力とは何か

つまり、料理のプロセスに必要な技術は未熟でも、完成形のイメージは意外と多く頭に入っていることに気づく。イメージを具現化する力は弱いが、少なくてもゴール(完成形のイメージ)があれば、習得すべきスキルが明確になり、上達の糸口になる。先日、豚汁を作っていてあるポルトガル料理を思い出した。それは、豚肉とじゃがいもとアサリを一緒に炒めたものだ。この料理を思い出して、豚汁にアサリを入れてみたら、濃厚な出汁となってとても美味しかった。外食の経験が生きたのだ。実践の乏しさは、イメージする力で軽減できる。

実践の領域に足を踏み入れると、見えるものも違ってくる。
レストランで出される食事についても、以前とは比べ物にならないくらい「見る」ようになり、観察の記憶が知識へとつながっている。何気なく見ていたものが、目的意識を持って見ていると、学びの宝庫へと変わるのだ。
食べたいものに関しても敏感になる。脂っこいものが食べたいか、酸味のあるものを欲しているのか。こういう感覚のメッシュが細かくなってくる。

先日出席したクックパッドのカンファレンスでは、料理は「具現化力と発想力」という話があった。ここでいう具現化力は、料理という形に仕上げる、具体的な料理のスキルであり、発想力とは、何を作るか、どんな料理にするかをイメージする力である。

具現化力には、形式知の要素も多く、レシピなどで学びながら経験を重ねることで身につくものだろう。一方の発想力は厄介でもあり、希望でもある。「何を作るか」には正解はなく、慣れた人でも人それぞれの答えを出す。状況が変わることで答えも変わるし、人それぞれの記憶や好みを反映する。これが希望でもあり武器となる。これまでの味わってきたもの、出されたものが発想力の源泉となり、その中で自分の中に培われた「好み」が決め手になる。

料理は自分の知覚してきたものが総動員されたものであり、同時に、料理をすることで、知覚が研ぎ澄まされ、自分の知覚に意識が向くようになる。

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岩佐 文夫

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